空気(赤→黒)

*黒子は小説家をしています。
*黒子がひどいです。赤司かわいそう。







「小説には、その人の経験が少なからず生かされると思うんです。」

 ボクに恋愛小説はハードルが高過ぎましたね。
 眉間を揉み解しながら、黒子はぐっと背を反らせた。静かな室内に椅子の背もたれが軋む音が響く。つい先程まで黒子が見つめていたパソコンの画面では、スクリーンセーバーが忙しなく動いている。まるで「休んでいる暇があるなら手を動かせ」と急かすようなその動きから目を背けた黒子は、どう見ても不機嫌だった。

「行き詰まっているのか。」

 なるべく感情を逆撫でないよう、赤司は努めて穏やかに尋ねる。
 黒子がこうして独り言のようにぼやく時は大抵傍にいる自分に何か求めているのだという事は、これまでの経験から何となく察していた。しかしその内容はいつも突飛で、先を見通す能力に長けている赤司にとっても予測し難い。

 もしも二人が俗に言う"親友"、もしくは"恋人同士"という間柄だとしたら、ある程度は解り合えるのかもしれない。しかし黒子と赤司の関係は決してそんなに近しいものではない。

 大学へ進学する際、家を出たいと思いつつも「世間馴れしていない息子に一人暮らしをさせるのは不安だ」と言う親を何とか説得するため、同じ理由で一人暮らしを反対されていた黒子とルームシェアの形をとった。
 元々そこまで仲が良かったわけでもなく付かず離れずな距離を保っていた二人だったが、過度に互いに干渉しないという条件のもと始まった同居は中々に心地よいもので、大学を卒業し社会人になった今でもその関係は続いている。
 つまり、双方の相手への見解は、少なくとも表向きはただの"無害な同居人"だったのだ。

 しかし、赤司は最近になって、黒子の事を意識し始めていた。
 きっかけはほんの些細な事の積み重ねだったように思う。寝起きの少し掠れた声が妙に色っぽいとか、箸を持つ手が綺麗だとか。いつの間にか、風呂上がり、水分を含んだ涼しげな水色の髪が滴らせる雫から目を逸らせずにいる自分に気付いた。
 何年も一緒に暮らしている内に知らず知らず育っていたこの淡い感情は、赤司にとって未経験のものだった。元々色恋事に淡白なのだろう。数え切れないほどの告白を受けても、それが胸に響く事はなかった。人の感情に関しては、いくら書物を読み、知識を積み上げても、経験の無さを補う事はできない。だからこそ、この歳になって初めて知った胸をくすぐるような感情の正体、ましてや相手が同性であるという事実に戸惑いもしたし、先の事を考えると悩みも絶えない。
 正直、この先黒子とどうなりたいのか、赤司は自分でも判らなかった。それでも、この日常を大切に思い、それを壊したくないという願いは変わる事はなかった。その果てしなく続きそうな緩やかな日々が、本当は脆く、儚いものだと知っていたから、尚更。



「ねぇ、赤司くん。」

 キシ、という耳障りな音と共に黒子は立ち上がり、赤司が座っているソファの反対側に腰を下ろす。目の前を通り過ぎた彼からふわりと漂い来る柔軟剤の香りは自分と同じ物であるはずなのに、彼が纏っているというだけで蠱惑的なものに感じられ、軽く目眩がした。
 さほど大きくはないソファに並んで座った黒子は、少しずつ赤司の方へとにじり寄っていく。未だ慣れない胸の動悸を抑えつつ、態度だけは平然を装った赤司が「どうした」と尋ねると、黒子は信じられない提案を口にした。


「キス、してみませんか?」


 どうしても上手く書けないんですよ、キスシーンが。
 赤司は耳を疑った。後に続いた言葉など全く耳に入らない。キス。誰と、誰が。一瞬にして真っ白になった頭で、必死に思考を働かせようとする。しかし、脳も体も、動かない。


「赤司くん、キスは初めてですか? 恋愛とか興味なさそうですもんね。」

「もしかして、ファーストキスに夢持ってたりとか…ありませんよね、キミは。」

「実はボクも初めてなんですよ。お恥ずかしい話ですが。」


 くらくらと定まらない思考を持て余したままに、黒子だけが言葉を綴っていく。赤司が拒絶しないのを良い事に、黒子の顔はゆっくりと近付いてくる。

「ちょっと待て。」

 顔が眼前まで迫ったところで、やっと赤司は一言だけ絞り出した。

「…本当に良いのか。相手が僕で。」

 小刻みに震える乾いた声。動揺を隠す事など、もはや到底叶わない。その声を嘲笑うかのように黒子はクスリと笑い、問題ありません、とだけ告げた。
 そしてさらに距離を詰め、口付ける直前に、小さく囁く。

「ボクが知りたいのは、別に、好きな人とのキスではありませんから。」


 ひゅ、と喉が鳴るのが、自分でも分かった。息が、できない。
 柔らかな桜色が、追い討ちを掛けるように空気の通り道を塞ぐ。苦しさに口を開いても、与えられるのは生かすための酸素ではなく、じわじわと蝕み、着実に神経を麻痺させていく、毒。
 やがて、ちゅ、と不似合いに可愛らしい音を響かせながらそれは離れ、再び空気に触れた唇は、もうすっかり呼吸の仕方を忘れていた。


「…キミでもそんな顔をするのですね。その表情、中々魅力的ですよ、赤司くん。」


 おかげで良い体験ができました、と目を細めて席を立ちパソコンへと向かう黒子を、赤司は言葉を失ったまま目で追った。動きを止めていた脳が最初に弾き出した感情は"苦しい"だった。
 何が、とまでは、まだ考えられない。しかし一つだけ、今までぼやけていた感情の輪郭がくっきりと浮かび上がっていた。
 黒子への叶わぬ恋心。それは、空気のようにごく自然に、自分の生死を支配していたのだと。


(この感情は、淡いものなんかじゃなかった。"胸をくすぐる"なんて軽いものでも、なかった。)


 酸素の取り入れ方を必死で探りながら、赤司は静かに目を閉じた。







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