少女はどちらからの視点で物語が描かれているかによって、読み手の感情移入の矛先が変わると言いました。
逃亡犯を主人公にした話ならば多くの人が逃亡犯に感情移入をし、それを追う側の人間を敵を見なします。
変わりに逃亡犯を追いかける側の警察の話ならば其方へと感情移入をし、逃亡犯の方を敵と見なします。
ですが両方の視点で交互交互に物語が進めば、読者はそれぞれ自分の共感に近い人物の方へと視線を向けます。

…けれど、実は逃亡犯は身に覚えの無い罪で冤罪を掛けられていて、このまま捕まれば死刑は免れない。自分の味方になってくれる者はごく一部の人間のみ。内密に葬られた物的証拠を探し出し、自身の無実を晴らす為に真犯人を見つけだそうとします。
警察は、逃げた逃亡犯が残虐非道な犯罪者で、多くの者達の命を奪った大罪人と言う見解の元、次の憐れな犠牲者を出さない為にも、被害にあった人々の為にも、必死にその逃亡犯の足取り見つけ雨の中も強風の中も追い続けます。

逃亡犯が冤罪である事は、彼と、家族と…そしてこの物語を読んでいるあなたのみ。
逃亡犯が手に掛けたとされる被害者の中に、警察の男の家族、または恋人がいたのを知るのも、警察の友人か…私達のみ。
犯罪者の男と警察の男は、相手が無罪の人間である事と被害者遺族である事を知るわけもない。
その二人をあえて主人公にすれば互いの心理描写がより明確に伝わり、どちらにも感情移入がする事が出来るでしょう。
ですが、やはり、当事者の二人は互いがどんな人物でどんな想いを抱えているのかは、分からないままなのです。
最後になれば互いの事が明らかになるかもしれません。手と手を取り、本当の黒幕を暴き、ハッピーエンドな世界になるかもしれません。

……では、この物語はどうでしょうか。
少女の物語とするのであれば、少女を今狩ろうとしている人間達が悪者へと変わります。
医者の男の物語にするのであれば、少女達側はどんな理由にせよ、人の命を奪う悪者と成り果てます。
そんな二人が互いに手を組み、共存する世界を選びと言うハッピーエンドを迎える事…それは残念ながら出来そうに有りません。
血を吸い続けなければ死んでしまう屍鬼。
血を吸い続けられれば死んでしまう人間。
命を奪う者とそれを狩る者。
互いの生死が掛かっている以上、それはとても難しいのです。
そうして二つの種族は仲良く暮らしましたとさ…などと、どこかのお伽噺の様には行かない。

――でしたらもう一人、どちらにも属しない、または両方に属する側の者の物語ならば誰が悪者になるのでしょうか。
少女でしょうか?
医者の男でしょうか?

もしかしたらその者の物語では、どちらもが悪者になるのかもしれません……。


*



「ウワァァーー!!」

静まりかえった夜に響く叫び声。
誰の声なのか分からないその声が何処からともなく聞こえてくる度、青年は布に包まれた物をさらに一層強く抱きしめました。

「後、少しだ…後少し…っ」

何が起きても絶対に手を離さない様に大事に大事に抱き抱えて、光が一つも無い道でさえ屍鬼の特性の一つである夜目を頼りに走り続けました。
いつ襲われてもおかしく無い状況の中、目の前に広がる草木によって傷つけられる体。それによって滲み出る血。
時間の経過と共に自己修復されいくのが間に合わない程、修復してはまた傷を作ってを繰り返しなから道ならぬ道を進み続けていました。

「ヒッ、ヒァァァッ!助けてくれーー!!」

「ぐ…ぅっ」

突如、近くで聞こえてきた悲鳴。それに気を取られ、長く伸びた木の枝によって目をやられそうになったのを必死にかわせば、頬に触れてピッと音を立ててじわりと赤い血が頬を伝え落ちます。

――俺はまだ、ここで死んではいけないんだ。

「……か、これ…らお前は…尾崎の…者を――…」

木の陰に隠れて声のする方へと意識を向けてみれば、途切れ途切れで聞こえてくる内容は、どうやら襲った人間相手に人間側を率いているリーダー格の医者の男を見つけ次第殺害せよと、言い聞かせをしている様でした。
指導者を失えば統率力はなくなる。
朝日が昇る前に屍鬼達は打てる手はやれるだけやっておこうとしていました。
勿論、青年自身も残された時間はありませんでした。

――急ぐんだ。

再び静まりかえった辺りを注意深く見回して、青年は再び足を動かし始めました。
遠くの方では狐火の様な光と人工で作られた光がゆらりゆらりと揺れています。光がある方に行けば人がいる。そしてそれを狙う者がいる。
時には障害物に足を取られて転げ落ち、鋭利な者に身を貫かれながらも青年の足は止まる事は無く、背後から声がしても、知らぬ音が聞こえてきても、振り返れば死んでしまう…そんな呪いがかかっているかの様に、一度たりとも振り返る事はしませんでした。

「おい、あそこに誰かいるぞ!」

「起き上がりか!」

「くっ…」

――後少しなのに…!

