「ジャン…?」


背に回した腕を解き彼を見上げればぽたりと落ちた雫が私の頬を伝った。次々と落ちるそれはまるで雨のように私を濡らしていく。月光に照らされた白磁の仮面から透明な雫が滑り落ちる様はとても美しかった。


「ッエル、シャール…」


戸惑うように呼ばれた名前に胸が締め付けられ、目頭が熱くなる。

彼はまだ状況が掴めていないのか暫く呆然と私を見つめていたが、自分が私の上に乗っている事に気付くとすぐに退いてくれた。自由に動けるようになった私は起き上がり彼の顔を正面から見つめる。彼の涙で濡れた私の頬を、新しい雫が伝った。


「思い、出したんだね」


震える声でやっとそう一言言葉にする事ができた。一度溢れ出した涙はなかなか止まってはくれなくて、横隔膜が時折ひくりと痙攣する。それでも胸に溢れる思いをとにかく伝えたくて、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。


「ずっと…ずっと祈ってたんだっ…君の記憶が戻るようにって…もう一度君にっ…抱きしめ…て、ほし、くて…っあぁ、本当に…本当に良かった…!」


溢れる思いを全て言葉にすることは叶わなかったけれど、そんな事はもうどうだってよかった。彼がここにいて私の名前を呼んでくれる。それだけで充分だった。

愛しい彼に手を伸ばす。強く抱きしめて、強く抱きしめ返して貰おう。そしていつものようにキスをしてほしい。いつものように微笑んで、名前を呼んでほしい。きっと私はそれだけでとても幸せになれるから。


「ジャ」


彼の名前を呼ぶ前にぱしん、と乾いた音が部屋に響いた。目の前で起きたことに脳が追いつかない。


(いたい…)


呆然としたままジンジンと痛みを訴える左手に目をやれば、少し赤くなっているのが見えた。少し遅れて先程の音が何だったのかを理解する。

伸ばした手を払われたんだ。彼に。


「ど、して…?」


緊張によって引き絞られたように狭くなった喉からどうにか吐き出した言葉は酷く小さく掠れていた。だから聞き取れなかったのだろうか。彼から返事はない。黙ったままの彼に益々混乱する。


(記憶は戻ってはいなかった?いや…そんな筈はない。彼は確かに私をエルシャールと呼んだ。それに、彼の様子から見て記憶が戻ったと考えていい筈だ)


なら、どうして?


彼に拒絶された理由が理解できない。歓喜に震えていた心は今は恐怖に怯えている。


(折角記憶が戻ったというのに、こんなのあんまりじゃないか…!)


ぽたりと涙が頬を伝って床に落ちる。

先程まで確かに幸せだったのに、どうしてこんな風になってしまうのだろう。私はただ、彼を愛してるだけなのに。

もうわけがわからなくて考える事さえ嫌になって。ただ俯いて涙を流す事しかできなくて。


「私には」


突然空気を揺らした彼の声に顔を上げる。苦しそうに顔を歪ませて苦い物でも吐き出すように彼は言った。


「君に触れる資格などない」


(触れる…資格…?)


困惑する私に彼は途切れ途切れに言葉を紡いでいく。


「記憶が、戻ったんだ」

「分かってる…だから私はっ」

「だが、今日までの記憶は消えた訳じゃない」


私の声を遮るようにそう言った彼の顔はとても苦しそうで、胸が締め付けられた。一度ぎゅ、と唇を引き結んだ彼は一呼吸置いて続けた。


「君に、切っ先を向けた事も」


「君に酷く冷たい言葉を吐いた事も」


「記憶が戻る前に私が君にしようとした事も」


「全て…この身が覚えている…!」


だから、と彼がその次の言葉を発する前に私は彼を抱きしめた。彼が何を言おうとしているのか分かったし、これ以上彼の苦しそうな顔を見たくはなかったから。

彼は私の腕を離そうと動くがその力は酷く弱々しいもので。本心がどうあるかなんて一目瞭然だった。


「エルシャール…離してくれ…私はもう、君を傷つけたくはないんだ…っ」


唸るように言った彼の言葉に首を振って腕に力を込める。


もう離してしまわぬように


失くしてしまうように


「ジャン…私はね、君が傍にいてくれれば、それだけで幸せなんだよ」

「エル、」

「だから」


声が震える。抑えていた涙がまた溢れ出して、彼の顔が歪んで見えた。


「もう…どこにも行かないで…」


そう言って彼の首もとに顔を埋める。あとはかすれた嗚咽が漏れるだけで、思いを言葉にする事さえできない程に涙が零れ続けた。


「エル…シャール…」


耳元で彼の声が聞こえた。次の瞬間何か温かいものに包まれ、彼に抱き締められているのだと分かった。


「ッ…ジャン…」

「泣かないでくれ…もう君の悲しむ顔は見たくない」


私を抱きしめたままそう聞いた彼の声は震えていて。私にはそれがとても愛しく思えた。


「違うよジャン…私はね、君が傍にいてくれるのが嬉しいんだ。私は今、とても幸せなんだよ」


彼の腕の中で彼を見つめ、頬を撫でる。きつく抱き締められた体が少し痛んだが、それさえ幸せである証拠なのだと微笑みが漏れた。

いつの間にか雲に隠れていた月が顔を出して部屋を薄白く染めあげる。月明かりに反射してキラキラと仮面を飾る水滴に唇を寄せ小さなキスを送った。


そして数秒見つめ合い、どちらからともなく口付けを交わす。



月明かりに照らされた二人の男の姿は、とても美しく、とても幸せそうだった。



「…おかえり。ジャン」

「ただいま…エルシャール」






君の隣で
(名前を呼んで。いつまでも)


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