追想(赤黒)


 生きる上で必要不可欠な事は、常に人の上に在り続ける事。そのためには時に非情になる事も止むを得ない。赤司家の嫡男として、物心ついた時からずっとそう教えられてきた。それに異を唱えるつもりなどない。仮に僕が父の立場だとしても、赤司家当主として後継者に教えるのは同じ事だろう。そして人の上に立つために当然求められるのは、周囲の人間以上の努力。決してそんな素振りを見せなかった父が今の地位を得るために払った犠牲についても、幼いながらに理解しているつもりだった。
 しかし、理解と実践とは決して一致しない。親や周囲の期待に応えていくにつれ、僕は拭えない物足りなさを感じるようになった。自分の下ではなく対等の位置に誰かが居てくれたら。父から与えられた指針と相反するその思いは徐々に膨らんでいった。赤司家の人間としての僕ではなく、一人の人間としての僕を必要として欲しい。尊敬や畏敬ではなく、ただ愛して欲しい。一方、僕の基礎代謝はそれを許さない。
 だから僕はもう一人、愛されるための僕を創った。もう一人の僕は周囲に威圧感ではなく安心感を与えるよう努め、何もかもを操る独裁者としてではなく、自然に人が付いてくるような先導者を目指した。もしそれで父の満足する結果が得られるなら、僕の望みも父の望みも同時に叶う事になる。そうなったならば、僕はもう一人の僕に快く"赤司征十郎"の座を譲り渡そう。そう考えていたのだ。

 事が順調に運んでいたかのようだったある日。一つの出会いが僕を狂わせた。
 目の前に佇む水色。その儚げな外見とは裏腹の強い意志を持つ深海のような瞳に、気付けば僕は溺れていた。そして彼の方も僕に尊敬以上の感情を抱いているようだと、僕を見つめる視線の温度が物語っていた。しかしそれは、もう一人の僕、自分を"俺"と呼ぶ僕に向けられた感情。彼は僕の存在を知らない。僕も"俺"が 見た彼しか知らない。全ては"俺"と彼との間で存在していて、そこに僕はいないのだ。
 僕は彼への恋慕を封じ込めようとした。それなのに、想いは鎮まるどころか痛みを増すばかり。自分が必要として自分が創った"俺"への羨望、嫉妬。それは僕がひたすら目指すべきである勝利には到底不必要なもの。

 こんな"僕"では、駄目だ。

 僕は彼を傷付ける事を選んだ。もう一人の自分である僕がそうしたのだと知った"俺"が、これ以上彼を傷付けるのを避けるため彼から身を引くように、また、僕を嫌った彼が"赤司征十郎"の前から姿を消してくれるように。そうすれば僕はこの害を為す思想から僕の理念を守り、在るべき"僕"でいられる。
 狙い通り負の色を宿した彼の瞳に元の澄み切った強さはなかった。絶望に誘われるままに立ち去る彼を"俺"が追う事もなかった。僕の勝ちだ。自分の内に戻ってきた平穏から、僕は自分の望みが叶った事を悟った。

 他のものを求めるなんて愚かな行為だ。僕は勝利だけを見つめていればいい。それさえ与えられれば、僕の心はこんなにも穏やかなのだから。


 (ほんとうに?)


 そう問い掛けた誰かの声は喧騒に埋もれ、姿を消した。





 …





 昼間だというのに人の気配すらない構内は意外にも騒然としている。夏休み、しかもお盆の最中ともなれば、さすがに部活動の盛んな帝光中と言えど行き交う人はほとんどない。それは中学時代の三年間をここで過ごしたボクにとっても中々に珍しい状況だった。この興味深い空間をより味わおうと周囲に意識を傾けてみる。耳を澄まさずとも頭に響く蝉の鳴き声、熱せられた空気の揺らぐ音。自分の渇いた喉がやっとの事で発している微かな音の存在感など無に等しい。その喧騒は、この世界が一瞬でも気を抜けば人の一人くらい容易く呑み込めるのだと主張しているようでもあり、夏の暑さに重くなっていた息がさらに詰まった。
 ふと、隣からするりと伸びてきた手が、沈みそうになるボクを引き留めた。クリアになった意識でその手の主に目を向けると、彼は少しだけ慌てた様子で唇を動かす。