鬼の仮面を被った男達に今から行くべき道を塞がれ、迫り来る魔の手。
今ならまだ自身と同じ種族、屍鬼達の元へ戻る事も可能でした。
今戻ればこの手からは逃れられる。屍鬼達も彼を仲間として助けてくれる事でしょう。
けれど、青年の中ではもう仲間でも同じ種族でも何でもありませんでした。
戻れば屍鬼達、突き進めば鬼の面をかぶった者達、青年にとってはどちらもが敵でした。
今、助けを求める事は出来ない。
後悔はもう二度としたくないと決めた時からこうなる事は覚悟していました。
どんな仕打ちがまっていようともそれでも貫くと決めたのです。
そんな、勇気を振り絞り、動き出した者に天は恵みを与えました。

「な、何だ…!?」

「…っ!」

暗闇に包まれた夜空が一瞬にして真っ白い空へと変化したその光景。
それは目が眩む程の雷光。
それが再び暗闇へと戻れば少し遅れて耳の鼓膜を破壊する位の大きな雷音と共に大量の滝の様な雨が降り注ぎました。

「な、何だ?うわぁっ!!」

「これじゃ前が見えないぞ!」

それは誰が何処にいるのかまったく分からないほどの集中豪雨。
青年は人々がそれに気をやられているのを好機とし、土砂降りの雨の中を潜り抜けました。

「後少しだ…あと少し…ッ!」

ばしゃんばしゃんと音を立て、足下を泥だらけにしながら誰かに言い聞かせるかの様に口に出したその言葉。

「もう少しだからな。もう、すぐ――…」


……そして目の前に現れたのは一つの一軒家。
懐かしい場所。懐かしい家。ずっと帰りたいと思い描いていた場所。それが今、目の前に確かに存在している。
胸がつっかえて苦しくてたまりませんでした。



*



「…明日の朝、この家を離れて私も保達のいる溝辺町へ向かうよ」

「あなた…?」

妻は夫の様子がおかしい事に気がついていました。祭り会場に向かった後、帰ってきた夫の顔は悲愴感が漂っていたからです。
男は原因不明の疫病の蔓延により、妻と子供達は先に溝辺町の知り合いのアパートに避難させていました。疫病の原因を見つけ、また村に戻ってこれる為にも今だけは辛抱してくれと説得して。
そんな、一人村に残る事を決めた男に妻は時折訪れては様子を見に来ていました。

「必要な分だけ今は持って行けばいい、持てる分だけ持って…とにかく一刻も早く…」

「さっきの巡回の人といい、誰が来ても決して窓も扉も開けてはいけないって…どう言う事なの…?」

「…」

「お願いよ。お祭り会場で何があったの」

黙ったままの男の手を両手で掴み、妻はもう一度言葉を伝えました。

「徹が亡くなった時、約束したじゃない…。家族四人で支え合っていこうって……だからお願い。隠し事はやめて。一人で抱え様としないで」

妻のその言葉に胸打たれ、男は暗く沈んだ表情のまま重い口を開けました。

「……疫病の原因が分かったんだ…」

「原因って…やっぱり感染症だったの…?」

「それは――…」

次々と男の口から告げられた言葉は到底信じられない事でした。

"起き上がりが実在し、村人を襲っていた"

そんなお伽噺を真剣に口にする相手に、他の人ならば人を馬鹿にしているのかと怒る所でしょう。
けれど、彼女は長く連れ添ってきた相手がこんな時に嘘を付く人物だとは思えませんでした。
むしろ嘘など付いた事が無いのではないかと言う程、実直な人柄に惹かれて傍にいる事を決めたのもあり、嘘の様な出来事でも彼が言うのであれば、それは真実になると思えました。

