夏音(赤黒)

「―よし、休憩にしよう!」

 その合図が響いた途端、張り詰めていた館内の空気はがらりと変わった。先程までが嘘のような緩い空気が体育館中に満ち、休憩を言い渡した張本人である赤司も軽く安堵の息を洩らす。
 休憩の適切なタイミングを見極めるというのは、赤司にとっても中々に気の張る事だった。
 来週にはIHが始まる。今はちょうどその準備の追い込み期間で、部全体が最終調整に入る大事な時期だ。そしてそれは、名門校洛山のバスケ部とて例外ではない。勝つ事が当たり前に求められるからこそ、期待以上の圧倒的勝利を見せ付ける義務がある。そのためにもこの時期に無茶をして体調を崩す事などあってはならず、休憩もそれを防ぐ大切な要素だった。

 皆思い思いの休息を取る中、赤司は一人、体育館の外へと向かう。

「征ちゃん、どこ行くの?」

 赤司の行動に気付いた実渕が、タオルで汗を拭きながら声を掛ける。

「少し、外の空気を吸いたくてね」

 暗に一人になりたいという意思を織り交ぜつつ返事をすれば、勘のいい実渕はそれを読み取り、会話を早々に切り上げてくれた。


 外は、館内程ではないにしろ、練習後の火照った体を冷ますには些か暑かった。しかし、ふとした瞬間に横をすり抜けて行く風が心地好い。

 風の行方を追うように、赤司は空を見上げた。

 空は今日も青く澄んでいて、彼を思い出させる。

 胸を締め付けられる苦しさに、赤司は無意識に目を伏せていた。




 …




「よし、休憩だ」

 疲れたと口々に騒ぎ立てながら休憩に入る部員達をぐるりと見渡し、息をつく。二人分のドリンクホルダーを手に取ると、赤司はその場に崩れ込んでいる水色へと近付いた。

「大丈夫か?」
「…はい…大丈夫、です…。」

 ふらふらと立ち上がろうとする彼を制し、自身もそこに座り込む。何とか呼吸を静めようと努める彼の背中を擦りつつ、赤司は口を開く。

「黒子は他の奴らよりも体力がないんだから、あまり無理はするなよ。」

 片方のドリンクを手渡しながらそう告げると、黒子は拗ねたように口を尖らせた。赤司なりの気遣いから発せられたその言葉は、どうやら黒子の気に召すものではなかったらしい。

「努力くらいは、させてください。ボクにはキミ達のような才能はありませんが、それでも同じ場所に立ちたいと願うのは自由でしょう。」

 未だ整わない呼吸で途切れ途切れに紡がれたその言葉に、赤司は満足気に目を細めた。


 黒子はいつも赤司にとって指針となる存在だった。
 大抵の事を人並み以上にこなせてしまう赤司は、何かを達成するために夢中になるという経験をした事がない。そのため何かを成し遂げようとする周囲の人間の苦労が理解し難く、無駄な事にすら感じられていた。
 黒子に出会うまでは。
 黒子は、誰よりも苦労を知る人間だった。努力だけでは越えられない壁に苦しみ、それでも上を目指す事を諦めない彼の姿勢に、赤司はそれまでどこか他人を見下していた自分を恥じた。
 努力は決して愚かではない、むしろ周囲にまで影響を与える力強さをも持ち合わせているのだと、必死に目標に食らい付く黒子を見て初めて感じたのだ。

 赤司は、そんな黒子の力になりたいと真剣に思った。そして、黒子が目指す位置にいる自分自身も、彼に恥じないものであるべきだと決心していた。

 しかし、黒子と共に過ごす時間が増えるにつれ、自分はいつまでも黒子の側にいるべきではないとも感じ始めた。
 黒子の"影"としての才能を見出し導いたのは赤司だ。赤司はそれを求めていたし、黒子も求められた以上にその役割を果たしてくれた。
 今は、まだそれでいい。
 だがそれは黒子を"影"というポジションに固執させているのではないか。それに、もしこれから先、黒子が自分達の影以外の道を見付けたとしても、自分は素直にそれを喜び、彼の力になりたいと思えるだろうか。
 そう考える度に、赤司は自分が黒子の可能性を殺しているように思え、言い様のない不安に駆られていた。


 そんな赤司の悩みなど知るはずもなく、やっと起き上がれるまで回復した黒子は、赤司から受け取ったスポーツドリンクを口に流し込む。
 音を立てず上下に動く黒子の喉をじっと眺めながら、赤司は囁くように言葉を溢した。

「今日は、一緒に帰ろう。…ああ、勿論、自主練習が終わってからで良い。付き合うよ。」

 黒子は驚いて顔を上げた。赤司からそんな誘いを受けた事はそれまで一度もなかったからだ。
 赤司の事だ。何か考えがあるのだろう。
 そう察し、意図を読み取ろうと真っ直ぐな視線をぶつけてくる水色に、赤司はその頭をくしゃっと撫でて「そろそろ練習に戻ろうか」と手を差し出した。
 やはり訳がわからないといった様子で赤司を見つめながらも、その手を取る黒子に疑いや迷いはない。赤司はまた満足気に微笑んだ。




