ハルカナタ(赤黒)


 複数の足音がボールを追う。振り向き様にそのボールへと伸ばされた手は、あと一歩が届かなかった。湿気で滑りやすくなった床が疲労の溜まった足を捕え、バランスを崩した拍子に黒子は呆気なく倒れた。大丈夫か、と駆け寄る部員への返答はなかった。
 どうやら意識は保っているらしい黒子を体育館の隅まで引きずる。彼はうつ伏せのまま動こうとしない。動いているものといえば、呼吸のために上下する肩くらいだろうか。酸素を求める息遣いは、コートから響く掛け声やバッシュのスキール音、大きく放たれた扉から入り込む蝉の声にかき消され、オレの耳までは届いて来ない。彼が声を発しなくなって数十秒。回復までまだしばらくかかりそうだとため息を吐いたオレは、全体に休憩の指示を出した後、黒子の隣に腰を下ろした。
 熱の籠った館内で、休憩時間にまで騒ぎまわるほど余裕のある者はいなかった。壁に寄りかかり目を瞑る者、風に当たろうと外に出る者。先程とは打って変わって活動的な気配が鎮まった体育館では、ジワジワという必死な声だけが変わらず煩く響き、空気を埋め尽くしている。

「ひとつ、お願いがあるのですが」

 くぐもった声が床に反射し、辛うじて耳に届く。声の発信源は相変わらず床を見つめたままだった。喉が渇いたのだろうと飲み物の入ったボトルを差し出したが、彼はそれにちらりと目を向けただけで言葉を続けた。

「ボクのズボンの右ポケットに、ネジ巻きが入ってるんです。それを出してください」

 何故そんなものを部活中に持ち歩いているのか。浮かんだ疑問を無言で飲み込み、言われた通りにポケットを探ると、指先に固いものがぶつかった。取り出した赤墨色のそれは、確かに柱時計のゼンマイによく似た形をしていた。
 それを手にしたまま黙り込むオレに、黒子は再び語り出す。

「Tシャツの下、背中の真ん中あたりに、それがぴったりはまる穴があるので、それを差して、巻いてください」
「……は?」
「それ、巻けば、また動けるので」

 すみません、Tシャツ。汗で。赤司くんの手、汚してしまいますが。途切れ途切れに紡がれる謝罪の言葉はこちらの戸惑いの真意など察してはくれない。
 有り得ないと知っていた。ただ、"もしも"。
 様子を窺うように傾けられた首から、ギギ、と軋むような音が聞こえた気がして、オレは焦りのままに彼のシャツに手をかけた。


 ……


 結論から言うと、黒子の背中にネジ穴などなかった。認めたくはないが、連日の暑さと疲労でオレの判断力も鈍っていたのだろう。穴などない平らな背を視認した時、自分がそれまで息を止めていたことに気付いた。
 誰がどう見ても夏の暑さに参っている黒子を蒸し暑い体育館に放置するのは危険だと判断し、近くにいた青峰に「黒子を保健室へ運ぶように」と指示を出す。
 冷房の効いた室内に安心したのか、ベッドに横たわって数分で黒子は寝息を立て始めたらしい。保健教諭に、疲れが溜まっているのだろうから今日は休ませてやれと言われた、と体育館に戻った青峰は話していた。

 部活を終えてすぐ保健室へと赴く。途中「これから職員会議で席を外すしかないから」と保健教諭から鍵を渡された。まだ眠っているのであろう黒子に配慮し静かに扉を開けると、瞬間、涼しい空気に包まれた。
 クーラーの稼働音と、体育館にいればもっとうるさく聞こえるはずの蝉の遠い声。その中で、黒子は音もなく目を覚ました。無条件に働く「立たなければ」という意識に従い上体を起こそうとするも、硬い床へと力を込めたつもりの手には上手く力が入らなかったようだ。がくっと傾いた体は再びベッドに収まるはめになった。

