傘(赤黒)


 いつも変わらないパラパラという音は、水滴同士がぶつかる音なのだろうか。この辺りでは数少ない木々の緑に飛び込む音としては大きく、しかしアスファルトに体当たりするにしては緊迫感の欠けるその音は、自らを受け止めた場所を次々と濃い色に染め上げている。
 響きを聞きながら玄関のドアを開けると、流れ込んで来た季節のわりにひやりとした空気に一瞬だけ体が震える。
 そういえば、自分の傘はこの前の雨の日に失くしてしまったんだっけ。
 潤った冷気が肺に流れ込み、眠っていたからだが覚めていくのを感じながら、ふとそれを思い出した。

「これ、借りていきますね。」

 傘立てにあったビニール傘を掴む。他に傘がなかったわけではないが、その傘が一番、持って行くのに適しているように思えたからだ。
 この前失くした傘は、同居中の彼にもらった物だった。「黒い傘だと夜道であまりに目立たなくて危ないから」という少々過保護な気もする理由でプレゼントされた薄茶色の布は、確かに灯りの少ない暗闇の中でもボクの存在を浮き立たせた。けれどもそれと同時に、近寄ればわかるその丁寧な造りが置き引き犯まで引き付けてしまったらしい。朝、鍵付き傘立ての隅に立てておいたはずの傘は、器用にこじ開けられた鍵の跡だけを残し、夜には姿を消していた。

 ボクが手にした傘は彼の私物だが、それは、彼はこのありふれた傘にこだわりなどないだろうと見当をつけての事だった。だから「借りる」と声を掛けたのも、本当に念のためだったのだ。
 しかし、そんなボクの腕を、エプロンをつけたまま走ってきた彼は慌てて制止した。

「ごめん、それは駄目だ。」
「…どうしてですか?」

 この彼は普段、物への執着というものを全く見せない。同居にあたり購入した各個人用の茶碗やタオル、果ては下着までも、ボクが何々を取ってと声を掛けると自分の物を差し出してくる。大きさが変わるわけでもないんだ、いいじゃないか、と、むしろそうしない理由が解らないとでもいうように言い放つ人なのだ。
 そんな彼のこの態度。まさか拒否されるとは思わず、気に入らないというよりも純粋に気になり理由を尋ねた。すると、彼は実に気まずそうに目線を逸らした。

「…雨漏りしてるんだ…。」

 ボクは自分の耳を疑った。別に傘の雨漏り自体は珍しいことではない。問題は、彼がそんな傘を家にそのまま放置していたことだ。

「捨てましょうよ。」
「嫌だ。」
「どこにでも売っているただのビニール傘じゃないですか。変なところで貧乏性なんですね、キミ。」

 物に執着しない彼からは想像もつかない即答と、理不尽にも思える全否定。訳のわからない抵抗に少しいらっとして、なんとか留めようと必死な彼の腕を振り払った。「これ、持っていきますからね」。いってきますのあいさつ代わりに半開きのドアの隙間から冷淡に告げた言葉は、彼の顔を青ざめさせる。

「頼む、捨てないでくれ。それは特別なんだ…!」

 ドアを閉める時に聞こえた悲痛なその訴えをため息と共に吐き捨て、ボクは歩き出した。



 …



 傘を差さずに歩くには強い、という程度の雨。移動しているうちに収まってくれればとの願いを込めて必要以上にゆっくり歩いたのに、昇降口に着いた俺を迎えたのは先程よりも勢いを増した音だった。
 家に連絡すればすぐに迎えの車が来るだろう。しかしそうするのは家の権力を振り回すことのように思えて気が引ける。結局、それを選ぶくらいならこのまま濡れて帰ることを選びたいという気持ちが勝り、昇降口に一人佇む羽目になった。

 日が短くなったことに加えての悪天候で、部活終了後のこの時間、辺りはすっかり暗くなってしまっている。非常灯のように小さな灯りのみがうっすらと周囲を照らす昇降口。目線を少し下げてみると、事務的な傘立てが視界を占める。もうほとんどが持ち主の手元にあるのであろう。数本だけが傾き気味に放置されているその傘立てをチラと見遣り、途中まで吐きかけたため息を無理やり飲み込んだ。

 夜には天気が崩れるようだと知っていたから、今朝は傘を持って家を出た。その記憶に間違いはない。つまり、その傘がここにないということは、誰かが持っていってしまったということだ。

