「行ってきます」


まだ眠るルークに小さくそう言って、心配をかけないようにとベッドの傍に置き手紙を残して家を出る。

開けた扉の外に広がる景色は何もかもがいつも通りで。空だけがいつもより青く見えた。


(…さて、確かこっちだったかな)


人混みを抜けて裏路地へ入り、昨日見つけた屋敷を目指して歩く。記憶は酷く曖昧なものだったから道が合っているのか心配だったが、そんな心配はいらなかったようだ。暫く路地裏を進んでいけば、見覚えのある庭が見えた。

屋敷が視界に入った瞬間安堵とも恐怖ともつかぬ感情が胸に広がる。


(大丈夫…決めたじゃないか)


何があっても、彼の記憶を取り戻すと


深く息を吸い気持ちを落ち着かせる。握った左手にじとりと汗が滲んだ。ゆっくりと扉に近づきノックをすれば、彼の執事が顔を出した。彼は私の姿を確認すると扉を開けた。


「どうぞ中へ。紅茶をお淹れ致しましょう」

「いや、今日は」

「旦那様に会いに来られたのでしょう」


後に続く筈だった言葉を先に言われてしまい言葉に詰まる。彼はそんな私を屋敷に招き入れると一つの部屋に案内した。


「こちらでお待ちください。すぐに紅茶をお持ち致しましょう」


案内された部屋は客間だろうか。部屋の中心に趣味の良いアンティーク風のソファーと、それと同じデザインのテーブルが置かれている。見かけほど固くもないソファーに腰を下ろし繊細な装飾の施されたテーブルに指を滑らせた。

そういえば彼の作る機械のセンスは残念だけれどこういう物に関してはとても趣味が良かったと思い出す。


(彼は前から…)


いつの間にか浸ってしまっていた彼との思い出にはっとする。私は今の彼に会いに来たんだ。思い出に縋りに来たわけじゃない。しかし彼の痕跡が多く残るこの部屋に一人で居ると心が揺らいでしまいそうで心細くなる。


「レイトン様、紅茶をお持ちしました」


そんな私の心情を見透かしたようなタイミングで戻ってきた彼に安堵した。こぽこぽと注がれる紅茶の香りが部屋に淡く広がる。


「この香り…」

「行き着けの店で仕入れた紅茶でございます」


カチャ、とティーカップを優しくテーブルに置き彼はそう言った。


(私の家にあるものと同じ紅茶だ)


優しい香りも喉を滑る渋みの少ない味も、私が愛好しているものそのものだ。思わぬ小さな偶然に緊張が緩んだ。


「お気に召しましたかな?」

「ええ。とても」


落ち着いた気分のままそう返せば、それは良かったと彼は微笑んだ。そしてすぐに表情を戻しこう口にした。


「旦那様はこの部屋を出て右側の突き当たりにある自室にいらっしゃいます」


ティーカップを持つ指先がぴくりと震え紅茶の水面が微かに揺れる。


「何かありましたらお呼び下さい」


紅茶に視線を合わせたまま言葉を返せないでいる私に彼はそう言い残して部屋から出て行った。暫く紅茶を片手に扉を見つめていたが、カチャリと紅茶をテーブルに置き立ち上がる。


「…私も行かなくては」


部屋を出て右側へ真っ直ぐ歩けば、自分の足音だけが薄暗い廊下に響く。何故かそれが私の不安を煽るものだから、何も考えずただ長い廊下を歩いた。


「あ…」


気付けばいつの間にか彼の部屋の前に着いていたようで、目の前には一つの扉。

ゆっくりと重い右腕を動かしノックをすれば中から了承の声が聞こえた。


「失礼するよ」


出来るだけ自然にと出した声は震えていなかっただろうか。イスに座った彼は私を一瞥するとまた君かと呟いた。

その言葉に感じたずきりとした痛みを無視して一歩彼の方へ足を進める。


「デスコール。君と話がしたい」

「話?生憎私には君とする話などないのだが」

「ほんの少しでいいんだ」

「残念だが君に割く時間はない」


彼の長い指が机を鳴らす。彼が苛ついている時の癖だ。でも、私だって引くわけにはいかない。


「せめて、話を聞いてほしい」

「君もしつこい男だな。帰れと言っているのが分からないのか?」


冷たい目が私を射抜く。私がひゅ、と息を吸うのと同時に背後で扉の開く音がした。


「お呼びでしょうか旦那様」

「お客様がお帰りだ」

「待ってくれ、私は」


まだ君に何も伝えられてない、と言おうとしたがまたあの瞳で射抜かれ言葉にならなかった。


「レイトン様、お送り致しましょう」


そんな私を見かねてか執事さんが扉を開ける。デスコールは私に興味など欠片も無いとでも言うように背を向けている。

その背中を見て思う。今私が彼に何を言ったところで聞いてはくれないだろう。いや、それ以前に話をする機会さえ与えて貰えなかったのだけれど。

執事さんに背中を押され部屋の外に出る。ぱたん、と扉が閉まる音と共に震えが走る。覚悟していた筈の言葉は思いの外私の心を深く抉っていたようだ。


(胸が痛い)


廊下を歩きながら胸を押さえる。足音は二人分だからだろうか、あまり気にならなかった。


「すぐに、という訳にはいかないのでございます」

「え?」


いきなり話し始めた彼に驚き思わず聞き返せば、彼は前を向いたまま話し続ける。


「紅茶を淹れてから蒸らす事が必要なように、何事にも時間が掛かるのでございます」


屋敷の扉の直前でそう言った彼の優しさに気付き一礼する。どこがでずっと感じていた不安も焦燥も不思議と消えていた。


「また明日来ます」


扉に手をかけ力強くそう言った私に、彼は紅茶を用意しておきましょうと微笑んだ。





また明日
(焦らずいこう、君はそこに居る)


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