中在家先輩の心遣いに背を押されて、六年長屋、食満先輩の部屋の前まで来たところまではよかった。
だけど、いざここまで来てみると、障子一枚がとてつもなく重い錠前で閉じられた門のように感じられて、僕はなかなか中に声を掛けることができずにいた。

中在家先輩のおかげで、部屋に入る口実はきちんと用意されている。
だが、だからといって好いた人の部屋に気軽に入っていく勇気は僕にはなかった。

やっぱりこのまま図書室に戻ってしまおうか、でもそうすれば中在家先輩の折角の好意を無下にしてしまうようで嫌だ、いっそ自室に帰ってしまおうか、いやいやそれこそ本末転倒ではないか。

迷って迷って、こんなときに忍者の三病にあたる自分の迷い癖が腹立たしい。
こんなとき三郎だったら何の躊躇いもなく戸を開け放ち、部屋に入っていくんだろうなと、今はここにいない同室者を思い浮かべた。

だからだろうか。

「おい、誰だか知らんがいつまでもそこに突っ立ってんな。用があるなら入ってこい」

不意に部屋の中から掛けられた言葉にびくりと肩を震わせてしまった。
不幸中の幸いは、情けない声を出すことだけは避けられたことだろうか。
しかし、声を掛けられてしまったなら、答えぬわけにはいかないだろう。
僕は意を決して障子に手を掛けた。

「…五年ろ組、不破雷蔵です。失礼します」

「ああ、不破だったか。…で、何か用か?」

とりあえず座れ、と先輩の正面に敷かれた座布団に「ありがとうございます」と腰を下ろし、さっそくとばかりに腕に抱えた一冊の本を差し出す。

「あの、これ、中在家先輩からです。お薦めだから読んでみるといい、と…」

中在家先輩。
僕がその名を口にした瞬間、わかりやすい程に先輩の肩が跳ねた。

「…食満先輩?」

「いや、何でもない。…長次から、か…、わざわざすまなかったな」

「…いえ。それから、大したことではないんですが、ここのところ図書室にお見えにならないので、その、心配になって…」

「あー…、そうか。…心配かけて悪かった。最近ちょっと忙しかったからな。」

ははっ、と何でもないように笑う様子に、何故だか無性に苛立った。

「…嘘だ」

「…は?」

「何か理由があるから、図書室に来なくなったんじゃないんですか。だって、おかしいじゃないですか、今まで忙しくったって、それでも図書室には来られてたのに…っ」

「っ、不破!」

叫ぶように呼ばれて、すっと頭が冷えた。

「…すみません」

「いや。…お前、なんで俺が図書室に通ってたか知ってたのか?」

「…はい」

肯定すれば、そうか、と呟いて暫しの沈黙。
どことなく気まずくて声を掛けようとしたけれど、先に口を開いたのは先輩だった。

「何故、図書室に行かなくなったかだったな」

「はい」

「…告白、したんだ。三禁なのは承知の上で。叶わないことは知ってたから、振られたって平気だって思ってさ。…でも、」

そこで先輩はくしゃりと顔を歪ませた。
今にも泣き出しそうなのを堪え、眉間に皺を寄せて。

「長次は、受け入れることも、拒むこともしなかった」

「それ、は…」

どういう意味ですか。

問おうとした声は、結果として空気を震わせることなく舌に絡まって溶けて消えた。

先輩が、泣いていた。
嗚咽を漏らしているわけではない。
子供のように声をあげているわけでもなく。
ただ、静かに伏せられた瞳から、ツゥ…と一滴の雫が頬を伝って深緑色の袴に落ちて消えた。

それを目にした瞬間、僕は何も考えられなくなって。
気が付けば、先輩を強く抱き締めていた。

「おいっ、離せ!不破!」

「っ先輩、辛いなら…悲しいなら、我慢しないで泣いてください。…今、僕からは先輩の顔は見えませんので。」

初めはジタバタと腕の中で抵抗していた先輩は、だけどやがて僕の胸元に顔を埋め、静かに肩を震わせていた。

僕だったらこんな風に先輩を泣かせることはしないのに。
先輩の背を撫でながら、僕も少しだけ泣いた。




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