 今回に限らず、私物が失くなることはよくあった。そして失くした物が手元に戻ってきたことはない。
 初めの頃は、それらの物は誤って使われてしまったのだろうと考えていた。一般的に、男子中学生が学校に持ってくる私物というものは、どこにでもあるありふれたものばかりだ。余程こだわりがない限りそこから瞬時に自分の物を見分けるのは難しいだろうし、中には初めから共有感覚で持ってくる者さえいるかもしれない。
 仕方ない、と思い込むことにした。そして、少なくとも私物を共有するという感覚は抱けそうになかったため、これ以上の紛失を防ぐのに所持品の一つ一つに名前を書くようにした。
 そうしたら、何故か、物が失くなる事が多くなった。
 一度、女子の黄色い声に振り返ってみたら、パタパタと駆けていく背の向こうに自分の傘が抱えられているのを見たことがある。悪意ではないのだと思う。傘は、とても大事そうに、彼女の胸に収められていた。
 今回もきっとそれなのだろう。

 "好き"という感情は、厄介だ。
 今まで抑えていたため息が無意識のうちに口から溢れていた。消極的な気分を増幅させそうだったから我慢していたというのに。気分は下降する一方だ。
 ため息を吐いてしまった事実がさらなるため息を誘っていた、ちょうどその時。

「どうぞ。」

 聞き覚えのある、けれど聞き慣れてはいない声に振り向くと、つい最近"知り合い"になった同級生が立っていた。部活後の自主練を終えたところなのだろう。暗がりで目立つ水色の髪は薄く汗の膜を纏い、蛍光灯の明かりを反射して目に少し痛かった。
 生来影の薄いらしい彼が息を弾ませている様子はない。もしかしたら結構前からこの場にいたのかもしれないな。頭の隅でそう考えながら、俺は差し出された傘の持ち手を拒んだ。

「ごめん、気付かなかった。」
「いえ。それより、傘がないんですよね? これ、どうぞ。」
「君の傘を俺が差すわけにはいかないよ。黒子君はどうするんだ?」

 返答に詰まる様子を見る限り、先のことは考えていなかったのだろう。問い詰めるような視線を投げると、彼の瞳に動揺が走る。

「…ボクは、大丈夫です。」
「駄目だ。君の方が体は弱いだろ。」

 ざあ、という突然の音に、二人揃って外へ顔を向けた。勢いを増した雨がバタバタと落ちてきて、点々としていた水たまりを繋いでいく。
 さすがにここまで降っていると、傘なしで帰るという選択肢は諦めざるを得ない。

「一緒に入りましょうか。」

 彼がそう言ったのは、家へ連絡するという手段が色濃く視野に入り始めた時だった。
 まだ成長しきっていないとはいえ、一つの傘に収まるほどお互い小さくない。小雨ならまだいいが、この雨では間違いなく濡れてしまう。自分だけならまだいい。けれど、ちゃんと傘を持っていた黒子君までそんな状態に追いやるのは申し訳ない。

「黒子君まで濡れてしまうよ。」

 俺がそう考えることを、今度の彼はしっかりと見越していたらしい。大丈夫です、という微笑みに先程の動揺は見られなかった。

「キミを置いて一人だけ帰るくらいなら、濡れて帰る方がましです。」

 無駄に男前なその台詞は、土砂降りにかき消されることなく凛と響いた。


 これ、思ったよりも狭いですね。
 そっち濡れてるじゃないか。もっとこっちに。

 そんな文句を投げ合いながらの帰路は、一人で歩くよりもずっと時間がかかった。しかし不思議なことに、俺はそれを時間の無駄遣いだとは思わなかった。
 そういえば、誰かとこんなに近い距離で話すのは母以来、数年ぶりかもしれない。傘に籠る熱にぼうっとした頭は、実際の暗がりに反し、ふわりと明るい色を脳裏に浮かべた。

 道中、コンビニエンスストアに立ち寄り、傘を購入した。何の変鉄もないビニール傘。しかしそれは、今まで見掛けるのみで手にしたことのない物だ。

「それでは、ボクはここで。また明日。」
「ああ。ありがとう。」

 店を出てすぐ黒子君と別れ、黒い傘と白い背中を見送る。ただでさえ影が薄いのだから、もう少し目立つ色の傘を差した方が安全そうだ、と思う。
 自分ももう帰ろうと、買ったばかりの傘を開いた。くっついていたビニールがぴち、と音を立てて離れ、透明な視界が広がる。ワンコインにも満たないビニールを間に挟んだだけで、冷たく真っ黒だった世界が少しだけ優しく見えた。



