むらさき(粋)


 最近仲間うちで囁かれている怖い噂がある。まだ陽も昇りかけの時刻、暗い森の中に青白い影がぼうっと浮かび、その姿を見たものをさらっていくというのだ。
 白。補食動物であれば獲物に逃げられ、獲物であれば簡単に捕らえられてしまう色。
 弱肉強食の厳しい森の中で目立つ事と死は同義に近い。特に自分達が暮らしている森、極めて優れた頭脳と能力を兼ね備えた"主"のいるこの森では、そんな目を引く色を持つ生き物が暮らしていくなど有り得ない事だ。もし存在するとしたら、それはきっと"お化け"のようなもの。誰かが造り出した架空の存在だろう。
 誰もがそう考え、噂を耳にしたものは皆一様に「これはよくある不思議な話の一種だ」という認識でその噂を片付けようとしていた。

 しかし時が経つにつれ、曖昧な噂は真実味を帯び始めた。身近で、実際に見えるかたちで被害が出始めたのだ。それは氷室の周りも例外ではなく、実際に身内をさらわれる者も現れた。正体も目的も謎に包まれたまま、その生き物への警戒だけは日々強まっていた。

 そして、昨日。ついに氷室にとっての大切な存在がさらわれていった。
 彼は咲いたばかりだった。ひと一倍大きな体を持ちながらつぼみを膨らませるのは遅かった彼。やっと開いた濃紫色の花は「後輩のくせに」とけちを付けたくなるほど堂々としていて、その花びらが自分に注がれるはずだった陽を遮っても、文句を言うどころか、彼が陽を受けて気持ち良さそうに伸びをする姿をいつまでも眺めていたいと思ってしまうような、隣にいられる事に感謝したくなるような、そんな立派な花だった。
 今、彼がいた場所には、置き土産である花弁一枚だけが残っている。陽の光は真っ直ぐ自分のところへ届き、焦がすように花弁に照り付ける。

 (眩しい。)

 惜しみなく降り注ぐ陽光への秘かな憧れを捨て切れずにいた。けれどそれを手にした今、満たされるはずの心は喪失感ばかり訴える。

 (…会いたい。)

 気付けば、どうすればまた彼の隣にいられるようになるのか、そればかりを考えていた。




 …




 夜明けの薄明かり、澄んだ空気の中で静かにこだまする足音。軽く跳ねるようなその音は、氷室が今までに聞いた事のないものだった。

 (来た。)

 カツン、と地を蹴る硬質な音はひづめによるものだろうか。目を向けると、そこには薄い水色の生き物がいた。珍しい色だ。今にも空気に溶けてしまいそうな…。
 何か探し物でもしているのか、その白鹿は辺りをキョロキョロと見回しながら歩いている。朝靄の中に浮かび上がる青白い影はこの世のものと思えないほど幻想的で、自然と目で追ってしまう。
 ふと、視線が交わった。しまった、気付かれた。そう思った時にはすでに遅く、鹿は重さを感じさせない足取りでこちらへと近付いてくる。
 氷室の前まで来た時、鹿は空の青とも花びらの青とも違う深い色の瞳を瞬かせ、ペコ、と頭を下げた。

 「おはようございます。いつも綺麗に咲いてくれてありがとう。」

 傷付ける事象とは一切無縁に見える唇は、連続誘拐事件の犯人としてはおよそ不似合いな丁寧過ぎる挨拶を紡ぎ出した。まるく輝く瞳は河原の水際で陽を浴びる小石のようで、氷室はただ見惚れる事しか出来ない。いつだったか、この不思議な生き物を見たという仲間が「目にすると動けなくなる」と言っていた事を思い出す。今なら解る。彼はきっと、この鹿の不可侵の美しさに当てられたのだ。風に吹かれる事すら困難に感じる、今の氷室と同じように。

 「早速ですみませんが、一緒に来てほしいところがあるんです。」

 鹿は、身動きひとつ出来ずにいる氷室に顔を近付けた。ちょっと、失礼しますね。囁くような謝罪に続いて柔らかな唇が氷室の身体を軽く食み、地面から引き抜く。朝方のひやりとした空気に一瞬だけ震えた身体は意外にも恐れは感じず、ただいつもより高い目線に空を飛んでいるような錯覚をした。

 華奢な脚が地面を蹴る毎に刻まれるリズム。微かに弾む息遣いは、唇にくわえられた氷室をあたたかく揺らす。
 何をこんなに急いでいるのだろうか。心地よい振動にうとうとしながら、氷室は考えずにはいられなかった。敵に追われているわけではない。とすると、何かを待たせているのか、それとも。
 ちらりと鹿の瞳を窺ってみる。ただでさえ見慣れない生き物だ。まして暗い森の中では特に表情は読み取りにくくなる。しかし、瞳の奥に一瞬だけ垣間見えた光を氷室は見逃さなかった。憧れのような、澄んだ思慕。
 自分はきっと『プレゼント』なのだ。誰か憧れの相手への、力の弱いこの鹿なりの、精一杯のプレゼント。目が合う前、辺りを見回していたのは、より美しい花を選んでいたのだろう。それならば隣にいた彼が花を咲かせてすぐにさらわれたのにも納得が行く。彼は誰よりも輝いていたから。
 相手を喜ばせたくて一生懸命なこの鹿は、氷室にとって、もう恐怖や憎しみの対象ではなくなっていた。