 日が沈むまで練習し共に帰路に着く。二人の間に会話はほとんどなかったが、赤司にとっては、黒子が隣にいる、ただそれだけで十分だった。
 時折車のライトに照らされて光る黒子の横顔に見とれつつ、歩調を合わせる。黒子と肩を並べて歩くひとときがかけがえのないものに思え、その満ち足りた時間をできるだけ引き延ばしたくて、ゆっくりと歩を進める。

 それでも、元々お互いの家が近所な訳でもないため、一緒に帰れる距離は決して長くない。寄り道もできずにただ歩いた道のりは短く、別れは着実に近付いた。
 遂に別れ道が見えた時、赤司は重い口をやっと開いた。

「高校は、違う所に進学しよう。」

 それまで口を閉ざしていた赤司のあまりにも脈絡のない提案は、黒子を驚かせるには十分だった。
 自分は何か赤司の不興を買ってしまったのだろうか。これは、もう一緒にいたくないという意思表示なのだろうか。
 黒子の瞳にそんな不安が浮かんだのを感じ取り、赤司は慌てて言葉を続ける。

「俺は、お前のバスケに対する姿勢が好きだ。それをすぐ近くで見たり、導いたり出来るのは、身に余る光栄だとも思っている。…でも、それでは駄目なんだ。」

 歩みを止め、黒子の目をじっと覗く。暗闇でもはっきりと輝くその水色はまるで星のように瞬いていて、そのあまりの美しさに赤司は一瞬言葉に詰まった。
 駄目だ。黒子と離れるなんて。このままずっと側にいたい。
 そんな想いが喉に詰まり息苦しい。けれど、ここで伝えなければきっと後悔するだろう。他の誰でもない、黒子のために。
 すう、と空気を吸い込み、赤司は続きを口にしていく。

「このまま一緒にいれば、黒子は俺達にとって都合がいいだけの影で終わってしまう。…きっと、俺達がそう縛り付けてしまう。でも、黒子。お前には、影としての才能の他にも、もっとたくさんの可能性があるんだ。影という役割に固執しなくても、バスケが出来るんだよ。だから…距離を、置かせてくれ。お前が輝くのを邪魔する足枷には、なりたくない。」

 好きだからこそ。
 最後だけは敢えて口に出さず、なるべく普段通りの澄ました表情を作って、赤司は黒子に訴えた。俯いたままの黒子の顔をほのかに照らす街灯のおかげで、彼が考え込んでいるという事が辛うじてわかった。

 そのまま黒子を見ているのが何となく気まずくて、赤司は星空を見上げた。
 都心から少し外れたこの住宅街ではそれなりに多くの星が見える。それでも、見えない星もあるのだ。眩しすぎる光の影となって夜空に埋もれ、誰にも認められる事なく生涯を終える星が、確かに。

 どれだけの時間が経過したかは定かではない。意識を遠くに飛ばしていた分長く感じたが、実際は1分も経っていなかったかもしれない。


「わかりました。」

 不意に、小さな、けれどはっきりとした声が赤司の耳に届いた。
 地上へと視線を戻す。先程まで下を向いていた黒子は真っ直ぐに赤司を見据えていて、その瞳には決意を滲ませている。

「確かにボクは今までキミに頼りすぎていました。今度は、自分で道を見付けます。…強く、なります。」

 だから。そう黒子は続ける。

「待っていてください。必ず、追い付いてみせますから。」

 黒子の薄い唇が微かに震えている事に気付く。それでも、意志は、決意は、揺るがない。強い瞳がそう物語っていた。
 胸の前に差し出された拳を、こつん、と合わせる。

「ありがとう。待ってるよ。」

 一瞬で離れてしまったが、それでも確かに触れた黒子の体温が手の甲に残る。また明日。そう言って遠ざかる黒子の背中は、もう振り返る事はなかった。

「…待って、いるよ。」

 誰もいなくなった路上で一人呟き、赤司も自分の家へと歩き出した。黒子と交わした約束だけが、その孤独な足取りを支えていた。




 …




 深く息を吸い込めば、深緑の香りが胸をつく。目を閉じれば、蝉の必死な鳴き声が脳内にまで響いてくる。

 あの日、あの時と同じ、夏の空気。
 違うのは、隣に彼がいない事。

 もうすぐ始まるIH。そこに、あの日約束した彼の姿はない。
 それでも、この寂しい夏を乗り切り、冬になれば。
 WCの時にはきっと、強く成長した彼が、目の前に現れてくれるだろうから。

「…そろそろ練習再開の時間かな。」

 彼を失望させないため、彼との約束を果たすために、彼の目指す場所で。

「僕は、勝つよ。」

 頂上で、待っているよ、テツヤ。





BGM:GLAY「夏音」








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