 …



「ただいま帰りました。」
「おかえり。」

 少しでも間を置けば黙り込んでしまうと判断したのだろう。いささか食い気味に返ってきた挨拶からは、彼の機嫌が朝のまま変わっていないことが察せられる。
 そうやっていつも黙ったままだから、忘れるところだったじゃないですか。
 胸の内で責任転嫁の悪態をつき、リビングへと進む。テーブルの上に並べられた食事は、予想通り、以前ボクが好きだと告げたものばかりだ。
 喧嘩した日、彼は決まって食卓にボクの好物を揃える。初めはご機嫌取りのつもりかと思っていたのだが、どうやら無意識での行動らしい。喧嘩によってボクのことばかりで頭がいっぱいになるため、思いつくメニューもボク関連のものになってしまうのだろう。食べ物につられるわけではないが、自分ひとりが彼のぎゅうぎゅうに詰まった脳内を独占しているのだと考えると、決して悪い気はしない。
 そんな彼の"作戦"にまんまと乗せられたボクの目もとは、今回も例に漏れず、ふっと和らぐ。その様子をちらりと覗き、彼は安堵のため息を吐いた。

「そうだ。赤司くん、これ、お土産です。」

 そう言って手に持ったままだった袋を手渡す。半透明のビニール袋は中身こそはっきり見えないものの、その特徴的な細長い形で察しはついたはずだ。反射的に伸ばされた彼の手は一瞬だけ躊躇したが、そのまま袋を受け取った。

「ありがとう。開けてもいい?」
「はい。」

 瞳にちらつく絶望を必死に隠しながら、彼は律儀にもお礼を言う。新しい傘が欲しいわけではないのだと、正直に言ってくれてもいいのに。苛立ちとも寂しさとも呼べる上、さらにその後見られるであろう反応への期待も交じった複雑な思いで返事をし、ボクは彼の手元を見つめる。
 丁寧に包装してある紙が半分ほど剥がれた時、彼の瞳の色が一気に明るくなった。

「テツヤ、これ…。」

 花が咲くような笑顔とはこういうものを指すのだろう。
 彼の手にしっかりと握られているのは、今朝言い争いの原因になったビニール傘だ。しかし、もう雨漏りはしない。

 今朝家を出た時点では確かに、傘は捨ててしまう気でいた。
 その考えを改めたのは、登校途中の中学生とすれ違った時だ。傘で顔を隠しながら溜まった水を蹴りあげて歩くその子が視界を通りすぎた途端、ある雨の日の部活帰りの光景がふと脳裏にちらついた。
 一つの傘を二人で差し、街灯と車のライトを頼りに水溜まりを避けて帰ったあの時。別れ際に立ち寄ったコンビニで買ったビニール傘。名前を書いた傘が置き引きされたのだと聞き、今度の傘には『赤司』ではなく『黒子』と書こうとカムフラージュの提案をしたこと。せっかく書いた名前が簡単に消えないように、柄の部分をシャーペンの先で削り、上から油性ペンでなぞったこと。ビニール傘を使うのは初めてだと照れる彼の横顔。
 雨水を吸って息を取り戻すように記憶が甦り、手もとを見下ろす。持ち出した傘の柄の部分には『黒子』の文字が掠れている。
 仕方ない。ため息を吐くボクの足は、目的の方向から少し逸れた細い道へと歩を進めていた。駅からさほど遠くないそこのアパートに、高校時代に知り合った、何でも屋のような男が住んでいる。彼に任せれば、こんな傘の雨漏り程度はすぐに直してくれるのだ。
 朝預けたばかりの傘は、夜、仕事を終えて立ち寄った時には予想通りすっかりきれいになっていた。
「お礼はお汁粉でいいぜ。アイツが作ったの、真ちゃんが大好きでさ。」
 笑ってそう許してくれる彼にはいつも感謝が絶えない。そして、その幸せそうな表情はいつも、彼が待つ自分の家へとボクを駆り立てるのだ。



「ちゃんと直ってますよ。知り合いのハイスペックにお願いしました。」

 赤司くんは残りの包装紙を丁寧に剥がした。それをすべて取り払うと、柄の部分、うっすらと残った名前を指でなぞり、ふふ、と笑って文句を口にする。

「そこは"知り合い"じゃなくて"友達"と言ってやるべきなんじゃないか。」

 キミが言うなら、そう呼んでやらないこともないです。
 笑顔を向けあうボクたちの距離は、中学時代のあの日よりもずっと近くなった。そして、あの日よりも丈夫な屋根の下は、あの日のようにぼんやりとでなく、確かに明るく灯っている。



2014.11.4





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