「恵ちゃんを殺した犯人が兼正の…起き上がりだったんだ…。それと…死んだ筈の大川さん所の篤君も見た……起き上がりだった彼女を助けに襲撃しに来たよ……」

「そんな……」

「…明日の朝、皆は躍起となって起き上がりの奴らを狩りに行くだろう……」

……大事な人を奪われた復讐の為に、この村を守る為に。

「ちょ、ちょっと待って…徹は…徹も……起きあがっているかもしれないの…?」

「…それは」

視線を背け、口ごもる夫の姿に妻は全てを理解しました。
それは決して可能性が無いとは断言出来ない一つの仮定。

「…徹が起き上がりになっているかもしれない…だから、家を…村を出るのね…」

そして自分達と縁の深い人達さえも起き上がっているかもしれない。
姿形は同じだとしても中にひしめくのは異形の者かもしれない恐怖がありました。

「……徹が例え起き上がりとなっていたとしてもッ私達の子供だ…ッ!自分の息子の胸に杭を打つなんて事…っ!」

「そんな…そんな…うぅ…っ」

「……葵と保には事情は隠して…とにかく明日すぐに溝辺町へ…」

「嫌よ!徹が起き上がっているかもしれないのに!徹を見捨てて行ける訳…!!それにあの子が起き上がっていなくてもあの子のお墓はここにあるのよ…ッ!今から惨劇が行われる場所に一人置いていくなんてそんな事…ッ!!」

妻の泣きわめく姿に男も悲痛な表情を浮かべました。

「静子…」

「いやよ…いや…」

「静子、いいか、よく聞くんだ。私達は確かに大事な息子を…徹を失った。だが、残された葵と保はどうなる。二人の為にも…」

「徹も…徹も一緒じゃなきゃ…保も葵も…徹も…ッ私の大事な大事な子供なの…ッ!せめて私だけでもここに……ッ!!」

声を大きくして泣き叫ぶ妻を強く強く抱きしめて、男は落ち着かせようとしました。

「……私も同じ気持ちだ…だが、しょうがないんだ……」

すまない、すまない…私の所為だ…と耳元で何度も繰り返される男の贖罪の言葉。それでも受け入れられない妻は男の腕の中で、枯れ切ってしまうのでは無いかと言う位に声を上げ、頭を振り続けました。

「いやよ…いや…あの子が可哀想よ…徹…徹…ッ!!」

――父さん…母さん…。

我が子を想い、その名を呼ぶ声につられて彼は人知れず涙を零しました。
生きている時には気づけなかった両親の温かさと愛情の深さに涙が止まりませんでした。


「……?」

妻を抱きしめたまま、男はふと窓の向こうにいる人の気配を察しました。どしゃ降りの雨の中、真っ暗な場所に一人立ち尽くす人影。
夜の闇に紛れて起き上がりが来たのかもしれない、一瞬それが頭に過ぎました。
もう二度と自分の大切な者を奪わせまいと腕の力を強くすれば、妻もまた夫の異変に気がつきました。

「あなた…?」

自分を強く抱きしめたまま、身動き一つしない夫を不審に思い、視線の先を辿っていけば、雨に濡れながら涙する人物…さっきまで何度も何度も名前を呼んだ愛しい……我が子の姿がそこありました。

「…!…と……」

…生前の様な琥珀色の瞳では無く、不気味な程に赤く染まった瞳を携えて。

「…っ!徹…!!」

「徹、なのか……?徹…っ!」

それでも二人には関係ありませんでした。
見るからに人では無くなってしまった息子の姿を見ても恐れる事が無く、ただただ我が子に再び会えたと言う事実に喜びが浮かんでいました。

「徹…!!」

決して開けてはいけない筈だと言うのに、自分の為だけに開かれた扉。

――有り難う。父さん、母さん…そしてごめん……。

嬉しさがこみ上げると同時に二人の知っている自分では無くなってしまった事が青年を苦しめました。
人を手に掛けてしまった事実はこの雨でさえ流す事は出来ない汚れた体。それでも一つだけ、何にも汚されていない綺麗はものはありました。

「……頼みがあるんだ…」

降り止まない雨の中。
その雨の量と同じ位、大粒の涙を流しながら震える体、声で、彼は自分の父親と母親にある事を頼みました。

「父さん…母さん…まだ俺を二人の子供だと思ってくれているのなら……」

あまり頼み事をしなかった息子からの最後の願い。それを叶えないわけにはいきませんでした。
雨音によって掻き消されてしまいそうな小さな声に耳を傾けて、両親は深く、深く、頷きました。

