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私の知らない私

胸の靄が消え去った。胸の痛みもなくなった。痛みを忘れた私の胸は、いつしか幸せに満ち溢れていた。

「どうしたんだ?名前、鼻歌なんか歌ってよぉ」

「え?鼻歌!?そんなもの歌ってた?」

「無意識とは…おや、もしかしてナツくんと上手くいったのか?」

「な、そ、そんな訳ないでしょ!変な事聞かないでよね、マスター」

「…その反応は…まぁいい。仕事はちゃんとしてくれよ?」

「いつもしてます!」

最近ああやってマスターがからかってくる事が増えた。特に何かあった訳でもない。ただ、先日の出来事があってから、私の心境が少しばかり変化しただけで、それ以外の事は何一つ変わってはいないのだ。

「腹へったー!カルボナル大盛り頼む!」

「あ、もう!ナツ!まだ開店してないんだけど!」

「いつもの事だろ?つか、いい加減その言葉も聞き飽きたなぁ〜」

「はぁ?聞き飽きたって…はぁ。言うだけ無駄か…」

「それはそうとよ、早く作ってくれよ、カルボナル」

「カルボナー…はぁ。これも言うだけ無駄か…」

「痴話喧嘩はよしてくれよ」

「痴話喧嘩じゃありません!!」

「おーおー!若いってのはいいねぇ。俺はちょっくら買い出しに行ってくるから、店の事頼むぜ?名前」

「あ、もう!マスター!」

逃げるように店から出ていったマスターを見つめて、相変わらず気をきかせているのか、なんなのか分からない人である。
小さくため息を漏らしながらも、カウンター奥にある調理スペースに足を運べば、いつの間にか私の背後にナツが立っていた。

「ちょ、何してるのよ。そこにいたら作れな…」

「…ちょっと黙っとけ」

「…」

背中から感じる温もりに、お腹へと回された筋肉質な二の腕に、首筋に感じる呼吸音に、私の身体の全機能が一時停止した。停止したはずなのに、バクバクと一人煩く響いているのは、胸の鼓動の音だった。

「…な、何してるのよ…こんな…ところで…」

「…別にいいだろ。してぇって思ったんだし…」

「そ、そうだけど…」

「名前はしたくねぇのか?」

「そ、そんな事は、ないけど…」

「…なぁ」

「何、」

「ちゅうしてぇ」

降り注ぐキスの雨に、身体の力が抜けていった。抵抗出来ずにただただナツからのキスを受け入れている私は、私じゃない気がしてたまらない。私はこんなはずじゃなかった。こんな気持ちになるなんて、おかしい。私じゃない。私の知らない私の部分に、戸惑ってばかりだ。なのに、何故か、そんな私を嫌だと感じないものだから、とても、とても、タチが悪い。

こんな自分は、大嫌いだ。
大嫌いなはずなのに、心は身体は幸せで満ち溢れていた。