苦しい世界しか待っていないのであれば、その手で閉ざしてしまおう。
青年のせめてもの慈悲は自分と同じ道を歩ませない様にする事でした。
自分達の存在に気づいてしまった村人達は時期に自分達屍鬼を狩りにくるだろう。
逃げてもきっと無駄に終わる。時期、朝日が来る。村人達の手からうまく逃げ切れたとしても、先はもう無い。
ならば――……。
「ごめんな…」
駄目だと分かっている筈なのに、その柔らかな肌に歯を突きたてて血を吸いたいと心が蠢く。
「お前は俺達の食料となる為に…俺達側になる為に生まれてきたわけじゃないのに…」
青年は涙を零しながら何度も何度も謝罪の言葉を告げました。
「生きていても幸せにはなれないんだ…。ならいっその事…俺達側になる位なら…」
心の中で何度も何度も……。
「時期にあいつらが俺達を狩りに来る…。きっとこの子も殺されてしまうだろう…」
……この屋敷にいる以上、ここの子供だと思われて殺されてしまうかもしれない。
それ位今の村人達は狂気に入り乱れていました。幼い少女をその手に掛けた程。
そして、赤子の鳴き声は静まり返った夜にとてもよく響く。うまく連れ出したとしても道中泣いてしまえば彼らに居場所を知らせてしまう。
発見されやすい安全な場所に置いて、気づいた人に保護して貰う事も考えましたが、辰己や屍鬼達に見つかってしまう危険性が高い…。
何より、この閑静とした集落では人と人の繋がりが深い分、プライバシーが無い様な物で、誰が死んだやら、どこかの家で赤子が生まれたなどと言う情報は瞬く間に広がります。
1300程の人口しかないこの村…外場村にとって赤子は貴重な財産。村の人々がそんな子供の誕生を誰一人として知らない訳がありませんでした。
つまりは村の誰かが子供を産んだと言う知らせが無い以上、この赤子は新しく引っ越してきた桐敷家…つまりは沙子の家の赤子と言う説が浮上してもおかしくはありませんでした。
ならばこの赤子も見つかれば、ほぼ死は免れない。
…思い出すのは屍鬼であった女性と、小学生にも満たない少女が辿った見るも無残な最後。
――そんな目に合わせる位なら。
「ごめんな……っせめてお前だけでも苦しまない様に俺が…この手で…」
初めて触れたその感触は思った以上にとても柔らかく。
震える手で優しく抱きしめてみれば、自分にはない子供特有の温かみが触れた部分から伝わってきました。
一定のリズムで聞こえてくるのはその子供が生きている証拠である心臓の音。
屍鬼には無い、脈が打つ音。それはその子供が屍鬼の子ではなく、人間の子であると言う証明。
「あー…」
小さな手のひらと体を動かして、その赤子が可愛いらしい声を発すれば、溢れ出る大粒の涙。
「…っごめんな…っ本当に…ごめんな…っ」
心なしか子供を抱く手に力が篭ります。
そっと今にでも折れてしまいそうな首に手をやれば、まん丸としたその可愛らしい瞳は涙する男の姿を映して、不思議そうな表情を浮かべていました。
"どうしたの?どこか痛いの?"
そんな言葉まで聞こえてきそうでした。
「ごめんな…」
キラリと光った一粒の涙が、朱に染まったふくよかな頬にぽとりと落ちた瞬間、指先に力が込められたのでした。
*
木で出来た物ではない、この世でたった一つしか無い杭。
それが体の奥底に深く打ちつけられれば、体を引き裂かれている錯覚に陥ると同時に、これまでになかった歓喜の渦が胸の奥底で沸き起こる。
この痛みは彼の存在をはっきりと明確にし、今起きている事が決して夢や幻ではないと教えてくれる。
それが事実と知るやいなや火照ったその身に無数に降り注ぐのは、氷の様に冷え切った雨粒と呪いの言葉。
それは果たして…のろい、なのか。
まじない、なのか。
孕め、孕め。
――俺の子を。
"ここからだと村の全てが見れるだろ?どうよ、壮観だろ"
"小さい頃はこうやって、この景色を見るのが好きでさ"
"そういや、ここからならお前がどこにいてもすぐ分かるな"
"なぁ夏野。来年もまたここで――…"
村全体が一望できるその場所で、彼は笑顔を向けました。
その笑顔は少しずつ顔を出した太陽の光に照らされて、とてもとても輝いて見えました。
「…夢か」
視線を向ければそこには一つの開かれた窓。当に太陽は沈み、暖かく湿った気候から冷たい風へと変化した空は小さな光さえ無い暗闇が広がっていました。
――今日で何日だ…。
日付の感覚さえ分からなくなっている少年の頭に、ふと医者の男の姿が浮かび上がりました。