 「すまない。フラフラしていたから、つい。」

 何故か弁明する彼に軽く感謝の言葉を返すと、ボクを見ていた彼は前方へと目を逸らした。彼の視線の先には、そんなに遠くない昔、毎日のように通っていた懐かしい建物がある。誰も寄せ付けぬよう堂々と、かつ周囲に溶け込みたがっているかのように静かに佇むそれは、身近な誰かの姿にも良く似ている気がした。
 思えば、全てここから始まったのだ。今さらな感傷に浸りつつ「色々ありましたね」と呟くと、先程ボクを救ってくれた手に、きゅ、と力が込められた。

 「…黒子。」
 「はい。」
 「このまま、繋いでいてもいいかな。」

 視線を彼に戻す。いつも涼しげな彼の額から一滴、透明な雫が地面へと吸い込まれていくのが見えた。ボクは何も答えず、手を握り返した。
 じわり。どちらともなく手のひらに滲む汗を、意外と不快には感じなかった。

 一歩、また一歩。自分が地面に触れている事を確かめるように、強く踏みしめる。
 昔から、こうして彼の隣を歩く時、ボクはとても自然に自分のペースで歩く事ができていた。赤司くんはいつも一緒にいるメンバーと比べて歩幅が自分と近いから。何となくそんな風に理由付けて抱いていた一方的な親しみは、それがただ歩幅だけの話ではないのだと気付いた時、あたたかい形へと変わった。

 ひたすら一直線に進んできた道のりは、今思えば孤独だったのだろう。それを紛らす事に精一杯だったボクは脇目も振らず前だけを見続け、隣で同じ寂しさを抱えていた存在に気付かなかった。描いていた平行線は、ほんの少し、手を横に差し出すだけで、簡単に埋まる距離だったのに。


 目的の場所に着き、二人一緒に立ち止まる。三軍で燻っていたボクのその後を変えた出会いの場所であり、大切な人との始まりの場所でもある体育館。強がる事しかできなかったあの頃と決定的に違うのは、人に支えてもらう事を覚えた事だろう。繋いだままの彼の手が、また少しだけ力を強めた。同じ事を考えているのかもしれない。そう思うと、言いようもなく嬉しかった。
 その時、ひゅう、と吹き抜ける風が、彼との距離をゼロにした。忘れないで。そう主張しているようでもあるその風は、視界の中心の赤色を、そして端に映り込む水色を同時に揺らす。

 「前髪、伸びてきましたね。」
 「ああ。…やっと、お揃い、だね。」

 やっと。その言葉を飲み込んだ時、喉に詰まっていた何かが胸にストンと落ちてきた。今になって考えてみれば、前髪の長さは心そのものを表していたようにも思えたのだ。
 短かったあの頃の前髪には、大切なものを見付けられるように、という拙い願いが込められていた。視野を広げ、できる限り多くの可能性を探す事に夢中になって、目の前を見過ごしていたボクの未熟さ。
 伸ばし始めた頃には、何もかも視界から消してしまいたい絶望を抱えていた。誰の目にも映らず、誰も目に映さず、透明になってしまいたい。一番捕らえていたいものに見離され、それを映さなくなった視力などに意味はないという、自棄の象徴だった。
 そう。あの時、ボクは自分を捨てたのだ。今のボクはまた、あの頃とは違う。見るべきもの、見ていたいものが、目の前に在る。

 体育館の裏へ移動したボク達を迎えたのは、自分を殺したあの時、代わりに生かした命だった。予想よりも大きく立派に生長していた淡紫色の花を摘み取り、隣の彼に差し出す。

 「プレゼントです。前髪が短かった、あの頃のキミに。」

 不思議そうに、けれど何かを察したように、彼はそれを受け取った。その推測を確信に変えてもらいたくて、言葉を添える。それがシオンという花である事。この帝光中学校を卒業する時に密かに植えたものである事。そして、

