「ボクはしあわせです。」
くすんだ白の部屋。簡素なベッドしかないその空間で、淡い水色を動かすこともせず、掠れた声がそう告げた。誇らしげに横たわるシワだらけの顔が、その消え入りそうな言葉の真実味を物語る。
「僕も。」
そう答えた笑顔は半分だけが本物で、残りの半分は偽物だった。もし彼が「しあわせだった」と、現在形ではなく過去形で言ってくれたなら、僕も心から笑えたかもしれない。彼のおかげでしあわせな人生を手に入れた。その事実はどうしたって否定のしようがない。しかし今、共に生きる未来が失われようとしているこの瞬間にしあわせだけを感じることは、僕にはどうしても出来なかった。徐々に力を失くしていく彼の手を握っていることに言い様のない不安を感じた。
それ以上の返答を紡げず、ただ、彼の骨ばった手を握る。若い頃の柔らかさなどとうに失くしたその手は、代わりにそれまで経験した思いのすべてを深く刻んでいる。「まだ一緒にいたい」。そんな僕の甘えた胸の内など見抜いているであろう彼は、無言のまま目尻のシワを深くした。
「ありがとう、ございました。」
一言一言、ひどく愛おしげに吐き出された言葉を形見に、彼は瞼を閉じた。瞳の奥の優しい水色が再び姿を現すことはないのだと、その場に集った誰もが理解していた。
「そのタイミングは狡いな。」
彼は強い人だった。僕など到底敵わないほどに。それでも、握った手は僕と同じ、年相応の弱さを漂わせていたから。
「『ありがとう』、僕も、言いたかったよ。」
弱みを見せたくないと、同じ位置に立っていたいという願いが言わせたそれはきっと、ただの強がりだった。
出て来てくれない真っ直ぐな言葉の代わりに、目から溢れた水が頬の上、刻まれたシワに染みていく。直視しても交わらない視線に、不謹慎にも少しの安堵を覚えた。
静かな別れだった。