「お前は誰かと相部屋でいるよりも一人部屋にしてもらった方が良いのではないか。うむ、その方が良い。そうするのだよ。俺もキャプテンに掛け合ってやる。」

 食い気味にそう言われたのは中学時代。初めて参加した部活動での合宿練習、その三日目の朝だった。
 普段、この緑間という男が自分の主張を推してくることはあまりない。合宿当時、彼は赤司と共に『バスケ部一年のまとめ役』として同じ立ち位置にいたのだが、普段からリーダーというよりは赤司のサポート役に徹していた気がする。何か意見を言うにしてもそれはあくまで提案の形を取っており、実際に結論を出すのは赤司に任せるのが常だった。その後もその姿勢が変わることはなく、のちに落ち着いた『部長と副部長』という関係は、今考えてもしっくり来るものだったと思う。
 しかしその彼が、この時ばかりはやけに積極的に意見を推してきたのだ。彼のその強引さがまるで自分を見下しているようで少しの苛立ちを覚えたが、落ち着いて考えてみれば、ここで意固地になって不慣れな集団生活に身を置き周りにまで気を遣わせるよりも、素直に緑間の言う通りにした方が変な気を遣わずに済む分バスケに集中できる。他部員との集団生活が合宿の目的から外れているとは言えないが、あくまでも第一の目的は『技術の向上』なのだから。
 結局、勧められるがままに一人部屋に移ることになった。それ以降合宿の際に赤司が一人部屋となるのは定例となり、その結果、現在まで続いているこの寝起きの悪さを知る者は"寝起きを共にするほど近しい身内と緑間"という、ごく少数に留まったのである。

 実は、緑間から遠回しな指摘を受けるよりもずっと前から、自身の寝起きの悪さについての自覚はあった。
 厳格な父は、赤司が起きがけの時にはどんな失敗をしても叱ることなくただ頑なに口を閉ざしていたし(父が何か言いたいらしいことだけは表情から読み取れたが、何故かそれを口に出したことは一度もなかった)、いつもにこやかな使用人たちに「おはよう」を言う時、その顔は必ず青ざめていた(使用人全員が朝だけ体調を崩す特異体質の持ち主だと考えるのは難しいだろう)。
 常日頃から気を払っていた健康的な体作りでも生まれつきの低血圧はなかなか改善されず、そのうち気にするのも面倒になった赤司は、他人より少し早めに起床する事を間に合わせの解決策とした。元より、完全に目を覚ますために要する時間が他と比べて長くかかるだけで、早起き自体が不得意な訳ではない。皆が起きるまでにたっぷり時間を置きさえすれば、人並みの時間に通常の活動を開始出来る。
 つまり、とにかく寝起きだけは絶望的に駄目なのだ。人にはとても見せられたものではない。何がって、それはもう色々と。

 だから彼との同居が決まった時も「寝室は別にしよう」と言い張った。小首を傾げながらもその主張をすんなりと受け入れてくれた彼には本当に感謝している。「大切な存在をそんなどうしようもない理由で傷付けたくない」なんてさらっと言い放つのは、さすがに少し恥ずかしい。


 しかし。
 慢性的なそれを差し引いたとしても、今日はやけに体が重怠く感じる。そういえばいつもカーテンの隙間から覗いてくる朝陽が今朝は姿を見せていない。そしてこの、屋根を叩く音。どうやら今日は雨のようだ。
 未だ目を開けぬまま、ぎゅっと眉根を寄せる。雨は厄介だ。手荷物が増える。煩わしい。本来の働きを取り戻していない寝起きの脳は不快感だけを過敏に拾い集め、思考を負の方向へと沈ませていく。

「あ゛ー……。」

 朝だというだけでも機嫌は十分悪いのに、その上雨とは。しかも音から察するに今日の雨は随分と勢いがあるようだ。
 今ならきっと、この世の全ての事象を罵倒する事が出来るな。
 そんな救いようのない自信を抱く余裕はあっても、起き上がることはまだ出来ない。募るばかりの苛立ちを、顔にかかった前髪に舌打ちと共にぶつけてみる。いくら退かしても瞼の上をちらつく前髪を額の上に乱暴にかき上げ、その手を横へと投げ出す。すると、布団に柔らかく受け止められるはずだった腕は何か固いものにぶつかり、同時に「ぅ」という簡潔な呻き声が耳に届いた。

「?!」

 あまりの驚きに声も出ない、というのを経験したのは初めてかもしれない。急いで飛び退けた腕の下、寝起きなのも忘れてぱっちり開いた瞳が捉えたのは、隣の部屋で寝ていたはずの水色だった。上半身を半端に起こしたまま静止する体に反して、心臓は早鐘を打ち、脳もそれに合わせて急速に回転を始める。しかし、さすが寝起きと言うべきか。脳の回転の方はどうも空回り気味だ。

(…どうして、)

 そればかりを繰り返していた頭の中に、はたと一つの可能性が浮上した。確か昨夜は雷が煩かったな、と。

(まさか、雷が怖くて一人で寝られなかったとか…?)

