猫(赤黒)

*特殊設定あり。







 一人部屋になって間もない頃、おばけが怖くて泣いた事があった。
 夜中に目が覚めて、真っ暗な部屋が怖くて、動けなくて。心細さに「おとうさん、おかあさん」とぽろぽろ涙をこぼしていたら、布団を握りしめていた手にふわっとしたものが触れた。当時飼っていた猫だった。
 猫は、暗闇でもわかる艶々の毛並みでボクにすり寄り、にゃう、と小さく鳴いた。僕がついてる。大丈夫だよ。確かにそう言ってくれている気がして、ぎゅっと抱きしめた。いつも抱っこを嫌がる猫は、その時は逃げずに、ボクの腕の中で喉を鳴らしてくれた。
 そのコロコロという音がまるで子守唄のように優しくて、いつの間にかまた眠っていたボク。次に気付いた時には、もう辺りは明るくなっていた。
 腕の中にはもう猫の姿はなかったけれど、ボクが起きるまでずっと側にいてくれたのだろう。枕元、ちょうど丸まった猫一匹分の小さな範囲に、ぬくもりが残っていた。

 窓際にいた猫に「おはようございます」と声を掛ける。猫は振り向いたりはしなかったが、逃げもしなかった。窓から射し込む朝陽を見つめて、目を細めたまま。それが微笑んでいるようにも見えて、ボクはとても満ち足りた気持ちになったのだ。


 猫が家を出て行ったのは、それからほんの数日後の事だった。




 …




「なぁ、知ってるか? 最近あやしいヤツがこの辺をうろついてるらしいぞ。」

 なぜかウキウキした様子で話し掛けてくる巻藤くんを横目で見遣り、帰り支度を進める。
 なぁテツヤ、ちゃんと聞いてるのか?
 このまままとわりつかれては困る。部活が休みである今日こそはお気に入りの作者の新刊を読もうと、前々から楽しみにしていたのだ。
 とにかく話を早く切り上げさせよう。そう思い、ちゃんと聞いている事を示して続きを促す事にした。変質者ですか。そう何の気もなしに尋ねると、ボクの本心など知らない彼はここぞとばかりに食い付いてきた。

「そういう"あやしい"じゃないらしいんだよな…。歳は俺達と同じくらいで、夕方になると毎日、同じ場所で突っ立ってんだって。で、すげー整った顔してんだけど、声掛けても何も反応しないらしい。鳥とか動物とかの声には反応するから、耳が聞こえないわけでもないみたいなんだ。最近じゃ、実はお化けとか妖怪の類いなんじゃないかって噂だぜ?」
「それはさすがに失礼だと思いますが。」
「まぁ、俺もそれはないと思うけど。」

 でもちょっと興味はあるんだよなぁ。
 ちらちらとこちらに目線を送りながら言う彼は、一緒に見に行こうと誘っているようだった。しかし生憎ボクはそれほどの興味を持てない。

「そうですか。」
「素っ気ないなー。」
「それがもし猫なら話は別ですが、人間なんでしょう?」
「安定の猫好きだな、テツヤは。」
「キミもそのうちわかりますよ。」
「んー…俺は別にわからなくてもいい、かな…。」
「そうですか。」

 そう。ボクは自他共に認める極度の猫好きだ。そして彼に限らず、ボクの考えに同意してくれる人は決して多くない。けれどそれについて不満を感じた事はなく、寧ろどちらかといえば優越感を抱いている。きっと彼らはまだ知らないのだ。昔ボクが飼っていたような素晴らしい猫の存在を。
 残念ながら、いくら説明を重ねたところで、実際に経験してみない事には中々理解できるものではないらしい。巻藤くんにも何度も説明したが、その度に帰ってくるのは呆れを含んだため息ばかりで、いい加減ボクも諦めていた。

「それでは、気を付けて帰ってくださいね。また明日。」

 半ば強制的に話を切り上げれば、彼も不満げながら誘いを諦め、ボク達は揃って教室を出た。




 家の方向が反対である巻藤くんとは校門で別れ、それぞれ帰路につく。部活がなかったとはいえこの時期だ。辺りはすっかり夕暮れに染まっていた。

(綺麗な赤…。)