その男は少年同様いち早く村の異変に気づき、動き出した人物でした。
だからこそ少年はその男に協力しました。
例えその男が屍鬼達の手に掛かり、言い聞かせをされたとしても自我を保ち続けていられる様にと暗示を掛けたのです。
…けれど、暗示を掛けて久しく、当に切れていてもおかしくはない状態でもありました。
――村は今どうなっているのだろうか。
医者の男に言い聞かせをした帰り、運悪く人狼の男に捕獲されてしまった少年。
人の食する物で飢えを補っていた少年と、人の血を吸って人狼の本来の力を発揮した人狼の男との力は歴然でした。
そしてこの部屋に幽閉されてからと言うものの、今現在まで村の状況がどうなっているのかは知らされていませんでした。
少年も捕まった当初は本気で抵抗しようとしてました。
腕に絡まった鎖はすでにあと少し力を入れれば壊れるほどに調整をし、隙をついて逃げ出そうとしていました。
ですが――…。
"夏野。ごめん…"
その一言と共に無理やり開かれた足。絡みつく冷たい手。内壁に深く打ち付けられた杭。
それはずっとずっと欲しかった…この姿にならなければ一生手に入る事が無かった筈の物…。
涙を流し贖罪と呪いの言葉を吐く彼の瞳は熱に浮かされており、脅されていたとは言え、自分の体に少しでも欲情していてくれていると言う事実が少年に抵抗の意思を無くさせていったのでした。
――一度は捨てた身。なら、このまま徹ちゃんの為だけに存在して行くのも悪くない。
――…いや、むしろそれがいい。
一度は自分の命を投げうってまで屍鬼ら全てを殲滅しようとした少年。
例え自分の体の一部が目当てであったとしても、少年は彼が求めてくれた事が嬉しかったのです。
「…夏野」
ふいに自分の名を呼ぶ優しい声音。
それにつられて顔を向ければ、いつの間には先程まで思い描いていた相手…、
「…徹ちゃん…」
…武藤徹の姿がありました。
「ごめん…」
青年は暗く沈んだ表情のまま、少年の反応待たない内に、ある事実を告げました。
「…死んだよ…ちゃんとした設備がここには整って無かったら……」
嘘を付きました。それは初めて親友に付いた嘘でした。
そして誰が死んだのかはあえて言いませんでした。けれど少年には分かっていました。…誰が死んだのか。
「そう…か」
少年が口に出したのはたった一言のみで、それ以上何も追及しませんでした。
「ごめん…夏野…」
指を折り曲げ強く握り締めれば、先ほどまで触れていた赤子の柔らかな感触が蘇ります。
何の疑いも知らない無垢なる瞳で青年の姿を映していた顔も、愛情を求めていた声も。
「…ごめん…」
チラリと少年の手に絡まる拘束具に視線を向ければ少女が言った様に確かにそこには大きなヒビが入っていました。
よく見なければ分からない位置に。
それを見て青年は表情を変え、先ほどとは違う強くはっきりとした口調で告げました。
「…夏野。逃げるんだ。村の人達が俺達に気づいた。朝日の始まりと共にこっちに来る。俺達…屍鬼を狩りに」
「…逃げるって…」
「もう。ここもおしまいだ…辰巳の力を奮っても無理だろう」
「徹ちゃんはどうす…ッ、んぅ…」
言葉を遮られる様に流し込まれる液体。
前と変わらない、ただ栄養を与えるためだけの事務的な行為。
「……その鎖、取れるんだろ?」
微かに目を真開き、言葉を詰まらせた少年の動きを青年は見逃しませんでした。
――あぁ、やはり…そうか。
「もういいんだ。――自由になれ、夏野。今まで…有難うな…」
「どう言う事だよ…」
「お前が脱出できる分だけの血はここに置いとく。時期に朝日が昇る…その時にこれを飲み干してあの窓から逃げるんだ」
そこにあったのは青年の食糧であった筈の血の入ったガラスのコップ。
2、3口しか飲んでいない為、コップの中にはまだ半分程残っていました。
…人狼の持つ力を発揮できるには十分な。
「辰巳があいつらの方に意識がいっている時がチャンスだ。お前一人だけだったら逃げ切れる筈だから」
「ちょっと待てよ!徹ちゃんはどうするんだよッ!徹ちゃんも一緒に…ッ」
「――いや」
どう考えても二人で一緒に逃げる事は出来ませんでした。
一人ならまだしも二人固まればその分見つかりやすくなる。
そして、自分自身が少年の足枷になるのは目に見えていました。
――時期に腹が減り、自我が無くなり血を欲してしまうだろう俺は絶対に夏野の足手まといになる。
体内の血が減れば体力も落ちる為、足の速さも減退する。
