蝉(赤黒)
*人外のため閲覧注意。
ぼんやりと目を覚ます。
安心感を与えてくれる暗闇の中でしっとりとした土に包まれ、ボクはまた目を閉じた。
体の奥で脈打つ、何か。
その存在に気付くのに、一年。
それから、その正体を、少しずつ、考え始めた。
目を開けているかどうかは、関係ない。
息を止めても、それは動いている。
体を動かす事とは関係がないようだと気付くのに、一年。
ボクの他にも生き物がいると知る。
この土の中の暗闇の他の、眩しい世界について知るのに、一年。
「外は、怖い所だよ。大きな敵が、君を襲って食べようとする」
「外は、楽しい所だよ。色鮮やかで、美しい」
同じ物に対して個々の見解がある事を知るのに、一年。
「ボクは、誰」
「君は蝉だよ。夏に大人になって、愛を叫びながら死んでいくんだ」
自分のやるべき事を知るのに、一年。
ボクは誰に、愛を叫ぶのだろう。
その"誰か"は、どんなヒトだろう。
そのヒトに、ちゃんと、出会えるだろうか。
外での期待と不安を考える度に、"脈打つ何か"がより速く、強く動き出す。
これは、"誰か"を想うと活発になる。
そう気付くのに、一年。
会うべきそのヒトに、会えますように。
それだけを祈って、一年。
もうすぐ、ボクは大人になる。
温かく自分を包んでいてくれた土のベッドから這い出し、生まれて始めて風に触れる。
嗅いだ事のない、たくさんの匂い。
ああ、これが月。
これが、星。
これが、土の中に張り巡らされていた根の、外の部分。
全てが、大きい。
薄明かり、とはいえ今まで過ごしてきた暗闇と比べればずっと確かな光のもと、ゆっくりと姿を変え、隠されていた透明な羽を伸ばしていく。
月明かりに透けて微かに輝くその水色を見る者は、誰もいない。
ボクは、外に出ても未だ一人だった。
やがて、眩しくて暖かい光が、一面を照らし出す。
きっとこれが、太陽。
朝が来たんだ。
早く、目立たない所、人目に付かない所に行かなければ。
ぎこちない足取りでよたよたと歩きながら、背中に生えた羽を動かしてみる。
朝までに色を濃くしているはずだった羽は、何故か水色のままだった。
それでもちゃんと乾いてはいるらしく、思い通りに動かす事はできる。
自分でも気付かぬうちに、ボクは飛んでいた。
土の中では決して味わえなかったこの爽やかさは何だろう。
空気が、酸素が、自分から飛び込んでくるようだ。
ボクを生かすための、その気体たちが。
その時思い出した。
ボクの生きる理由を。
試しに腹を震わせてみる。
声を出すというのは予想よりも難しい事だったようで、思い切り力を込めてやっと少しだけ、ジ、という声が出た。
初めはこんなものなのだろう。
そう踏ん切りを付け、呟いてみる。
(愛しています。)
小さな声だけれど、確かに形にできた、その言葉。
嬉しくて、何度も繰り返す。
(愛しています。ボクはここです。愛しています。)
(キミはどこですか。ボクはここです。)
練習を重ねる。
小さくしか出せなかった声を、徐々に、大きく、大きく。
呟きは、いつしか叫びに。
(キミのいる場所を教えてください。)
(キミに会うために、大人になりました。)
(早く、会いたい。)
(愛しています。)
陽が沈み、太陽に代わって月が輝き始めてからも、ボクはしばらく鳴いていた。
けれど、そのうち疲れて寝てしまった。
それが、一日目の事。
次の日。
目を覚ましたボクは、やはり一人。
昨日覚えたばかりの声の出し方を復習し、また叫び出す。
腹をどう震わせればどんな声になるのかという感覚も、掴み始めてきた。
しばらくすると、腹に力を入れる事ができなくなった。
どうやら空腹らしい。
一本の木の幹に落ち着き、樹液を吸う。
生きるためのその行為に、腹を満たす以上の意味は求めなかった。
補充したエネルギーが全身に行き渡るのを感じ、再度声を出す。
(愛しています。)
ひたすら鳴き叫ぶ。
未だ見ぬ愛すべきヒトを想いながら。
三日目。
何年もの間抱き続けていた期待と不安のうちの後者が、ボクの中で大きく育ち始める。
子供の期間と比べてずっと短い大人の期間。
一秒も無駄にはできない。
一秒でも早く、出会いたい。
(愛しています。愛しています。愛しています。)
(会いたい。会いたい。会いたい。)
馬鹿の一つ覚えのように、振り絞るのは、同じ音。
それも仕方がない。
だって、ボクが知っているのは"キミへの愛"だけなのだから。
(会いたい!)
もし、このまま出会えなかったら。
そんな不安を掻き消すように鳴き叫ぶ、不器用な愛。
キミに届くようにと、ただそれだけを願う。
四日目。
目を開けた瞬間に飛び込んできた、朝の光と、鮮やかな赤色。
「おはよう」
穏やかなその響きが、ボクに教えてくれた。
ボクの会うべきヒト。
愛するヒト。
嬉しくて、嬉しくて。
泣けない代わりに、鳴く。
「おはようございます」
幾千もの暗闇を越えて迎えた夜明け。
全ては、この時のために。
二人で飛ぶ空は、蒼く澄んでキラキラと眩しかった。
二人で休む木陰は、涼しくて暖かかった。
二人で飲む樹液は、身体中に甘く染み渡った。
太陽も、月も、星も。
木も、風も、水も、空気も。
目に映る何もかもが輝き、ボク達を優しく包んでいた。
ボク達は、ただ、愛を語った。
何度目かの夜が来た。
ボクより少しだけ早く生まれていたらしい彼は、もう飛べなくなっていた。
「お前を、また、一人にしてしまうね」
鮮烈な光を放っていた彼の眼は、今はただ平穏だった。
幹にしがみつく力も残っていない彼と、木の根元で囁き合う。
「でも、今ではキミを知っています。こうしてキミと出会って、一緒に過ごしました。目を閉じれば、キミの顔が浮かびます。もう、あの頃のように"独り"じゃない」
そっと、彼の動かない手に触れる。
トク、トク、とゆっくり脈打つ、何か。
(ボクと、同じだ)
「お前に会えて、本当に良かった。僕は、幸せだよ」
トク、トク、…トク。
「ボクもです」
…トク、……トク。
「…愛してる。」
…トク、……。
「ボクも、です」
涙は出ない。
そんな機能は備わっていないから。
ボクは一言、ジ、と鳴いた。
翌朝、彼の体には無数の蟻がたかっていた。
ボクに愛を語ってくれた、彼の柔らかな腹。
食い破られたそこは、空洞だった。
何もないそこから、彼はボクにこんなにたくさんの愛をくれたのだ。
(ありがとう。)
ボクは鳴いた。
光を失った彼の眼は、いつまでも穏やかだった。
だんだん小さくなっていく彼の傍で、少しずつ、少しずつ、ボクも力が入らなくなっていった。
このままここに、彼の傍にいれば、きっと彼を運んだのと同じ蟻がボクを運んでくれるだろう。
そうすれば、この先も、ずっと一緒。
ボクはゆっくりと目を閉じた。
彼の顔が、声が浮かぶ。
彼がボクに囁いてくれた「会えて良かった」「愛してる」。
(ボクは、幸せだ)
小さくなっていた脈打ちが、一瞬だけ大きくなった。
(…愛しています。)
必死で腹を震わせて、最期に一言、ジ、と鳴いた。
後には何も、残らない。