「こちらご注文のコーヒーです。ごゆっくりどうぞ」
穏やかなジャズ調の音楽が流れる中、ウエイトレスの女性がコーヒーの入ったカップを置いていけば、コーヒー特有の匂いが鼻腔を擽る。
それは凍てつくような寒気をひしひしと感じられるようになった、ある日の昼下がり。
川藤は島に行った親友が、東京に帰ってきたかと思えば、大事な話があると暗く沈んだ声で喫茶店に呼び出されたのだった。

「……で、なんの話なんだ?」
運ばれてきた物に手を伸ばすこともなく、川藤は、席についてからもずっと黙りこくったままの親友である半田清舟に尋ねる。
身動き一つしない半田の表情は、相変わらず曇ったままで、話の深刻さが伺えた。
「まぁ、言いたくないなら無理には聞かねぇけどよ。言う準備が出来たら教えてくれ」
そこまで時間にゆとりがあるわけでもないのに、川藤は無理矢理用件を聞き出すつもりはないらしい。
彼なりの優しさなのだろう。
トントンと慣れた手つきで煙草出し始めた所を見ると、長期戦を覚悟したらしかった。
ふぅと川藤が息を吐き出せば、タバコの白い煙が二人の間に立ち込める。
「川藤……」
そんな川藤の気遣いに気がついたのか、半田自身もこのまま黙っているわけにもいかないと観念したのか、運ばれてきたコーヒーを一口飲めば、ようやく重い口を開いたのだった。
「……実は最近、おかしいんだ……」
「おかしい?体の具合がよくないのか?」
以前、島に行ってすぐに体調を崩し、入院したと聞いていたのもあって川藤は半田の体を気にかけた。
意外に島での暮らしがうまくいっていると思えども、慣れない環境下では体にも限界が来る。
ーーこれは、もしかすると、もしかするかもな……。
川藤はごくりと生唾を飲みながら、次に来るであろう言葉を想定して身構えた。

「あぁ、その……あ、ある人物を前にするたび呼吸やら脈拍が正常にならないんだ。……これじゃ会話もままならないし、これは一体何なんだ……」
「…………は?何って、そりゃあ恋だろ」
「こい……?」
余命宣告をされたかのような、暗く沈んだ表情で相談があると言われたため、よほど深刻なことかと覚悟していれば、話されたのは存外な内容だった。

「なんだよ、半田。お前にもとうとう春かー!」
「はぁ!?」
拍子抜けだったとはいえ、親友である男にようやく遅かった春が訪れようとしている……その事実に感慨深く、表情を一変させて喜んだ。
「書道ばっかで、浮いた話一つもなかったってぇのに、お前も一丁前に恋するようになったんだなぁ……」
学生時代から長く横で見てきただけあって、親友が初恋もまだなのは知っていた。
むしろ書道が恋人と言うべきか。
それくらい、川藤の中での半田清舟と言う人物は恋愛に対して無頓着だった。
だからこそ、このまま一生恋と言われる代物とは無縁のままなのではないかと思っていただけに、川藤は親が子の成長を見守るかのような面差しで目の前の友人に感嘆の意を述べた。

「そうか……そうかぁ……枯れ切っていた恋が今かぁ……」
「枯れ切ってたとか言うな!てか違うぞ!そんなんじゃないからな!」
半田はと言えば、感慨にふけっている川藤とは反対に、必死に否定の言葉を発しながら、腕を大きく振り下ろす動作を何度も何度も繰り返している。
「違うのか?」
「あぁ、当たり前だろ!こ、これは恋なんかじゃない!恋なんかじゃ……」
……たが、川藤の問いに、最初は否定を繰り返していた筈の半田の頬は、墨汁を水に垂らしたかのように徐々に徐々に頬が赤く染まっていく。
それでは認めているようなもので、川藤はよほどいいお相手にでも巡りあったんだろうと顔をにやつかせた。

ーーこれはかなり、そのお相手にはまってると見た。
初恋などもう当の昔に経験した川藤にしてみれば、初めての恋にうろたえる半田の初々しい反応は、懐かしさやら甘酸っぱさを思い起こされる。
そして親友をこんなにまでさせた相手が誰なのか、興味が掻き立てられた。

「……で、そのお相手は誰なわけよ?わざわざこっちに来てまで話したいってことは、よっぽど聞かれたくない島の住民なんかか?てかあの島にお前くらいの年の人っていたか?子供や年寄りばっかだった気がしたんだが……いや、まてよ。病院になら若い看護師さんくらいはいるよな!?どうなんだよ、半田!」
身を前に押し出し、ついつい矢継ぎ早しに質問をぶつけてしまう。
早く知りたくて仕方がないと言った感情が眼鏡の奥の瞳をきらめかせ、顔を緩くさせる。
さきほど見せた、相手が言い始めるまで待つ余裕など、今の川藤にはなかった。

「これが恋なわけがない……!これは恋じゃない恋じゃない恋じゃ……!」
その一方、よほど恋と言う単語に衝撃を受けたらしい半田は、川藤の怒濤る質問を聞く余裕など無いようだった。
頭を抱えながら何度も何度も呪文のように繰り返し、自分に言い聞かせている。

