用事を済ませて屋敷に戻った私は、彼が来ていると聞いてすぐに彼の待つ部屋へと向かった。
彼に会うのは約十日ぶりだったし、こんな時間に彼が訪れるなんて事は今までなかったから驚いたが、そんな事より早く彼の顔が見たかった。
彼の為に用意させた新しい茶葉もあるから、それを飲みながら久しぶりに話すのも良いだろう。そんな事を考えながら彼の待つ部屋のノブに手を掛け、そのままガチャリと扉を開いた。
「…あ…」
扉を開けば目の前に目を見開いた彼が立っていた。彼の位置と様子から、丁度扉を開けようとしていたのだろう。
「久しぶりだな、レイトン」
固まったままの彼に声をかければ、ゆるりとした動作で彼が顔を上げる。
雨に濡れたのだろうか、髪やシャツは濡れていて、彼のトレードマークであるシルクハットも湿っている。
(このままでは風邪をひいてしまうな)
彼の服装にちらりと目をやり思案する。濡れたままの服を長時間着ていれば流石に暖かい部屋の中でも風邪を引いてしまうだろう。
(…着替えを用意させるか)
ならば服が乾くまでの間着替えを貸してやろう。そう思いそれを伝える為彼に視線を戻したが、彼の瞳を見た瞬間、提案の言葉は飲み込まれ、身体が強張った。
「……ジャン…」
彼の口からぽつりと紡がれたのは確かに私の名前だったが、彼は私をファーストネームでは呼ばなかった筈だ。浮上する疑問と同時に言い知れぬ違和感が胸に沸き上がる。
「おい、レイトン」
「ジャン、ジャン…」
違和感を胸に抱えたまま呼びかけてみるが、聞こえていないのだろうか。彼はうわごとのように私の名を呼び続けるだけだ。不安そうに紡がれる自分の名に違和感が肥大する。まるで目の前の私が見えていないかのように私の名を呼び続ける彼に耐えられなくなり、彼の肩を掴み揺らした。
「レイトン!私は此処にいる!」
半ば叫ぶ様にそう言えば、彼は俯かせていた顔を上げ私を見た。途端に彼は安堵の表情を浮かべゆるりと私の背中に手を回した。
「…ああ、ジャン…会いたかった…」
突然の行動に対処できず動けない私の胸元に顔を埋めそう言った彼にざわりと胸の奥が揺れる。彼の頭からとさりと水分を含み重量を増したシルクハットが床に転がった。
ああ駄目だ。理解しようとするな。胸の奥の何かがそう咎めたがもう遅かった。違和感が、確信に変わる。
彼が見ているのは"ジャン"であって、私ではないのだ。彼の目に映るのは彼の中の思い出としての私。今この場にいる私は、彼の求める私じゃない。
そう理解してしまえば、彼との時間も、胸の痛みも、彼の存在も、簡単に私の中から抜け墜ちていく。この胸に残るのは冷たく濁った感情だけだ。
(ああ、簡単な事じゃないか)
彼は最初から記憶のない私など見てはいなかったのだ。彼が飽きずに私の元へ訪れたのは"ジャン"の面影を追いたかったから。彼が紅茶を飲みながら微笑みを向けたのは私ではなく、"ジャン"。私は彼が思い出に縋る為だけの道具に過ぎなかったのだ。
歪んだ口元から自嘲が漏れた。先程まで胸の奥でくすぶっていた生ぬるい感情はいつの間にか冷めきっていた。
ああ、なんて簡単で、くだらない。
「離せ」
下ろしていた両腕で胸にすがりつく彼を突き飛ばした。ごん、と鈍い音を立てて倒れた彼を冷たく見下ろす。
(実に不快だ)
何が不快なのかは自分でも分からなかったが、そんな事はどうでも良かった。何にせよ目の前の男がその根源である事に変わりはない。
「ッ…デス、コール…」
上体を起こした彼は正気を取り戻したのだろう。私を見上げ狼狽した表情を浮かべている。様子からして先程までの自分の行動を覚えているのだろう。どうにか弁解しようとあ、だとかその、だとか言葉にならない短い声を上げている。しかしその様子さえ私には酷く不快に思えて、黒く汚れた感情が思考を染め上げた。
「驚いたな。君にそういう趣味があったとは」
「ぁ…違うんだっ!あれは…!」
