海底から見上げる水面はゆらゆらと揺れて、太陽の光が薄い布を透かしたような柔らかい光となって降り注ぐ。
(あたたかい)
揺れる光に手を伸ばす
キラキラと輝く水面が近付く
優しい光が体を包む
そして
その手を取ったのは
「…ッ!!」
スルリと衣擦れの音を立てて肩からシルクの毛布が落ちる。息が苦しい。まるで直接肺を握られているような圧迫感が胸を侵す。
連れて来られた時に着せられたらしいサイズの大きい白シャツを握り締め鼓動が静まるのを待つ。どくんどくんと脈打つ鼓動と呼吸の音がやけに大きく頭に響いた。
「……、」
溜めていた息を吐き出しゆっくりと瞑っていた目を開けた。心臓は静かに脈動している。落ち着いた頭で部屋を見渡せば、場所は変わらず、目覚めたのはあのベッドの上だった。
(あの後また眠ってしまったんだ…)
窓に目をやれば既に外は明るく窓からは太陽の日差しがやんわりと差し込んでいる。もう1日が経過してしまったらしい。
「失礼致します」
礼儀正しいノックの後に、柔らかくもはっきりとした声がドアの向こうから聞こえた。思考はそこで中断され、声に視線を向ける。
「おや、もうお目覚めでしたか」
がちゃりと扉を開けた老執事は私を見るとそう言って優しく微笑んだ。あたたかい笑い方だ。不思議と心が落ち着くような、そんな笑い方。
「 」
(あ)
あの、と言い掛けてから、自分の声が彼に聞こえない事を思い出した。喉を押さえ困った私を気遣うように、彼は言う。
「無理はなさらずとも大丈夫でございます。この屋敷は安全ですから、安心してお休みください」
彼の言葉に、俯く。安心など、できる筈がない。してはいけない筈だ。こんな、自分がどこに居るのか、何故居るのかも分からない状況で。人間の、居る場所で。
(だけど)
(なんだか、落ち着く…)
雰囲気と言うか、物腰と言うか。彼の言葉や行動は不思議と私を落ち着かせた。人間界に来てからは人間に気を許すなんてことは一時もなかったのに。
(でも、良い人だと決まった訳じゃない)
見掛けや物腰が善良であっても、本質は分からない。それが、人間なのだから。
「あぁ、そうでした」
窓を開けて空気の入れ替えをしていた彼はふと何かを思い出したようにそう呟くと部屋から出て行った。
数分後に戻ってきた彼は銀の台を押していた。その上には、美しくも落ち着いた色合いの食器が揺れている。
「朝一番の紅茶をお淹れ致しましょう」
彼はそう言うと食器を取り出して何かを準備し始めた。
(紅茶…)
確か聞いた事がある。それは人間の飲み物で、とても良い香りがするのだと。
不思議な形の容器からこぽこぽとカップに注がれてゆく透明な赤茶色の液体を見つめる。
(まるで夕焼けを反射した海みたいだ)
「どうぞ」
カップに溜まった紅茶に海を重ねていれば、目の前にカップを差し出された。ゆらりと赤茶の水面が揺れる。
「………」
差し出されたカップを無碍に押し返す事もできず、恐る恐る受け取る。確かに香りはとても良いが、飲んでも平気なのだろうか。
不安の為なかなかカップに口を付けない私の横で、暫く様子を見ていた彼が動いた。
「少し失礼致します」
彼の声に紅茶から視線を上げれば、同じようにカップに注いだ紅茶を飲む彼が見えた。
(あ…)
こくりと紅茶を飲み干した彼は静かに皿の上にカップを戻し言う。
「ちゃんと美味しく淹れられていますな。…貴方も、どうぞ温かい内に」
(もしかして…私が安心して飲めるように…?)
ゆっくりと、カップに口を付ける。そしてカップを傾けて、一口。ごくりと喉を滑り落ちていった紅茶はじんわりと体を温めた。
(美味しい!)
口にしたことのない味だ。渋みがあるかと思えばほのかに甘く、香りが体を包んだ様。その美味しさに思わず彼を振り返れば、彼は嬉しそうに微笑んだ。
微笑み
(少しだけ、心が溶けた気がした)
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