「へぇ、あいつ呼ばわりとは、結構親密な間柄なんだな……すると……」
「そ、そんなことはないぞ!」
親密と言う言葉には過剰に反応したらしく、声を大にして必死に否定をし始めるが、川藤にはお見通しだった。
以前、腰痛持ちの初老の男性を殴り付けた事があるとはいえ、一応それなりの礼儀は心得ている……そんな友人が"あいつ"呼ばわりする相手はごく限られていた。
よほど気の置けない仲なのだろう。
そうなると、すぐさま川藤の脳裏に浮かんできたのは、半田の元によく訪れると言う幼い少女の姿だった。
「もしかして、あの幼じ……」
「んわけあるか!」
けれど、違ったらしい。
言い切る前に、すごい形相できっぱりと否定されてしまった。
どうやらロリコンではなかった事実に、内心ホッとしながらも、ならばと、また川藤は次に浮かんできた人物を口に出した。
「中学生か?」
島に訪れた際に、一緒に釣りをした中学生の少女は、活発さが印象的で色気という物はほぼ感じられなかったが、あと数年かしたら化けるだろうと川藤は思っていた。
ーー髪をのばして、赤くにでも染めたらなかなかの迫力美人になるんじゃねえかな。まぁ、オレは熟女の方がいいがな……。
そんな悠長なことを考えていれば「違う!」とまた否定の言葉が入る。
「なら、あー……」
島で仲良くなった相手が他にもいるのかと、再び頭を巡らせれば、次に浮かんできたのはエプロンの似合う女性だった。
「はっ!分かったぞ、半田!人妻だろ……ッ!!」
もうそれしかいないだろうと、確信した面持ちで川藤は半田に問いただした。
勿論、お前もとうとう熟女のよさに気がついたのか!と同士を見るような眼差しも忘れない。
「お前と一緒にするなぁ!!お前に相談したオレがバカだったよ!人がこんなに悩んでるのによぉッッ!」
だが、川藤の答えはまったく違ったらしい。
半田は、見当違いも甚だしいとばかりに、声を荒らげ、強く握られた拳を勢いよくテーブルの上に降り下ろした。
ガタン!!
それは中に入ったコーヒーが波を立ててカップからこぼれ落ちる程で、思った以上に店内に大きく響けば、一瞬静まり返る店内。
やがて、ひそひそと、若い女性たちの好奇心の入った声が川藤の耳に届いたのだった。
 
 ……なに?痴話喧嘩の真っ最中?
 ……分からないけど、あの眼鏡の人が泣かしたみたい。
 ……え、ホモの喧嘩?

ーーうぉい、なんでホモの喧嘩になるんだよ!オレはホモじゃないぞ!

好奇心を多量に含まれた複数の視線が、テーブルに突っ伏して泣き始めた親友と、自分に向けられているのが背中越しからでも分かり、居たたまれない。

ーーこ、これはどうにかしねぇと。
まずは、目の前で鳴き始めた男を宥めさせなければと、川藤は慌てて機嫌を伺いに掛かった。

「お、落ち着けって……ほら、コーヒーでも飲めよ
。うまいぞー」
「うっ……うっ……これが落ち着いていられるかぁ!」
「わ、悪かったって。いや、それしか思い浮かばなかったんだわ、ホント」
「……くそ……」
「つーか、お手上げだ、半田。話聞いてやんだから俺と会ったことあるかくらいのヒントはいいだろ?」
「……っ」
川藤の提案に、半田の動きが止まる。
どうやら泣くのは止まったらしいが、押し黙ったままで返事はなく、視線は変わらずテーブルの方を向いていて、一向に上げようとはしない。
ーーよほど言いたくない相手、か。
口を頑なに閉じたままの友人を横目に、川藤は吸殻を灰皿に置き、コーヒーに口をつけた。
しばしの沈黙。
コーヒーを全て飲み終えても、川藤はこれ以上何も言うことはなかった。
相手は未だに気にはなるが、もうこれ以上強引に聞き出したとしても、再び逆上させてしまうのが目に見えていたからだった。それだけはどうも避けたい。
ーーあとは、本人が言い出すのを待つしかないな。
黄色く染まった街路樹が面する窓の外に視線を向けたその時だった。

「……あったことは……ある」
店内に流れる曲に、かき消されてもおかしくないほどの、それはとてもとても小さな声。
ようやく告げられた返答は、聞き逃してもおかしくないほどのか細い声ではあったが、川藤はその声を逃すことはなかった。
「まじかよ、誰だ……?まったくわかんねぇ……」
人妻、中学生、幼女……それ以外に女性なんかと会っただろうか?
川藤は出会った村の住人の顔を浮かばせていくが、後に残るは老人だった。
それはさすがにないだろうと、頭の中で排除する。
むしろそれが正解だったらならば、今後は半田との付き合いを見直さなければならないと、川藤は訝しげにそう思った。

ーーもしビンゴだったら笑いを堪えることが出来なさそうだな……!つか、呼吸困難でしぬわ。しばらくは顔見ただけでもやばそうだから、電話でしか無理だな。いや、電話でも耐えられるかどうかだな……!