 …でも、この鹿が進もうとしている先は。

 その道のりの先にある危険を知らせるため、出来る限りの力で身体を揺らす。この先には"主"がいる。近付いては危ない。けれどもその警告に鹿は気付かない。歩みを止める代わりに、揺れ動いたせいで不安定になった氷室が落ちないよう押さえ込む唇の力を強め、足早に歩を進めていく。
 もし"主"に見つかってしまえば、こんなか弱い草食動物などは難なく仕留められてしまうだろう。そんな事にはさせたくない。それなのに。

 氷室の願いも空しく、鹿の脚は休まず動き、主のねぐらとの距離を着々と縮めていく。確か、ねぐらはあの木を過ぎた辺り。
 カツン、…カツン。
 ねぐらの前で立ち止まる鹿に氷室は驚くばかりだった。まさか、この鹿が贈り物をする相手というのは…?

 鹿が頭を下げてその口から氷室を離すのと、赤毛の獣がねぐらから勢いよく飛び出すのとは、ほぼ同時の事だった。叫び声を上げる間もなく地面に押し倒され、狼の腕の中にすっぽりと収まってしまった小柄な身体。小刻みに震えているところを見ると、どうやら自分の憧れていた相手の正体までは分かっていなかったのかもしれない。

 「…君がいつも、ここに来ているの?」
 「…はい、め、迷惑なら止めます」

 先程聞いたのと同じ丁寧な言葉。けれど震える唇は先程と同じ音色を奏ではせず、瞳の奥で存在感を放っていた光も弱々しくなっている。
 放り出された氷室には、今にも取って食われそうなその鹿を見守る事しか出来ない。今まで無事にやり過ごせた事が奇跡だったのだ。贈り物の相手がこの主では、自分より先にさらわれていった仲間達の無事も期待できない。仲間を救えないなら、せめてこの鹿が今日ここへ足を運ぶのを阻止し、この鹿だけでも救えれば良かったのに。
 氷室の刺すような視線に目もくれず、主は鹿だけを見つめてニヤリと笑った。しかし、こぼれ出たのは想定外の言葉だった。

 「そうだね、迷惑だよ……だから、ずっとここに居てよ、離れるな…許さない」

 鹿は目を見開いた。あまりの衝撃的な言葉に、ふたりのやり取りを側で聞いていた氷室も耳を疑い、視線を移して狼の鋭い瞳の奥を窺う。そこにあったのは、鹿の瞳の中に隠れていたのと同じ光。

 「…え?」

 やっとの事で口から出したその一言。狼は今度は優しく笑う。それは、鹿が溢した言葉が"拒絶"ではなかった事への安堵にも見えた。

 「僕に、」




 …




 赤毛の狼と水色の鹿は一緒に暮らす事になったらしい。一見狼がそれを強制したようにも見えたが、鹿の瞳にはまたあの光が戻っている。

 「主ねー、あの鹿からのプレゼントが本当に嬉しかったみたいだよ。オレ達の事、すごい優しく扱ってくれたんだー。あの鋭い爪で掴まれた時はちょっと怖かったけど。」

 寄り添うふたりを微笑ましく眺めていると、氷室より早くさらわれてここに来ていた紫原が持ち前ののんびりとした様子で主の事を教えてくれた。毎朝あの鹿が訪れるのを本当に楽しみにしていた事、鹿が来ない悪天候の日にはすこぶる不機嫌だった事、届けられたプレゼントの花たちをそれは大切に扱い、ふかふかの土をわざわざ運んで来て花壇のようなものまで作ってくれた事。
 自分が伝え聞いていた主の姿とあまりに違うその様子は、鹿の幸せを願う氷室を安心させるものだった。少なくとも今自分が目にしているふたりに偽りはないのだと確信する事ができたのだ。
 そして、そんなほのかに甘いふたりを囲むカラフルな狼たちも、それぞれ癖は強いが、あの鹿に危害を加える事はなさそうだ。噂ではとても恐ろしい者たちだと聞いていたのに。
 やはり噂はあてにならない。その確信と共に、氷室は隣の紫原に話し掛ける。

 「主のそばにいるあの紫のひと、少しアツシに似てるね。」

 くす、と笑う氷室は、「そんな事ないし」とそっぽを向く紫原の顔をしみじみと眺めた。すっかり真上に昇った太陽に全身を照らされ、それを大きく受け止める、生き生きとした相棒の姿。場所は違ってもこの彼の隣にいられれば、ふたり一緒なら、それだけで幸せだ。

 「また会えて嬉しいよ、アツシ。」

 そう伝えると、紫原も満足げに花びらを揺らした。




………8<………………





姫のお話の別視点、赤黒+氷紫です。

室ちんとむっくんは、黒子に摘まれて赤司へのプレゼントになったお花です。

毎日同じ花だと赤司が飽きてしまうかもと考えた黒子は、同じ種類の花を贈るのにある程度の周期(大体一週間くらい)を置いていました。
そのため、むっくんがさらわれてから室ちんがさらわれるまでの間も一週間くらいです。

姫の可愛らしい設定に滾った結果、遅くなり、長くなり、完全に私得な話になりました。







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