 ただ過ぎ去ってしまうのがもったいなくて、足を止めるまではいかないものの歩調は自然とゆっくりになっていた。
 ここまで綺麗な赤色は、小さい頃に見たきりかもしれない。その頃は、これと同じかそれ以上に鮮やかな赤色が、いつも側にいてくれた。

 懐かしさと久々の寂しさに胸を焦がしていると、ふと視界に人影が映った。夕焼けの中でも際立つ真っ赤な髪は、この辺りでは見た事がない。

(珍しい人ですね。)

 影の薄さというのはこういう時便利なもので、他人をじっくり眺めていても気付かれる事はまずない。
 歳は…きっと同じくらい。遠目でも十分わかる端整な顔立ちは、そこにいるだけで見惚れてしまう人も多いだろう。さっき巻藤くんが話していた"あやしい人"というのは、この人の事なのかもしれない。確かに彼の美しさと不思議な雰囲気には、他の人にはない妖しさがあった。

 目を逸らすのが何となくためらわれ、すれ違い様に顔を覗き込む。
 そこで、はっとした。
 彼の両目は、左右で色が違う。夕陽のように燃える右目と、朝陽のように眩しい左目。それは、幼い頃いつも一緒にいた大切な存在と、全く同じだったのだ。

「…せい、くん。」

 無意識な呟きは彼の耳にも届いたらしい。ずっと空を眺めていた視線がボクの方へと移され、真っ直ぐ見つめ会う形になった。眩しさに細められたその目が滲ませる底無しの優しさも、昔よく感じていたものと同じ。

 次々と一致していく彼の特徴と、かつての飼い猫『征十郎』の記憶。ボクは動揺を隠せなかった。
 そしてどうやら、その動揺は表情にも出てしまっていたらしい。

「泣いてるの?」

 目の前にいる彼にそう声を掛けられ、慌てて首を横に振る。

「すみません、大丈夫です。ちょっと…飼い猫とあまりに似ていたもので、つい。」

 普段『表情が薄い』と称されがちな自分の感情を見事に言い当てられた戸惑いも相まって咄嗟に口をついたのがその言い訳だったのだが、言い終えてから、しまった、と思った。初対面の人間に猫に似ていると言われて気を良くする人がいるとは到底思えない。
 けれど彼は、まるで気にしていない、それどころか寧ろ嬉しいとでも言うように笑みを深めた。その笑顔に、自分の中に住み着いている一種特異な感情を肯定されたような、不思議な安心感を覚えた。
 それに促されたのだろうか。気付くと、ボクの口は淡々と言葉を紡いでいた。

「大好きな、猫だったんです。いつもしゃんとして、やわらかくて。自分から近寄ってくれた記憶はありませんが、ボクが寂しい時にはいつでも側にいて、普段は嫌がる抱っこを受け入れてくれました。優しくて、あたたかくて…本当に、大好きだったんです。」

 胸の内にしまい込んで鍵をかけていた懐かしさと寂しさ。それが言葉と一緒に押し寄せ、涙になって頬を伝う。
 彼は、そんな途切れとぎれのボクの言葉を黙って聞いてくれる。

「おばけが怖いと泣いた時も、征くん…あ、ボクは猫の事をそう呼んでいたのですが、その時も征くんは、側にいてくれました。でもその後すぐいなくなってしまったんです。周りの人には、征くんはもう死んでしまったんだ、諦めなさい、と言われました。でも、ボクはどうしてもそんな風には思えなくて…。
 征くんは、きっとまだどこかで生きていると思うんです。猫の寿命はとっくに越えた歳ですが、猫又になってでもいい、とにかく生きていてほしい。…征くんにまた会えるなら、それがたとえお化けだったとしても、全然、怖くなんてないんですよ。」

 偶然すれ違っただけの他人相手に、親しい人にも話した事がない、自分でも馬鹿らしいと思う事を言ったのに、彼は決して否定せず。
 想いを全て吐き出した後、そっと頭を撫でてくれる手は、ただひたすら優しかった。

