船を、降りよう。
ここまで思い詰めたのは初めてだった。
「……どうしても出て行くのか、なまえ。」
「うん、出て行く。」
私が最小限の荷造りをしている隣で、ベンはタバコを燻らせていた。
甲板では、夕方から始まった宴のドンチャン騒ぎが、変わることなく続いている。
「お頭には、ちゃんと話したのか。」
「ううん、言ってないよ。」
「……。」
「よしっ、完了。」
そろそろパタンパタンと、クルー達が雑魚寝に入ることだろう。
心なしか、ドンチャンもおさまりをみせている。
「…怒るぞ。」
「えぇ?」
「お頭。」
「…あぁ、……ううん、そんなことないと思うよ。」
「……?」
「きっと、今までよりも、笑顔が増えると思うよ。」
ひまわりのような、太陽のような、笑顔。
……ほら、今の私じゃこんな陳腐な言葉しか使えない。
だんだん気分が卑屈に暗くなっていくのを感じる。
「ベン、今まで、お世話になりました。」
「……。」
「お世話ついでに、最後のお願い、きいてくれる?」
「…なんだ。」
「持ちきれなかった荷物があるの。あそこの服とか。あれをね、次の島で売って、お金にして欲しいの。」
「……。」
「それまでは、見つからないように隠しておいてね。」
「…お頭から、か。」
「うん、そう。」
「……。」
「それから、クルー達にも、よろしく言っておいてね、元気でって。」
「……。」
「あと…、あの、タバコは控えたほうがいいよ。」
「余計なお世話だ。」
「ハハッ。」
ドンチャンは、いつの間にかやんでいる。
「じゃあ、あの…、さよなら。」
「……なまえ」
「ん?」
「……いや。」
なんでもない、と笑い、ベンは私よりも先に部屋を出てしまった。
なんとなく心細くなりながら、ベンが部屋に戻るのを確認し、ドアノブに手を掛けた。
月が、出ているようだった。
足音と気配を完全に絶ち、新月の日を狙えば良かったと思った。
けれど今日を逃せば、もうダメな気がした。
逃せば、このまま一生、ずるずると、なし崩しになってしまうような。
そんなのは、嫌だった。もうあんな表情をさせたくないし、それ以上に見たくなかった。
甲板では、案の定クルーが平和な寝息を立てている。
少し、心が安らいだ。
ほとんど毎日行われる宴の雰囲気も、後かたづけも、みんなの二日酔いも。
まとめて、大好きだった。
そして、本当に唐突に、景色が一変した。
浮遊感と、背中への強烈な痛みがおそう。
目の前には、恐ろしいくらい無表情の、お頭がいた。
「……っ。」
予感はしていた、むしろ確信と言ってもいいかもしれない。
この人を出し抜くなんて、出来るわけがないのだ。
分かっていたけれども、声がでない。
「……こんなでけぇカバン持って、何処行くつもりだなまえ」
「……!」
体が震えているのが分かる。
組み敷かれていることを抜きにしても、私は指一本、自分で動かすことが出来ずにいる。
視界が、揺れ始めた。焦点があわない。
口はカラカラに渇き、息がつまる。
「勝手に離れて……許されるとでも、思ったのか。」
冷たい言葉が、降る。
「……逃げ切れるとでも、思ったのか。」
「絶対ぇ、放さねぇぞ、何がなんでもだ。」
片腕で器用に私を担ぎ、船内へ入るお頭。
いつの間にか、私は泣いていた。
びしゃびしゃと、お頭の肩を濡らす涙。
降ろされたのは、船長室のベッドの上だった。
相変わらず醜く縮こまっている私をお頭はじっと見ている。
「俺のそばに、いるのは嫌か。」
悲しい音色が響いた。
違う、と言いたかった。
違う、そうじゃないのだ、と。
お頭のそばにいる、何もできない私が、あなたの笑顔を、どんどん消し飛ばしてしまう私が、嫌なのだと。
言いたかった、けれど言えなかった。
「でも、駄目だ。」
そう言って、お頭は静かに私を抱いた。
私は本当に、本当に、絶望した。
*****
絶望
((なにも、出来ないの。))
((そばに居てくれるだけで、良いんだ。))
09/0827