彼と最後に抱き合ってから二週間が過ぎていた。
こんなにも連絡がこないのは珍しい。何かあったのかと心配になりつつも、仕事終わりにスマホを見つめれば懐かしい名前が表示されていた。
『今晩、一杯どうだ?』
シンプルな短文だが、グレイからこのようにお誘いが来るのは珍しい。だが私は彼からの連絡が素直に嬉しかった。久しぶりに会う幼なじみはどんな風になっているんだろうか。
そんな期待を胸に私も短文で『19:00に駅前』とだけ打ち込んで、人の少なくなった会社を後にした。
「よぉ」
10分前に駅につけばグレイの姿があった。相変わらず時間にルーズじゃないんだなと思えば、少しばかり頬が緩んだ。
「おまたせ!」
「おう!久しぶりだな。元気にしてたか?」
「グレイこそ!ジュビアちゃんとは順調?」
「だから付き合ってねーってなんべん言えばわかんだよ、お前は」
久しぶりに会ったグレイは以前よりも少し髪が伸びて、大人びた感じがした。
そのあとも他愛のない会話をちらほらとしながら、二人でいつもよく行っていた居酒屋へと足を進めていく。
居酒屋につけば、やはり人気のためかとても賑わっていた。だが、グレイの計らいで事前に予約をしてくれていたようで、掘りごたつの席へと案内された。
「相変わらず用意周到というか、準備万端というか、ジェントルマンだね、グレイ」
「普通だ、普通。気にすることはねぇよ」
席につけば互いにいつも飲み慣れているお酒を注文し、前菜を口へと運びながらも「お疲れ様」とグラスとグラスをぶつけ合った。
ざわざわと人の声で賑わう居酒屋が、今の私にとってとても居心地よく感じた。
「変わんねぇな。お前も」
「ええ?そうかな?少しは美人になったとかそんなのないの?」
「あるわけねぇだろ。お前と俺の仲なんだしよ」
「ええ〜親しい仲にも礼儀あり?じゃない?」
「それ言葉の使い方間違ってんぞ、お前」
それからテンポよく会話が続いていたら料理が次々とテーブルの上を埋め尽くしていく。
仕事の話、互いの近況、昔話。彼との会話は尽きることがなくて、久しぶりに沢山笑った気がした。
お互いいい感じに酔ってきて気分もよくなったところで、本題ともいえる会話をグレイが話し始めた。
「…お前、まだあいつと連絡とってんのか」
「…………うん」
グレイが言うあいつとは多分ナツの事だろう。グレイとナツと私は高校が同じで、学生の頃はよくつるんでいたのを思い出す。
そんなグレイの問いかけにこれから何を言われるかと予想がついていたので、少しばかり心が痛んだ。
「懲りねぇ女だな。いい加減現実に目を向けろよ」
「……」
「いつまでたっても辛い立場は変わんねぇぞ」
「…うん、そうだよね…」
グレイの言葉が私の心へと深く突き刺さる。彼の言っている事は何一つ間違ってはいないからだ。
だが上手く答えが出せずにいた私をみて、グレイが小さくため息をはく。
「…俺は、お前に、幸せになってほしんだよ」
「……」
「…学生ん時からずっと、お前に幸せになってほしいって思ってた…」
「……うん、」
熱を帯びたグレイの瞳を見れば、更に私の心は酷く痛んだ。私は彼の言いたいこと、そして彼の思いを随分前から知っていたからだ。
グレイならばこんなにも傷つくこともないだろう。グレイならばこんなにも涙を見せることさえもないはずだ。
幸せになれるのはどっちかなんて、誰がどうみても彼だと答えるだろう。
そんなことは随分前から分かっていた。
頭ではそう理解していても、彼の香りを、彼の体温を、彼の欲情を知れば知るほど離れる事ができなくなっていた。
幸せになんてなれない、そう思っていても私の身体は、私の心は躊躇なく彼を求めてしまうのだ。
泣き出しそうになる私を見つめ、優しく背中を擦ってくれた。
どうしてこんなにも私は駄目な人間なんだろう。
どうして自分で決断することができないんだろう。
どうして彼じゃないと、駄目なんだろう。
どうして、どうして。
私はただ
彼が好きなだけなのに。
ポロポロと目から流れ落ちる涙をグレイが優しく拭ってくれた。
彼もまた私の心境をよく知っていてくれて、私の事をいつも理解してきてくれた。
私の今の状況が、私にとってとても辛く悲しい事さえも彼は知っているんだ。だからこそ、重たい口を開いてくれて私の事を心配してくれている。
そんなグレイの優しさにさえ、素直に甘える事のできない自分をとても惨めに思えた。
その時だった。
「……グレイ、」
聞き慣れた声が背後からしたのだ。聞き間違える事のない声が。
振り向こうとすれば、それを阻止するかのようにグレイに強く抱きしめられた。
『見るな』とグレイの心の声が私の心へと語りかける。
グレイはその後も言葉を口にする事はなかった。それは彼も同様で、グレイの名前を一度呼んだだけで直ぐ様この場を立ち去って行った。
だが立ち去って行くその瞬間、ほんのりとだが甘い香水の香りがした。勿論これはナツの香水の香りではない。
これは、ナツの……あの子の香りだ。
いつもナツの服から香る、甘ったるいあの子の香り。
『ナツはあたしのもの』と強調しているようなあの子の香り。
その香りを嗅ぐたびに吐きそうになる。
その香りを嗅ぐたびに心が壊れそうになる。
その香りを嗅ぐたびに自分がどんどん惨めになる。
自分が壊れる音がした。目から溢れる涙を堪える事ができなくて、グレイの胸で涙を流した。