「あ、まてよ、空港でか……?」
そう言えばと、空港内の売店嬢あたりかと考えを巡らせる。あそこも一応、島内だ。
空港の見送りに半田も来ていたから、川藤が会ったか会っていないかは判断できる。
だが、書一筋の友人がそこまで葛藤するほどの相手だとは思えなかった。
彼女達の容姿を馬鹿にしているのではなく、なんと言うか、川藤には想像がつかないのだ。
半田は、そこらへんの女性に興味がない。
長年付き合っていればそれくらいなんとなく分かるものだった。

「ともかく、恋なんかじゃない!」
「けどその相手を前にすると動悸がすんだろ?」
「ああ、なんでか最近まともに顔が見れないわ、四六時中そいつのことばっかり考えて、二人っきりになると無性に恥ずかしくなってつい逃げたくなるし、ちょっとでも触れると変な声あげちまうし、気づけば紙にそいつの名前書いてるし……」
さめざめと言ってはいるが、要は相手が好きすぎて意識しまくってます。と言った内容だった。
「……重症だな」
これを恋と言わずしてなんて言うんだ?と、あまりにもの半田の鈍感さに川藤は呆れ果てた。
「いや、だが、これももう少しの辛抱だ」
「お?何かあるのか?」
「あぁ、近々あいつは島を出ていく事になってる。そうしたら、こんな馬鹿げたことも……」
「え、相手島でんのか!?おい、いいのかよ、このままで!」
それには思わず、川藤も半田の真意を問いただした。
相手が島を出てしまえば、直接会うことは難しくなるーー。
こんな様子だと、会うどころか連絡すら取ることなく、疎遠になってしまうことを川藤は危惧したからだった。
「……そ、れは……」
半田自身も思うところがあったのだろう。
川藤の問いに動揺したのか、瞳を大きく開き、一瞬垣間見せたのは、歯がゆいような……やるせないと言った、切なさそうな表情だった。
「……いいもなにも仕方がないだろ」
そう言うと、コーヒーカップを手で囲い、視線をそこへと向けた。
ベーシックな白い陶器の中に入った黒い液体からは、つらくて泣きそうな表情をした自身の顔が映り込み、それがゆらゆらと揺れている。
それはまるで、今の半田の気持ちを表しているかのようだった。
「ーーそれに、これはヒロが選んだ道だ……」
暗く沈んだ声で、ぽつりと言った言葉。
頭の中で思ったことを深く考えずに、口に出してしまったらしく、半田は自分が今発言した内容の重要性に全く気がついていないようだった。
「…………は?」
だが、川藤だけは違った。呆気にとられた表情で動きが止まる。
それは予想だにしていなかった、とある人物の名前が親友の口から聞こえてきたからだった。
「お、おい、待て、半田!今ヒロって……もしかしてお前がさっきから言ってんのって、あの金髪の高校生の事かよッッ!?」
「ひあっ!?」
いや、まさかそんなわけないよな!?と信じがたい形相で身を乗り出し、川藤は問いただした。
確かに以前、川藤は島にいった時にその人物に会ったことはあったが、目の前の男とさほど変わらない背丈の、金色に染められた髪以外特筆するところがない、ごく平凡の男子高校生の筈だった。
「どうなんだよ、半田!」
「ち、違うぞ、川藤!!そんなわけないだろ!!ヒロは男だぞ!」
「だ、だよな……いやーまじびびったわ。あの金髪の高校生君をお前が好きなわけねぇもんな……」
川藤は冷静さを取り戻すために再びタバコを取り出し、口にくわえた。

ーーつか、両方とも男じゃねぇか!

タバコの煙に顔を埋まらせながら、勢いに任せて世迷い言を言い過ぎたと自制する。
半田清舟と言う目の前にいる人物は、綺麗な顔をしているとは言え、所詮は男。
体ももやし体型といえども柔らかな胸は持ち合わせてはおらず、曲がりなりにも男の体をしている。
女なわけがない。
時折、友人の口から金髪の高校生の話は話題に上がってはいて、仲のよさは会話の中からでも伺い知れたが、金髪の高校生と友人の仲といえば、兄弟のような関係であったり、自身と半田清舟と同じような友人関係から来るものだと川藤は推測していた。

ーー確かに、そんじょそこらのやつとは違って半田は扱いにくいし、仲良くなるには根気がいるが、それでも、老人や女子供ばかりの島の中で、同性で年が近けりゃ仲良くなってもおかしくはないとは思うんだが……。

それがどう回って恋愛の方転がるなど、川藤には到底予想できるわけがなかった。

「そうだ!オ、オレがヒロのことなんかす、す、好き……なわけ……すきなわけなんか……!……す、きなんかじゃ……っ」
「…………半田……」
けれど、どうしてだろうか。 
好きと言う言葉にいちいち顔を紅潮させて恥じらう姿は、どこからどう見ても初めて恋を知った少女にしか見えなかった。       


親友に春がきたらしい

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