気掛かりな遺跡やレポート。もちろんそんなものはない。思考を埋めるのは彼の事だけ。
窓際の壁に背を預ける。固く冷たい床が今の私には心地いい。静寂に包まれる部屋に雨の音だけが響いている。相変わらず外は雨だ。最後に彼の屋敷を訪れた時からずっと雨が降り続いている。
(もう十日も彼に会ってない)
雨のせいではない。彼に会ったら何かが変わってしまいそうで、この関係を壊してしまう気がして、それが怖くて会いにいけなかったのだ。しかしその間も彼の事ばかりが頭をよぎって、気がどうにかなってしまいそうだった。
「はぁ…」
もう何回目かも分からない溜め息を吐き窓を見上げる。止む気配すらない雨は窓硝子を水面の様に揺らし、それに比例して床に映る影もゆらゆらと揺れる。
その影に手を重ねるように床に触れてみるが、当然影は掴めない。触れているのに触れられないそれが、まるで彼の様に思えて、胸が締め付けられた。
(会いたい)
むくりと起き上がった衝動は今まで私を縛り付けていた恐怖心さえ押しのけて私の思考を支配する。分かってる。私が本当に会いたいのは彼で、彼じゃない。それでも、会いたくて仕方がない。
ゆるりと立ち上がりオレンジシャツの上にコートを羽織りシルクハットを被る。そのまま部屋を出てドアを開ければ、外には誰も居なかった。もう日も落ち始めているし、こんな雨の中出掛けようとは思わないのだろう。
(彼に、会いたい)
衝動に突き動かされるまま誰も居ない往来を傘もささずに歩き出す。足を踏み出す度にびしゃりとコンクリートの上に溜まった水が跳ねて足元を濡らすが気にもとめずに歩き続けた。
何度も通った路地裏を抜け、彼の居る屋敷へ。水に濡れた庭を抜けノックをすれば、いつも通りに微笑みながら執事が扉を開けてくれた。しかし私の姿を見るとすぐに表情が険しくなる。
一瞬どうしたのだろうと考えたが、自分がびしょびしょに濡れている事を思い出した。
「こんなに濡れて…どうなさったのですか」
「傘が、壊れてしまって」
我ながら下手な嘘だと思ったが、それ以外に思い浮かばなかったのだから仕方がない。
「…では西側の部屋でお待ちください。すぐにタオルをお持ち致しましょう」
彼はきっと私の嘘に気付いているのだろう。しかしそれ以上何も聞かずタオルを取りに行ってくれる所、本当に優秀な執事だと思う。
彼に言われた通りに部屋に向かう。そこは初めてこの屋敷に来たときに寝かされていた部屋だった。彼の面影が沢山残る部屋。
床に敷かれた絨毯を靴に付いた泥で汚してしまわぬようになるべく動かず扉の近くに立つ。そこから部屋を眺めていれば、幾分か思考が落ち着いた。
(冷たい…)
思考が落ち着くと共に体温の低下に体を震わせる。水を含み重量を増したコートとべたりと背中に張り付いたシャツが気持ち悪い。今まで平気でいたなんて信じられないくらいの不快感に顔をしかめているとガチャリと扉が開いた。
「レイトン様、これをお使いください」
「ありがとうございます」
差し出されたタオルは見た目通りの柔らかさで、きっと質の良い物なのだろうと思いながら濡れた体を拭いていく。
「コートはお預かり致しましょう」
「いや、しかし」
「御心配なさらずともお帰りの際には乾いているでしょう」
「…じゃあ、お願いします」
「お任せください」
いきなり来てそこまで世話を掛けるのは気が引けたが、彼も引く気はないらしい。素直に濡れたコートを脱ぎ渡せば優しく微笑まれた。
「旦那様は今丁度出掛けておりますが、もうすぐお戻りになられるでしょう」
それまで此処でお待ちくださいと礼儀正しく一礼し、彼はコートを片手に部屋を出ていった。
「………」
暫く水分を拭き取る事に没頭していたが、どのくらい経ったのだろう。
ぽた、と毛先から落ちた水滴がズボンに染み込んでいくのを見ながら考える。つい先程まで彼の事で一杯だった頭は、体温が下がったせいか冷静に働き、衝動に抑え付けられていた恐怖が戻ってくる。
どうして私は此処にいるんだ
今彼に会ったらどうなってしまうか分からないというのに
自分を抑える術など知らないというのに
「…帰ろう」
(今ならまだ、戻れる)
彼が帰ってくる前に屋敷を出よう。もう少し落ち着いたらまた来ればいい。衝動のままに行動してしまうような危うい状態で彼に会うような事はできない。レイモンドさんには悪いけどコートは預けたままにしておこう。もし取りに行った時に彼に会ってしまえばどうにもできなくなる。
また衝動が沸き上がらない内にとノブに手を掛け回そうとした。が、それは私が回すより早くガチャリと音を立てた。
(駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!)
頭に鳴り響く警鐘に従おうとする理性に逆らい身体は勝手に顔を上げた。
そこに居たのは求めて止まない彼
私の愛した彼
愛しい人、ジャン
「……あ…」
「久しぶりだな、レイトン」
何かが、溢れた
戻れない
(幸せなあの時間には)