「起きたのか」

 委縮させないよう、優しく。そう心がけて発した声を、黒子は冷風を浴びるように心地好さげな表情で受け止めた。その涼しい顔に季節を忘れそうになりながら、短い「はい」という答えを聞く。
 まぶた越しにでも目を刺激するほどの強い光は、今はもう鳴りを潜めていた。穏やかな光に誘われゆっくりと開いた目は白い天井だけに集中している。それは、今いる場所が体育館ではないということを、徐々に、はっきりと認識させたようだった。力の抜けた腕は柔らかいシーツに受け止められ、実際の重量よりも重く感じるであろう頭はふかふかの枕に支えられたまま。指のひとつも動かそうとしない彼は、寝起きの、どこまでも沈んでいけそうな感覚を噛みしめているようにも見えた。
 そのまま黙って見ていると、やがて黒子は目線だけを横に動かし、窓を見つめた。そのすぐ外ではグリーンカーテンとして植えられた朝顔が茂り、大きな窓の外から入り込もうとする日差しを遮っている。隙間から差し込む朱色は太陽が既に傾き始めていることを示していた。昼夜を問わず明るい緑色に入り交じり、役目を終え萎んだ花が、ひとつ、ふたつと垂れ下がっている。今朝咲いたばかりの花たちは、一体どれだけの光をその身に浴びることができたのだろう。その傍らでふくらむ蕾に次の朝を想っていると、不意に水色の瞳はその端に赤を映した。

「ずっとここにいたんですか」
「まさか。練習が終わってからだよ、ここに来たのは。黒子をここまで運んだのも青峰だ」

 「あとで礼を言っておくといい」。「まあ、あいつはそんなもの気にしないだろうけれど」。言葉は一方的に投げられるばかりで、質問した張本人の意識は未だ覚めきらない。
 彼の寝起きの悪さは一年時の冬季合宿の際に経験済みではある。踊るような寝癖に加え、寝ぼけ眼で「起きている」と言い張る強情さには、前日の疲れを引きずった部員たちの気分をわずかばかり和める効果があった。
 しかし今、答えを聞き流しているようにも見えるその態度には呆れを覚える。今回のことは自分の身に関すること、決して軽く流せるような他人事ではないのだ。

「わかっていると思うが、黒子はまた部活中に倒れたんだ。練習量が増えているのに、暑さで食欲を失くして食事もろくに摂っていないんだろう。自己管理ができないというのは、とても褒められたものではないね」

 いつしか口から出る言葉は苦言とも呼べるものになっていた。刺々しさに気付いて勢いを弱めた口調を黒子がどう思ったかは定かではない。しかし、少なくとも起き掛けの思考をマイナスに働かせたことだけは確かだと、瞳の水色が物語っていた。それはやっとのことで無表情から動き出すと同時に居た堪れなさに揺らいでいた。この男はこう見えてプライドが高い。こちらが口を挟むまでもなく、自身の限界については重々自覚していたのだろう。
 すみません、と。乾いた唇から零れる掠れた謝罪からは悔しさが滲み出ており、痛々しささえ感じるものだった。

「迷惑だと言っているわけじゃない」

 目を合わせることに苦さを覚えたオレは、目線を逸らすための口実としてタオルを手に取った。それは先程黒子が起き上がろうとした拍子に額から滑り落ちたもので、既に冷たさを失くしていた。
 室内に併設された流し台でタオルを軽くすすいだ後、冷えたそれを再び彼の額へとかざす。オレが来室する前、湿ったタオルに触れていた前髪はまだ乾ききっておらず、濡れた色合いで持ち前の涼やかさを増している。それをかき上げようと手を顔に伸ばした瞬間、黒子は反射的にびくりと目を瞑った。臆病な反応に構わずタオルを乗せる。強張った瞼は、額から広がる涼感により次第に緊張から解かれていく。

「すみません」

 今回のそれが前回とは異なり安堵の響きを含んでいることは明白だった。わかっているなら少し注意するように。その忠告に、黒子は目覚めてから初めて口元を弛めた。
 暫しの沈黙が流れた隙に、黒子は再び窓の外を眺め始めた。つい先程まで眩しかった空模様を、逆光により浮き立っていた輪郭を周囲に馴染ませ始めた朝顔を。夕焼けが通り抜ければ、空が暗くなるのももう時間の問題だ。あまり遅くに帰宅すれば保護者の心配を招く。早く帰った方がいい。そう言い出さなければいけない場面だったにもかかわらず、静寂を破ることをオレは選ばなかった。
 絶えず忙しなく刻まれる時間も、その時ばかりはゆっくりと流れていた。ほんの数分、数秒。一瞬が永遠に続くような気さえして、またそれを良しとする自分の心に気付き、慌ててその幼稚な幻想を打ち消した。窓の外を向く彼はまだ動かない。額のタオルがずり落ちない程度に首を傾けつつ一心に外を見つめる瞳が何を考えているのか、はたまた何も考えてなどいないのか。想像したところで、オレにはわかるはずもない。
 ジ。一匹の蝉が飛び立つ音と共に、瞬間的に無音が訪れた。写真のように瞼の裏に切り取られた一カット。その一枚の時間の中で、曇りひとつなかった水色の中に宿った陰が視界を掠めた。
 出会ったあの日、絶望で満ちていた瞳の中心を支えていたか細い光が、アルバムをめくるかのように脳裏に浮かぶ。かつて小さかった光は徐々に大きくなり、今では瞳の青空を明るく埋めるほどに育っていた。その変化の激しさを知っているからこそ、見付けたばかりの一点の陰りは胸をざわつかせた。放っておいても時は移ろぐ。しかし感情は理由なしに移ろぐことはない。空を曇らせたものの正体は何だろう。答えは、何よりも、誰よりも自分自身の近くにある気がした。
 内心の動揺に勘付いたのか、気付くと黒子のまっすぐな視線は外ではなくオレを見つめていた。大合唱はすぐに再開され、見間違いかと再度確認した瞳の色も普段通り、そこに陰りなど見つからない。

