執事さんが部屋から出て行ってもう何分経ったのだろう。手元にある紅茶を口に運べば既に冷め切っていて、まるで今の彼の心のようだと思った。


(…行かなくては)


執事さんが拾っておいてくれたのだろうか。ベッド脇に丁寧に置かれていたシルクハットをかぶり部屋を出る。彼は北側の裏口を開けておいてくれると言っていたから、そこから出よう。


(できるだけ静かに)

彼に気付かれないように


(できるだけ何も考えずに)

何も知らぬ彼に縋ってしまわぬように


(彼に、会わないように)

私の心が壊れてしまわぬように


ガチャ、という音と共に開いた扉の隙間から溢れる光が身を包む。薄暗い屋敷に目が慣れてしまっていた私は少し深めにシルクハットをかぶり直し歩き出す。

一歩踏み出し、青空の下へ


(だめだ、)


頭から追い出した筈の彼の声が耳の奥で私の名前を優しく呼ぶ。甘い幻想を頭から再び追い出し無心を装い直す。


(振り返っちゃいけない)


もしそこに彼の姿を見つけてしまったら

彼にもう一度刃先を向けられてしまったら

もう一度現実を突き付けられてしまったら


心が、壊れてしまうから

一度も振り向く事なく屋敷を出る。昨日は薄暗かったせいか不気味に見えたがなかなか美しく整備された庭をゆっくりと歩いていく。何も考えず前だけを見て。昨日通った、あの裏路地へ歩いた。

冷静に、無心に。昨日彼を追って通った道を辿っていく。段々と大きくなる街の音に顔を上げればそこにはいつもの景色。


「あらレイトンさん、今日はこんな所で謎探し?」


ふふ、と笑う顔見知りの女性に挨拶を返す。いつも通りに、親愛の笑顔を浮かべて。


「えぇ。ですが今日はもう帰る事にします」

「そうなの?じゃあまたね」


気を付けて。と手を振った彼女にぺこりと頭を下げまた歩き出す。


(思いの外、笑えるものだね)


違和感の欠片もなく笑顔を返せた自分に驚いた。さっきまであんなに苦しかったはずなのに、今は何も苦しくない。


(そもそも何をそんなに苦しんでいたんだっけ)


ぼんやりとした頭で自宅の鍵を開ける。そういえば昨日は紅茶を買いにいったまま戻らなかったからルークが心配しているかもしれないな、と思いながら部屋へと向かう。


(後で謝らなきゃ)


ゆっくりとソファーに腰をおろし窓を見つめる。その先に広がるのは雲一つない青空。


(そういえば今週は講義の予定がなかったな)


なんとなしに窓を開ける。少し冷たい風が頬を撫で、風がカーテンを踊らせる。再びソファに身を沈めれば、ふわりと部屋に染み付いた紅茶の香りが風に舞った。


(懐かしい香りだ…)




『デスコール』

『何だ?』

『君、紅茶の香りがする』

『?あぁ、どうやらマントに染み付いてしまったようだな』

『いい香りだね』

『君と同じ香りだな』




「………」


ぽた


「……、」


ぱたたっ


「ッ…ぁ…」


溢れた涙がソファとシャツを濡らしていく。ぽろぽろと零れ続ける涙で視界が滲む。


「っく、…あぁっ…」


拭っても拭っても涙は止まらない。


「ジャ、ンッ…、ジャン…!」


彼は私を覚えていない。その事実がぎりぎりで保たれていた私の心を押し潰す。



「あああ…あ、ぅ、ああああ…ッ」



お願いだよデスコール、もう一度私の名前を呼んで愛してると囁いて。






苦痛の螺旋
(この痛みを消す方法を教えて)


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