 それは…さすがに可愛すぎるぞ、テツヤ。
 自らの勝手な憶測ながらも、そう思い込んでしまうと何か込み上げるものがあった。そうなるととてもじっとしていられない。うずうずと落ち着かない右手をどうにか鎮めようと、隣にある水色の頭上へと手を差し伸べ…そこで、その手は動きを止めた。
 動揺のあまり気付かなかったが、このくせ毛はどうやら雨の恩恵を余分に受け取っているようだ。湿気を吸い、普段でさえ酷い寝癖にさらに拍車がかかった毛先。『爆発している』。その表現がぴったりな水色に、強張っていた赤司の頬がゆるんでいく。

 一度引っ込めた手を再び伸ばし、暴れる毛先をそうっと抑え付ける。ふわり。やわらかな感触を楽しみつつ手櫛で鋤いてみるが、強情な寝癖は赤司の手が通り過ぎたところからまたぴょこっと立ち上がり、言うことを聞かない。
 面白くない、とは思わなかった。それどころか、自分の思い通りにならないその頑固さに対し、次第に愛しさが増していく。きっと単純なことなのだ。

(留めておきたいなら、手を離さなければいい。)

 望むところだと、じっとしたままの頭を腕の中に抱え込んだ。肌で感じる髪のやわらかさ、控えめな体温、ゆるやかで絶え間ない脈動。鼻腔をくすぐるほのかなシャンプーの匂い。耳を澄ませば、小降りになった雨粒が奏でる軽快な音楽に混じって、小さな呻き声。

「ん……? 赤司くん?」

 舌足らずな掠れた声は、色気があるのか幼いのか。もっと聞きたくて敢えて応えずにいたのに、そんな思惑に反し、水色は自分を抑え込んでいる赤司の腕をもぞもぞと退かし始めた。起きているんでしょう。そう声を掛けられて仕方なく目を開けると、寝癖だらけの同居人がすぐ隣で赤司を見上げている。

「寝たふりなんてしても無駄ですよ、まったく。」

 不満げな口振りとは裏腹に、つい先程までまぶたの裏で眠っていた瑠璃色はどこか楽しそうに瞬いている。腕の中からするりと抜け出た後もそのまま隣にいてくれる辺り、きっと満更でもなかったのだろうと嬉しくなる。

「少し肌寒かったので、ちょっとした思い付きでキミのベッドに潜り込んでみたのですが、まさか抱き枕にされているとは思いませんでした。」

 なんだ、雷が怖かったわけではないのか。不貞腐れるに決まっているので、そう言いたくなるのは堪えておいた。代わりに黙って彼の声を聞く。彼の声は、いつ聞いても心地いい。

「ボクのこと、猫か何かと勘違いしていませんか。」
「…なるほど、猫か。」

 その発想は赤司にはなかった。黒子にとっては、抱いて眠るといえば猫なのだろうか。そういえば小さな頃に猫を飼っていたと聞いたことがある。一度考え始めると、黒子がそれほど身近に感じている存在を知らないままでいるのが勿体ない気がしてきた。それに、猫を抱いて眠る黒子の姿も見てみたい。自分が知らない黒子を、もっと知りたい。
 本当は猫と言われて真っ先に喉を鳴らす黒子を想像したのだが、雷の件と同じ、黒子には秘密だ。

「猫、飼ってみようか。」

 まさかそう返されるとは思わなかったのだろう。驚きでぱっちりと見開いたまるい目は猫のように見えなくもなくて、赤司は笑みを溢した。


 持ち物を増やすのは好きではない。周囲に縛られて身動きが取れなくなるのは嫌だ。自分の周りに境界線を張って距離を保つことは、自分も周囲も傷付けない有効な手段だと思う。
 けれど、その境界線を思いがけず越えてみた時。自分一人だったこの部屋に、一人、もうひとりと大切なものが増えて。雨音しか響かなかったこの部屋がいつか、話し声で満たされる日が来るのかもしれない。そう考えた時、それも悪くないと思った。

「雨がもう少し治まったら、新しい家族を探しに行こう。テツヤによく似た子がいるといいな。」

 それまでに、この寝癖を何とかしないとね。撫で付けた手のひらの下でおとなしくなる水色に、自然と目が細まる。

 今は苦手な朝も雨の日も。彼と一緒なら楽しめるのかもしれない。

 寝起きの短絡的な頭が初めて前向きな答えを弾き出した朝。窓の外では、夏に向けていっそう萌え広がった新緑が、雨粒を受けてより鮮やかに映えていた。









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