「朝顔が好きなのか」

 つい先程の動揺などなかったように。深く踏み込むことへの無意識の恐怖は、可も不可もない質問を生んだ。黒子はそれに対して戸惑いも見せず、スッと腕を上げ、朝顔を指さして答えた。

「あそこ。あの、赤いつぼみの影になっている、しぼんだ水色の花。あれ、ボクなんです」

 彼は真剣な顔で"例え話"をする。それを知ったのは、ほんの数時間前のことだ。

「あの花が落ちたら、ボクも消えるんです」

 澄みきった瞳には見透かされているような気分を味わわされることがよくある。淡々と紡がれる言葉ひとひらが重く感じ、同時に切なさをも帯びているのは、それが彼にとって"冗談"ではなく"願い"に起因するものだからかもしれない。

「黒子は死なないよ」

 これといった根拠もなく断言したオレを黒子は責めなかった。オレの返答は黒子の定めた合格ラインに達したらしい。褒美を与えるような高慢さを滲ませ、彼は"例え話"の意味を教えてくれる。

「そうとでも言えば、キミは、この哀れなボクともう少し一緒にいてくれるかな、と思いまして」
「……誰が哀れだ」

 そんなにまっすぐ"願い"を口にすることができるくせに。そんな続きを口に出すことはしない。八つ当たりに近い感傷だと承知しているからだ。ただ、それを宣言できるほど、願いに責任を持てるほどの強さを自分は持っておらず、彼はそれを持っている。その距離が幾分寂しく思えた。

「そういえば、何故ネジ巻きなんて持っていたんだ?」
「あれ、気付いているかと思っていました。……少なくとも、キミと一緒にいたいという願いは、突発的な思いつきではないということです」

 余裕ありげに目を細める黒子は、まだ夢のようなことを言う。前日からか、それよりも前からなのか。オレに話しかける機会を、自分のもとにオレを引き留める理由をずっと探していたと、そう言うのだろうか。
 また、無責任にそんなことを。
 ひたり。背後から手を伸ばして首筋に冷たい瓶を押し当てると、彼は予想通り妙な悲鳴を上げて背をのけ反らせた。夢うつつで放浪していた意識はその刺激によりすっかり現実へと戻ってきたようだ。彼の悲鳴は目覚まし時計のように眠っていた時を揺り起した。
 自分を驚かせた張本人、小さないたずらの正体を暴こうと勢い良く振り返る黒子の目に、透明なラムネの瓶を見せる。

「OBからの差し入れだよ。一軍メンバーにだけ特別だそうだ」
「……炭酸は苦手です」
「中身は飲んでやるから、体を冷やすのに使えばいい。帰るぞ」

 空のような瞳に映り込む甘く無害な瓶は、日よけの朝顔を縫って差し込む夕陽に染められ、ほのかに赤い。オレの手からラムネを受け取った黒子は、今度は自分の手で首筋を冷やし始めた。その手の中で、ガラスに閉じ込められた泡が動いた。音は聞こえなかった。
 ベッドから下りた黒子の足取りはまだ若干心もとない。急かさないよう歩調を合わせながら練習着の彼を部室へと送り、職員室へ鍵を返しに行く。一緒に帰ろうという誘いは、無言のままに肯定されていた。