 彼の優しさに直接触れたボクは、もう彼の事を他人だとは思わなかった。


 ボクの涙が落ち着いてきた頃、彼は静かに尋ねてきた。

「"征くん"にもう一度会えたとしたら、テツヤはどうしたい?」

 その問いは、ずっと考え続けていたものだ。ボクは迷わず答えた。

「また抱きしめたいです。そして、一度も言えた事のない『ありがとう』を言うんです。ボクは、キミといられて幸せだったと、それがどんなに大きなものだったのかを…伝えたいです。」

 真っ直ぐ彼を見る。心なしか、彼は少しだけ泣きそうな顔をしていた。そして「これは、僕が思う事だけれど」と、静かに言葉を紡ぐ。

「猫の方もね、テツヤ。君といられてすごく幸せだったんだよ。幸せだったから、いつでも側にいたんだ。抱っこを嫌がったのは、恥ずかしかったんだね。本当は、自分の方がテツヤを包んであげたいと思っていたんだよ。…おばけが怖いとテツヤが泣いた時は、悲しかった。化け猫になってでもテツヤの側に居続けたいと思っていたから。

 でも今はもう、テツヤはおばけを怖がる子供じゃない。テツヤは大きくなった。そして、まだ"征くん"の事を忘れずに、大好きでいてくれているだろう? きっと、安心しているよ。」

 彼の言葉は『征くん』の言葉として、自然にボクの心に染み込んだ。かすり傷のように心に残っていた寂しさがじわじわと埋まっていく。青空が夕陽に染められていくように、少しずつ、少しずつ。


「…抱きしめてもいいですか。」
「勿論。おいで。」


 コロコロという音の代わりに、子守唄のような心音が聞こえた。彼の腕の中はあたたかくて、懐かしい、太陽の匂いがした。




 …




「で、今日は何でそんなに幸せそうなんだよ。」

 次の日の朝、ボクは巻藤くんから質問攻めにあった。彼は小学生の頃からの友達なので、ボクのわかりにくい表情の変化もすぐに見抜いてしまう。

「しつこいですよ。ただ、いい事があっただけ、です。」
「だってテツヤのそんな嬉しそうな顔見た事ないぞ! ただのいい事じゃないんだろ?!」
「まぁ…そうですね。奇跡に近い"いい事"でした。」
「だから内容を教えてくれって!」

 聞き分けのない子供のようにわめき散らす巻藤くんに「秘密です」とだけ答え、席に着く。

 昨日の出来事は、長い間住み着いていた寂しさの埋め合わせとしては十分過ぎる幸せをくれていた。

(キミは正体を隠したつもりかも知れませんが、バレバレですよ。だってボクは、自分の名前を、あの時目の前にいたキミには明かしませんでしたから。)


 寿命を越えて生き続けた征くんは、いつの間にか人に化ける事ができるようになっていたのだろう。しかし、幼いボクが化け物を怖がっていたため、彼はボクから離れて行った。彼がいなくなった原因は、ボク自身だったのだ。
 それでも彼は、そんな弱く勝手なボクに再び会いに来てくれた。優しく目を細めて、ボクをあたたかく包んでくれた。

 彼の腕の中で、やっと囁く事のできた『ありがとう』。一瞬だけ力を強めた彼の腕が、その言葉が確かに彼に届いた事を教えてくれた。


 彼にまた会えるかどうかはわからない。「テツヤはもう子供じゃない」。彼のその言葉には、もう僕がいなくても大丈夫だね、という意味も含まれているようだったから。
 嫌だ。寂しい。ずっと一緒にいてほしい。そう言ってしまう方が楽だろう。でも、それではあの幼い自分と変わらない。

 もう寂しくない。決して強がりなどではなく、遠くに行ってしまったと思っていた彼が、側にいてくれる事がわかったから。

 征くんに心配をかけず、逆に彼を支えられるほど強い人になって。その時こそ、彼に会って伝えるのだ。一緒にいて、と。


「ボク、頑張りますから。」


 待っていてくださいね。
 窓から覗く朝陽に向かって、小さく呟いてみた。









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