ロクベル(赤と黒)


 静かに寝息を立てていた街があくびと共に動き出す。叩き起こす太陽に遠慮はなくて、照らされた人はみな不機嫌そうに目を細めている。
 ゆっくりとおしゃべりになっていく街。寝ぼけ眼をこすりながら布団から這い出た僕も、その眠そうな風景の一部だった。

 軽く身支度を整えリビングへ向かう。ドアをくぐると、そこでは今日も僕より一足先に起きていた父母がやかましく言い争っていた。しかしそれは決して険悪なものではなく、むしろ幸せな日常の一コマ。『喧嘩するほど仲が良い』の体現でもあるのを知っている僕は、黙って朝食を済ませる。
 たまには静かな朝を過ごしたいものだな。そう吐き捨てた父を笑顔で見送った後、僕も近所の学生たちに混ざって家を出た。


 僕は人と歩調を合わせるのが苦手だ。並んで歩く事の重要性を考えるのも飽きてしまった。けれど、そんな歩き方をしていると嫌でも人目を引く。大抵の人はチラッと見てすぐに顔を逸らすのだが、中には石を投げるなど嫌がらせをする人間もいる。まぁ、それを避けられないほど運動音痴ではないし、そんな輩の相手をしていられるほど暇でもない。だから僕は構わず、自分のペースで歩く事にしていた。
 学校に着いてもその状況は変わらない。皆一様に無言で黒板を眺め、先生の手の動きを見守る。誰も楽しそうではない。つまらなそうに忙しく動くペンの先、手もとのノートには、もっとわくわくするものだって書き込めるはずなのに。誰一人として文句を言わない事が不思議で仕方なかった。

 窓から眺めた空の青さに誘われ、退屈な授業を早々に抜け出す昼。降り注ぐ陽の光は朝とは逆に眠気を誘う。一歩、踏み出す。掠めて通り過ぎた風に、寒いわけではないのに少しだけ体が震える。
 その静かな風は、僕に不安を押し付けて去って行ったらしい。もし僕がこの風のようにどこかへ消えてしまったとしたら。きっと今僕が見ているこの風景のように、表面上はそれまでと何も変わらないのだろう。それが先程とは確実に違う異世界だとしても。それを怖いと感じてしまうのは、僕が現状に固執している表れだろうか。この目が映し出す景色、香り、音。感じるわずかな苦味も全て、僕を縛り付けるものなのだろうか。

(そうだとしたら、誰にとっても同じだろう)

 眠い時、思考は沈みがちだ。こういう時はしっかり睡眠を取らないと。半ばうとうとしながら、僕は家に帰った。


「ただいま」

 おかえり、と母は頭を撫でてくれた。僕だってもうこの年だ。嬉しいわけではない。ただ、ここで良い子にしていれば、昼食に僕の好物が出される可能性が高くなるから。そういえば空腹だったのを思い出し、そんなに眠かったのかと自分の事ながら可笑しかった。
 空腹を差し引いても、母の料理は素直に美味しいと思う。

「ごちそうさまでした」

 満たされた気持ちから、その一言は自然に口をつく。母はまた僕の頭を撫でた。その手は柔らかくて、温かかった。

 どうやら疲れが溜まっていたらしい母は、昼食後、倒れ込むように眠ってしまった。食欲が満たされた分も一気に眠気が込み上げてきた僕は、母に寄り添い、昼寝をした。





(おかあさん、おきて。おかあさん。どうしよう、おかあさんがおきない。おとうさんはどこ?おとうさん!)

 焦りで目を覚ます。怖い夢だ、皆いなくなってしまった。昼間の風のせいだろうか。
 隣の母はまだ眠ったまま。変わらずそこにいてくれた事に安心してもう一眠りしようとしたその時、僕はやっと異変に気付いた。温かいなんてものではない熱すぎる体に、不規則に吐き出される荒い呼吸。母の様子が明らかに普段と違う。

「お母さん?」

 体を揺すってみる。返事はない。

(…大変だ…!)

 慌てて外に飛び出す。他人の手を借りたくないなどと言っている場合ではない。確実に、自分一人ではどうしようもないのだ。手当たり次第に「助けて!」とわめき散らす。けれど人は振り向くだけで、誰も助けてはくれなかった。

 結局手ぶらで家に戻ると、出掛けていた父が家に戻っていた。頼れる人がいてくれる安心感から、肩の力が一気に抜けるのを感じた。父がいるなら、もう大丈夫だ。僕は父に駆け寄った。

「お父さん、お母さんが大変だったんだ」

 助ける事も助けを呼ぶ事も出来なかった役立たずの僕。その手は乱暴に振り払われた。信頼していた父からの想定外の反応に混乱する頭を、父の視線の温度が冷ましてくれた。
 もうここに居てはいけないのだと、それだけをはっきりと悟った。





 嬉しかった事、イライラした事、悲しかった事、楽しかった事。全部捨ててしまおう。その方が身軽に生きていけるから。
 お父さん、お母さん、ごめんなさい。
 ありがとうございました。





 雨上がりの夕焼け空は澄み切っていた。駆け出した僕に、もう振り返るものなどなかった。抱えていた荷物は全て下ろした、何も背負うものなどない、自由な僕。背中が少し寒いけれど構わない。

 さて、今日はどこで寝ようかな。雨風を凌げる場所を求めて目を遣った公園に、目を引く空色を見付けた。夕焼けに溶け込みそうになりつつ、消えずに存在感を放つ、空色の髪。その男の子と会ったのは初めてのはずだ。それなのに、置いてきたはずの懐かしさがどこからか込み上げてきて、声を出さずにいられなくて。気付けば、君の名前は何て言うの?などと話し掛けていた。
 幼いその子は首を傾げる。それもそうだ。いきなり見ず知らずの他人に話し掛けられても困るだけだろう。
 相応しくない言葉を投げ掛けてしまった恥ずかしさも相まって足早にその場を去ろうとした時、たどたどしい言葉が響いた。

「ひとり、ですか?」

 キョロキョロと辺りを見回し、その子は尋ねてきた。驚きのあまり動けなくなった僕が、ビー玉のようにキラキラした大きな瞳に映っている。それは、住み慣れたあの街でいつも一緒にいた、僕を外へと誘い出す青空と同じ色をしていた。

「よかったら いっしょに かえりませんか?」

 恐る恐る、といった様子で、男の子は僕に手を差し出した。手をそうっと重ねてみる。瞬間、その子の笑顔は弾け、茜色の空を空色に染めた。役立たずの僕の手はあたたかく包まれ、受け入れられていた。
 気付かぬうちに手にしていた重い荷物。それを捨て切れずに抱え続け、いつの間にかその重さを愛しく思ってしまうくらいなら、ずっとひとりのままで良いと思っていたのに。

「にゃー」

 仕方ない。並んで歩いてあげるよ。
 僕はそう告げ、歩き出した。男の子は「こっちですよ」言いながら楽しそうに横を歩く。

 僕とその子の歩調は、自然に揃っていた。





ロクベル/HoneyWorks








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