 再び肩を並べて歩き始めた帰路はすっかり日が暮れ、蝉の鳴き声も聞こえない。日中はぬるいだけだった風も幾分涼しくなった中、街灯に群がる羽虫だけが視界の端で騒がしく夏を告げている。夏に溢れているものは押し付けがましいものばかりだ。全身で愛を叫ぶことに短い生涯を費やす蝉も、光に憧れ近付いたあげく散っていく羽虫も。生まれつき誰かに授けられている"願い"を疑うことも知らず、きっとそれを信じることさえ知らずに、ひたむきに命を傾ける。振り返る間もなく燃え尽きる。それを無駄だとは思わない。その一生はいっそ清々しく、ある種の眩しさを持ち、そして、自分の生き方とは似て非なるものだ。
 自分の人生を卑下するつもりは毛頭ない。結果のために努力を惜しんだことはなく、一時たりとも無駄ではない、有用な時を過ごしてきた。立場ゆえに求められることは確かに他より多いのかもしれないが、それでも意に染まぬことまで強制されることはなかった。積み上げた成果を誇らしく思い、頼られる日々にやりがいと達成感を得る。オレなりに選び、最善を尽くしてきた半生だ。今までの歩みに後悔などないし、他の誰にも否定されたくはない。
 ただ、考えることがあるのだ。"もしも"。もしあらかじめ与えられるものが何もなく、為すことすべてを自分で決めることが叶うなら。もし、彼と共に歩む人生を夢見て、未来を自分で切り拓くことができたなら。何かを言い訳にしなくとも、むしろあらゆるものから見放されていたとしても、その道を貫くことができたなら。
 それは考えたところで結論が出ることのない問題だった。仮定である以上、すべては一時の夢に過ぎない。
 隣を歩く黒子はもうぬるくなっているはずのラムネの瓶をずっと首に当てていた。体温と比べれば中の液体の方が温度が低いとはいえ、通り抜ける風の方が余程涼しいであろう今になっても、なお。「そうとでも言えば、キミは、この哀れなボクともう少し一緒にいてくれるかな、と思いまして」。先程彼が呟き、自分が受け流した台詞が頭をよぎる。倒れた時のネジ巻きの話も、保健室での朝顔の話も、このラムネも。ゆっくりな歩調も何もかも、すべてオレと一緒にいる時間を引き延ばす彼なりの悪あがきなのだとしたら、オレはどうするべきだろう。己の願いに従順な彼は当然のように歩みたい道を選ぶ。自発的な願いを抱いた経験のないオレにとってその純真さは恐怖だ。彼の生き方は眩しい。眩しすぎて、直視することも、輪郭を捉えることもできない。わからないから怖い、距離を置くからわかりようもない、負のループ。そうして近くにいながら目を逸らし続けていた結果、気付かぬうちに彼の心に陰りを住まわせてしまった。

「いつかホタルを見に行きましょう。祖母の実家の近くに綺麗な小川があるんです」

 黒子は夏の話をした。記憶にない遠い夏の話だ。飛び交うホタルに、カエルの鳴き声に、「足元に気を付けて」と呼びかける声との距離は近い。見たことのないはずの情景が、ごく自然に瞳の裏に浮かぶ。妙に現実味を帯びた夢のように。

「水色の髪に驚いて逃げてしまわないか」
「何のために影が薄い人間に生まれてきたと思ってるんですか」
「ホタルを見るためではないだろう」

 どうでしょう、と軽口を叩く黒子の表情を見ることはしない。もっとも、表情を見るまでもなく、その声色は楽しげだ。黒子の脳内にも同じ情景が浮かんでいるのだろうか。それを尋ねようとして開いた唇は、尋ねてどうする、という内側からの制止に従い、音を発しないまま閉ざされた。