 「花言葉は、『あなたを忘れない』。」

 告げた瞬間、左目の鮮紅がオレンジ色の光をちらつかせた。

 正直、今も複雑ではある。赤司くんの中のもう一人の赤司くん。ボクが彼に傷を負わされたのは確かだった。今でも彼がした事を正しい事だとは思わないし、彼を許したのかと問われれば返答に詰まる。しかしそれならば、ボクは絶対に彼を傷付ける事をしなかったと言い切れるだろうか。常に正しかっただろうか。一方的に許す立場の人間だろうか。
 …いや。本当は、そんな事など考えていない。ただ単純に、彼を憎みきれないのだ。
 傷付けられ追い詰められて、自分を捨てて。そこで初めてボクは自分を客観的に見つめる事ができた。当事者としては気付かなかった自分の感情の矛先。無意識に求めていたものは紛れもなく彼だった。そしてその彼が必要とした存在、彼を必要とする、自分に良く似た"もう一人の彼"を、ボクは嫌悪しつつも自分の中から消し去る事ができなかったのだ。愚直で弱い、彼の事を。
 それは、遠くなった今だからこそ、伝えられる想いだった。


 (ボクはキミが嫌いではありません。でも、今目の前にいる彼の事を、一番大切に思っているんです。
 だから、二番目に大切なキミに、"あの頃のボク"を託します。ボク自身は大事に扱えず捨ててしまった、純粋で無知なあの頃のボクを。
 いつでもボクの事を想い、支えてくれていたキミなら、きっと大切にしてくれる。
 そう信じています。)


 混ざり合った二人の色が彼の手の中で揺れている。「ありがとう」と溢した彼の瞳に、もう先程の色は見えなかった。

 「もう一輪、貰っても良いかな?」

 頷き、花へと手を伸ばす。すると彼はボクの手を制止した。首を傾げるボクをよそに今度は自分でその花を摘み取った彼は、手の中に納まった淡い色を大事そうに見つめ、片方をすぅ、とボクに近付けた。

 「これは、俺から。…あの頃の黒子に。」

 彼の手から受け取る小さな花。過ぎ去った日々、捨ててきた思いを含め、全てを受け入れる。その決意の表れであるこの儚い花は、二人の手の中で同じように咲いているが、全く同じではない。だからこそ離さずにいたい。違いに気付き、そのままの彼を受け止め、今度こそ揺るぎない思いを育てたい。

 あの日の追想は、今、やっと在るべき形を得た。





 …





 愛されたい。
 "愛される自分を創る"のではなく、そう願っていたならば。そう願えていたならば、今彼がいるその位置に僕が立つ事もできたのだろうか。

 『求める』という、人として当然の感情すら放棄した僕はきっと、その時点で既に敗者だったのだろう。僕が創り出した"もう一人の赤司征十郎"は予想よりも遥かに強かった。求める事を自身の支えに変え、求めるものに求められ、それを手に入れた。抱えるものが大きいほどそれを持つ者の力は増す。そんな当たり前の事に気付いたのは、全てを失ってからだった。


 (キミにはボクが付いています。)


 ガラスケースの中、あの日からずっと眺め続けていたテツヤが僕に手を伸ばす。"俺"ではなく"僕"を見て、曖昧な視線でなくはっきりとした言動で、真っ直ぐに。
 
 閉じ込められたこの世界に光が射す事はない。音もなく、温度もない世界。在るのは僕とテツヤと、あの日交わされた二人の記憶だけ。その事実と状況が、こんなにも心を安める。


 …僕が欲しかったものは。

 伸ばされた手に自分の手をそうっと重ねる。ガラス越しに触れた指先に、感じないはずの温かさを、確かに感じた気がした。









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