「助けてくれ!頼む…!た、助け」
パンッ
乾いた音が空気を揺らした。音の発生源である黒い鉄の塊を下ろした男は目の前で物言わぬ肉塊と化した男を冷めた目で一瞥するとくるりと振り返った。
天窓から差し込む月明かりに照らされたそこは酷く荒れていた。
デスクやイスは放り出されコンピューターは中身を剥き出しにしてバチバチと火花を散らせている。コンクリートの床には敷き詰められたように硝子の破片が散乱し、歩く度にじゃりじゃりと不快な音をたてた。
そんな異様な場所を飾る極めつけは無造作に転がった屍の数々だった。屍は皆一様に白衣を身に纏っている。彼等は研究員だったのだ。
つい、先程までは。
しかし突如現れた仮面の男…―デスコールによって研究所は一瞬で壊滅させられ、研究員達は呼吸を止めた。
「レイモンド」
暫く研究所を見回していたデスコールは視線はそのままにいつの間にか後ろに控えていた老執事…―レイモンドに声をかけた。
「は、旦那様。別棟に居た研究員の方々にも速やかにご退場頂きました」
そう答えたレイモンドにデスコールはそうか。とだけ返し歩き出し数歩先で足を止めた。見下ろす先には一匹の大型犬。体毛は所々抜け落ち荒れた皮膚が見えている。足に繋がれた鎖が擦れたのだろう。剥き出しの肌に血が滲んでいた。
「惨いな」
既に冷たくなっているそれに視線を落としたままデスコールは言ったが、仮面のせいでその表情までは読み取る事ができない。
「此処では許可されていない動物実験が行われていたようです」
「ああ。そのようだ」
レイモンドの言葉に頷き顔を上げたデスコールの目に映るのは多くの実験動物。犬や猫、鼠に兎に鶏に猿。中には目にしたことのないような生物もいた。
そのほとんどはデスコールが来る前に息絶えていたが。
「旦那様。まだ息のある動物達は如何致しますか」
床に散らばった書類を拾い上げ読んでいたデスコールはいや、と返した。
「残念だがもって数時間の命だろう。これを見てみろ。そこに倒れているのに使われた薬品と同じ物が全ての動物に投与されている」
レイモンドに書類を渡しまた歩き出したデスコールにレイモンドが続く。二人以外に音をたてる者が居なくなった静かな研究所に、足音と硝子を踏む音だけが響いた。
「待て」
突然止まったデスコールにレイモンドは旦那様、と声を掛けたが片手で制された。
「水の音だ」
ぽつりとそう呟いたデスコールにレイモンドは耳を澄ませる。確かに水の音がした。水を滴らせたままの雑巾を床に落とした時のような音が。
「まだ残っていたのか?」
「リストの研究員には全員ご退場頂いた筈ですが」
「確認しに行く」
「はい。旦那様」
マントを翻し音のした方へと歩き出したデスコールとレイモンドは廃墟と言っても過言ではないだろう研究所を奥へ奥へと進んでいく。裏で活動していたと言っても設備は一流らしい。転がる機械は全て最新式の物だった。
「この男は…研究員か?」
デスコールは一際大きな水槽らしきものの前で足を止めた。足下に横たわるのは布一枚だけを身に纏った、一人の男。男と周囲のコンクリートが水浸しになっているところを見ると、さっきの水音はこの男がたてたのだろう。しかし、横たわる男に意識はない。微かに上下する胸から呼吸をしている事は分かったが、それ以外は謎だった。
「やはり研究員のリストには載っておりませんな」
「じゃあ一体…ああ、そういう事か」
男を観察するように見ていたデスコールは何かに気付いたらしくレイモンドに男の首と足に着けられた物を見せた。
細い首には何らかのの機能を持つのだろう機械でできた首輪。右の足首には鎖が繋がっている。それらが意味するものを考える事は容易だった。
「人体実験…ですか」
「ああ、そのようだ。そんな噂を耳にした事はなかったが…あの連中ならやりかねん」
男の前にしゃがみ込んでそう言ったデスコールにレイモンドは口を開いた。
「この方はどうされますか?」
「連れて行く」
レイモンドの問い掛けに答えたデスコールの腕には既に一枚の布に巻かれた男が抱かれている。
「畏まりました。旦那様」
青白い月明かりが差し込む荒れ果てた研究所の中、仮面の男とその執事は紛れ込むかのようにするりと闇に姿を消した。
その腕に一つのはじまりを抱いて
出逢い
(運命か、必然か)
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