「キミのその赤い髪、暗闇の中では目立ちませんね。落ち着いてホタルが見られそうです」

 共にホタルを見に行くことは彼の中ですでに確定事項だった。笑いかける彼にオレは軽く微笑み返し、隣に向けていた目線を再び前へと戻す。ほぼ同じタイミングで黒子も前へと向き直り、オレと黒子は二人、再び同じ方向を向いて歩き始めた。 
 この先もずっと彼の隣に立ち続けるとしたら。そんな未来を仮定して考えていた条件がある。オレと離れても幸せな人生を手に入れられるであろう彼の道を阻まないこと。淡い願いをただのわがままで終わらせないために、彼にとって有益な存在であること。そのために必要なことは、今のオレが彼に与えられる最善のもの、勝利を与え続けることだ。それができなくなった時には潔く彼から身を引こう。彼にすがるだけの無益な関係に甘んじることのないように。
 今もこうして並んで歩いていることに満足感を得ている自分がいる。すっかり幸福の味を覚えてしまった以上、先程の条件に頼らねばならなくなる日はもう遠くないだろう。
 コツ、コツ。学校指定の二足の靴が同じ足音を奏でる。時折、アスファルトをシュッと掠めるタイヤのゴムの音や、漕ぐペダルの速さに合わせた高低さまざまな車輪の音が忙しなく通り過ぎていく。飛び交う言葉の賑やかさはない。やがて、ゆっくりと歩を進めていた隣の靴の動きが遅くなり、ぴたりと止まった。

「今日はありがとうございました」

 首に当てていたラムネを引き渡し、黒子は別れを告げた。ここから先、それぞれの帰路は異なる。それを踏まえての発言だった。今日だけで幾度となく顔を合わせた黒子の瞳は、こんな暗がりの中でもやはりまっすぐで眩しい。

「気を付けて帰れよ。明日も部活はある。帰ったらゆっくり休め」

 別れの言葉と同時に次の約束ができる日はいつまで続くだろうか。些細な感傷がこの何でも包み込む闇に紛れてしまうことを祈りながら、オレは受け取ったラムネにちらりと視線を落とした。彼と同じ色をしているはずの無機物は、暗がりの中で輝きはしない。それなのに彼の温度だけはしっかりと引き継いでいるようで、少し不思議に思えた。

「はい。赤司くんもお気をつけて。また明日」

 ぺこりと頭を下げ、オレに背を向けて歩き出した黒子は、微かな灯りのみが照らす夜道を振り返らずに進んでいった。




 ……




 かの黒子テツヤに負けず劣らず諦めが悪かったこと。それが、別れのきっかけを自ら作り出した主人格の、自らに関する誤算のひとつだった。
 詰まるところ、僕にはテツヤが必要だったのだ。テツヤは打算なしにそばにいてくれる。他人の要求に振り回されていた主人格にとってそれがどれほど貴重であったかは、容易に察しがつく。ただし、奥に潜んでいる"自分"を暴こうとするテツヤの図々しい眩しさは、本心を見せようとしない主人格に恐怖をも感じさせた。過去に味わったことがないという点において、それは敗北と似た恐怖だっただろう。自分がその光に打ち勝てないことを主人格は悔やんだ。強い者が勝者になるわけではなく、敗者が必ずしも弱いということもないのに。
 テツヤを失うことで赤司征十郎の勝利は目的を失い、僕のもとには"手段"だけが残った。勝ち続けることこそが僕の役割であり、生きる意味だ。そのたったひとつの意味を失えば、僕はきっと生きてはいけない。
 正直、不安だったと言わざるを得ない。己が消えることがではない。支えが一つもない状態で"赤司征十郎"が存続できるのかどうかが、だ。勝利に見放され、支えとなってくれるであろうテツヤからも離れている自分が、赤司の名に恥じぬ人間でい続けられるのか。
 でも、どうやらそれも杞憂に終わりそうだ。
 主人格のもうひとつの誤算は、テツヤの諦めの悪さを甘く見ていたこと。そしてそれは幸いなことに"赤司征十郎"の希望でもあるらしい。
 僕が捨てようとした過去を、テツヤは足掛かりとして強くなるための土台にしていた。笑顔も悲しみもすべていつかは消え去ると、すべて忘れて前だけを見て進んでいくことこそ正しいのだと信じていた僕は今、敗北寸前の状況でテツヤと向き合っている。テツヤにとっての過去は振り返るものでも乗り越えるものでもなく、未来にずっと続いていくものなのだ。その視点に気付き、記憶の中、繋がりを辿って行く。そうして思い出した。僕が"生きていなければ"と思えたのは、赤司征十郎の過去にテツヤが存在していたからだったのだと。

 心の中で灯るものは、自ら飛び回ることはない雌のホタルのようにその場に留まったままでいる。巡り逢うべき相手を静かに待ち、せめてもの抵抗として、存在を主張するように微かな光を放ち続ける。そして今、それに呼び寄せられたホタルが一匹。決して強くない光で辺りを照らしながら、ゆっくりと、しかし着実にこちらへと近寄ってきていた。

 季節は冬。春がまだずっと先に思えたあの夏の日は、今はもう遠い。



2015.8.18





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