蔑むようにそう言ってやれば、違うと否定する彼に笑いが漏れる。ああ、今の彼は酷く滑稽だ。
「違う?じゃあ君は男に意味もなくああやって甘くすり寄ってみせるのか。まるで娼婦のようだな」
「違う!私はそんな事!…ぐっ、」
必死に違うんだと首を振る彼に近付き肩を踏みつけ床に押し付けた。苦痛に歪む彼の瞳は私だけを映していて、少しだけ不快感が和らいだ。
(ああ、最初からこうすれば良かったのか)
「痛っ…デスコ、ル…退いてくれ…!」
「愛しの"ジャン"に助けでも求めてみたらどうだ?」
「…ッ」
彼の見開かれた瞳に映っているのは私だけだ。"ジャン"などではなくこの、私。
その事実に気分が高揚する。ああ、彼を壊してしまえば、彼はその瞳に私だけを映してくれるだろうか。
(これは支配欲か。それとも)
最早何の感情から来るものなのかも分からなくなった衝動が私を突き動かす。これがどんな感情なのかなんてどうでもいいし知りたくもない。ただ、彼の瞳に映るのは私だけで充分だ。だから
全て、壊してしまおう
肩から足を退かし彼の上に覆い被さる。近くで見れば彼の瞳には涙が滲んで痛々しいが、それよりその瞳に映っているのが私である事に満足し唇を歪める。一瞬頭に電流のような鋭い痛みが走ったが、気にせず彼の服に手を掛けた。
「デス、コール…?何して…」
「折角来てくれたんだ。君の要望に応えてやろうと思ってね」
怪訝そうに眉根を寄せた彼もする、と腹を撫でた私の手に事態を把握した様だ。服の下に侵入しようとした手をぐ、と押さえられた。
「なにをっ…」
「おや、"ジャン"とは恋人だったんだろう?」
「っ…ああ、そうだよ…私達は恋人だった…だけど君は…!」
「記憶を失った?」
彼の言葉を遮るようにそう言ってやれば、彼は苦しそうに顔を歪め俯いた。そのまま黙り込んでしまった彼に私はならば、と続ける。
「何故友人だなどと偽った」
「ッ…それは、君に拒絶されるのが、怖かったんだ…だから、私は」
俯いたままそう言った彼の顎を掴み目を合わせる。悲しみに彩られた表情を見た瞬間、また鋭い痛みが頭を突き抜けた。
「その程度の関係だったんだろう」
自らの吐き捨てた言葉に痛みが増す。それが頭の痛みなのか胸の痛みなのかは黒く塗り潰された思考では判断できなかった。
「違う!私達はっ…!」
「私達?ははっ!違うな。君と、ジャンだ」
(そうだ。私じゃない)
「どうして、そんな事を言うんだい…?ジャンは君じゃないか!」
「ああ。確かに私はジャン・デスコールだ。だが、君の求めるジャンじゃない!」
「君は君だよデスコール!記憶を失ったって、私は…私は君を愛してるんだ…!」
「黙れ!違う…!お前が愛しているのは私じゃない。お前は私の中に過去の私を見ているだけだ!」
悲しみに歪んだ顔でそう叫んだ彼に自然と口調が荒くなる。思考はもうぐちゃぐちゃだ。ああ、頭が割れる様に痛い。吐き気がする。呼吸が乱れて息が苦しい。
(いや、違う)
胸が、苦しいのか
「…ジャン」
「違う」
両腕で抱え込むように頭を押さえる。聞きたくないのに彼の声はするりと私の耳へと入り込む。
「ジャン」
「止めろ」
彼の温かい手が頬に触れる。私は知らない。こんな感情も、彼の手の温かさも、知らない。知りたくない。
「ジャン」
「黙れ!もうお前の知る私は居ない!」
頬に触れる彼の手を振り払い叫ぶ。これ以上彼に触れていたら何かに気付いてしまう気がして、怖かった。
(ああ違う!私は、私は…!)
「ジャン」
もう一度呼ばれた名前と自分を包む温もりに気付いた時には上体を起こした彼に抱き締められていた。恐る恐る彼の瞳を覗きこめば、そこに映っていたのは確かに私で。彼から伝わる体温と声に、今まで私を苦しめていた痛みが嘘の様に消えた。
『ジャン』
脳裏に蘇るのは笑顔で私を呼ぶ彼の顔
「…ッ…あぁ…!」
月明かりに照らされた部屋の中
仮面の下を熱い雫が伝うのを感じた
交差する想いは
(交わり、とけて、そして)