「……有り難う。こんな頼みを聞いてくれて……」

「徹…!一緒に逃げよう!お前が血を望むなら父さんの血を吸えばいい!何だったら病院から輸血用の血をとってくる事だって出来る…!だから徹…!」

――父さん…。

目の前に差し伸べられた手。ごつごつしていながらも温かくて、大きくて。安心する手のひらを幼いながらも必死に握りしめた幼きあの頃。

――その手を掴めたらどんなに幸せか。

けれど、ふいにその手が細く弱々しい手と被って見えれば青年は背を向けました。

「……ごめん、父さん。夏野と…約束したんだ。…だから、行けない」

「夏野君と…?」

「あぁ、あいつが待っているんだ…だから早く行かないと…」

青年は言葉を一つ、一つ丁寧に選んで口に出しました。
それは二人を安心させる為の言葉。
例え少年と約束をしていなくとも、屍鬼となってしまった青年が一緒に行く事は出来ない。
だから心配させない様に。
自分の事で二人が今後一生さいなむ事が無い様に。

「…俺、もしまた生まれ変わる事が出来るのなら…また父さんや母さんの子供に…息子として生まれたいよ…。保と葵の兄弟で、また――…」

そんな息子の気持ちを親である二人が気づかない訳がありませんでした。
……二人は分かっていたのです。この日が一生の別れである事を……自分達が今後一生悔やむ事が無い様にと、気を使って言った言葉である事を。
それを知っていながらも、それでも行くと決めた息子を止める事は出来ませんでした。

そして…"お前がどんな姿になったとしても、それでもお前は私達の息子だ"…とも言えませんでした。
どんなに声を振り絞ろうとも、その一言はとても重く重く、喉の奥で詰まってしまい、どうしても言えなかったのです。
何故ならば、息子を見捨てて行く事実には変わりない…。

「徹…っ!徹…っ!!う…っうぅ…っ!!」

「とお…っひっく…徹…っ」

沢山の涙をこぼしながら、それでも何とか繋ぎ止め様と必死に自分の名を呼び続ける両親に、青年は最後に自分の気持ちを告げました。

「――どうか、生きて」
――俺の分まで。

「…っ」

それは遺言とも言える言葉でした。
背を向け再び闇の中へと紛れ様とした青年に、二人は声を大にして呼び止めました。

「徹!!」

その声に反応する体。
けれども背を向けたままのその後ろ姿。
それを見つめながら嗚咽の混じった声を必死に絞り出してその背中に投げかけました。

「…いって…いってらっしゃい…!」

「夏野君が待っているんだろう…ッ!気をつけていってくるんだぞ…!徹…!!」

大雨の音でかき消されながらも何とか聞こえてきた声は、自分に向けられた温かな声援。
それに背中を押されて、青年は今までに無い位の満面の笑みを浮かべました。

「…ッ!……いってくるよ、父さん、母さん…!」

それが最後の言葉であろうとも決して"さようなら"は言わない。

……またいつか、ただいまと笑顔で戻ってこれる様に。


*

時間にして数十分程の通り雨が止み、大きな水たまりの出来た舗装されていない道。無我夢中に走った所為で、あちらこちらから血が零れ落ちている体。
屍鬼の特性上すぐに治るとは言え、先ほどの雨水によって流された血液に、弱っていく体を感じながら青年はひたすら走り続けました。
たった二口しか飲んでいなかった為に足が重くなり、久々の飢えが彼の中を占めていこうとも。

「う…はぁ…」

誰かを襲って血を摂取する事はしませんでした。
青年が願う事はただ一つ。

――夏野。少しでもお前の近くに……。

…少年との約束を叶える事でした。
本来ならば役目を終えた青年はもういつ死んでもいいと思っていました。刃向かった自分に帰る場所は無い。ならば自分の家から遠く離れた場所で、深い眠りについてこのまま――…。
そう考えていた青年に、少年は希望を与えました。

"あの場所で待っている"…と。
だから少年の為だけに命を残す事を決めました。無様に生に縋り付きながらも生きる事に決めたのです。

――もし、間に合ったら……今度こそ伝えよう。謝罪の言葉と共に、お前の事が好きだったと。

まだ伝えていない言葉。伝える事が出来なかった秘めたる想いを胸に、青年はひたすら前へ前へと駆け出しました。

……けれど、

「……ようやく見つけたぞ。ここにいたか」

「……辰、巳」

……人狼の男の出現によって、その願いも儚く崩れ落ちようとしていました。
10.08.12-11.10.22
八話

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