そうなった時、少年は自分を見捨てて行けないのも分かっていました。
何故ならば自分の為に少年自ら囚われの身となった事がそれを実証していたからです。
屍鬼である青年が自由に歩き回れる時間はさほど残ってはいない。
屍鬼の特性上、朝日が昇れば自分の意志に関係無く、深い眠りへと入ってしまう。
だからこそ村人達は日の入りと共に攻めてこようとしていました。
唯一、屍鬼が無防備になってしまう時間帯を狙って。
――そして二人にとって周りは敵だらけでした。
屍鬼狩りを始めた村人達は勿論の事、辰己や屍鬼側にさえ逃げれば追われる事になる。
そうなると周りは敵だらけ。味方はいないと言ってもいい。
そんな状態でこの八方塞がりな村の中を逃げまわる事はそうそう容易い事ではありませんでした。
――このまま一緒にいれば共倒れになってしまう。
「お前は沙子…屍鬼の奴らにとって大事な存在だ。お前が逃げれば確実に辰己が追ってくる。だけどお前一人なら…」
少年はずっとずっと前から欲しがっていた特殊な人狼。
一定の条件でしか生まれなく、更には他の人狼には無い機能を携えた少年の存在はとても貴重で、決して見逃してもらえる訳にはいきませんでした。
…勿論、少年と対をなす青年も同様に。二人が存在しなければ出来ない計画の為に。
ならば二手に別れた方が得策なのは確かでした。
それと――…、
「…それに俺にはまだしなきゃいけない事があるんだ」
青年にはまだやらなくてはならない事がありました。
それは自分にしか出来ない、しなくてはならない大事な事。
「…だから一緒には行けない」
「しなきゃいけない事って何だよそれ…!」
青年はその質問には答えませんでした。
代わりに背を向けて、今にでもこぼれ落ちそうな涙を必死に噛みしめました。
「……俺はお前に今まで沢山酷い事をして来た…。許してくれとは言わない。けど、もし――…」
――まだ俺の事を少しでも想っていてくれるのなら……、
そこまで言いかけて口を閉じました。
――何を言おうとしているんだ俺は。今更…都合がよすぎる。
「……いや、聞かなかったことにしてくれ」
「徹ちゃん!」
結局自分の本心を言葉にする事もせず、そのまま部屋を出ていこうとする相手に、少年は必死に引き留めようとしました。
少年は分かっていました。今までの曇りきった表情が無くなった事を……命に代えてでも何かを成し遂げ様としている事を。
――今止めなければ、死んでしまう。
そう思った時、
ガシャン。
勢いあまって体を動かした反動で、大きく音を立てて砕け散る拘束具の破片。
その拍子に天井に吊らされていた長い鎖がジャラリと音を立てて床に落ちれば、支えを無くした体はそのまま膝をついて倒れました。
「来るなッ!!絶対に!」
血が足りない所為で足元がふらつく少年の方を見ないまま、青年は大きく声を上げて牽制しました。
そして、一呼吸置いてから、…愛しい相手に自分の気持ちを告げました。
「…逃げてくれ。こんな俺が言う権利はないけれど、夏野。お前だけは…生きて欲しい」
「徹ちゃ…」
自分の名を呼ぶ声に後ろ髪を引かれる思いでそのまま一度たりとも振り返らずに扉をしめれば、予め細工しといた鍵を差し込んでパキンと音を立てて二つにへし折りました。
鍵穴に見事にはまった鍵の一部。
動かす事も、抜く事も不可能となったそれは、他の鍵で開ける事すらも出来ない頑丈な扉へと変貌しました。
――もう二度と会う事は無いだろう。
青年は名残惜しく、その扉に背中を押し当てました。
――どうか、生きてくれ。
瞼を閉じれば、最初に少年と出会った頃から今までの事が走馬燈の様に駆けめぐり、我慢してい涙が一粒、伝え落ちました。
初めて名前で呼んでくれた日の事、部屋に来てくれた事、そして一緒に初日の出を見た事…。
――結局、あの約束は叶えられなかったな…。
"来年もまたここで"
あの時とは違う、大きくかけ離れてしまった二人の心。
気持ちを伝えられなくても、ただ一緒にいられれば青年はそれで満足でした。
いつか…都会に行ってしまう相手だったとしても。
"むしろあなたが彼を縛り付けておきたいんじゃない?自分の所有物として"
あの時、少女に言われた言葉。
――確かにそうだったのかもしれない。
どんな形にせよ、自分だけの物となった相手。
このまま鎖に縛り付けておけば都会に行ってしまう事も無い。どこかであの状況に甘んじてた自分がいたのは確かでした。
――許されるなら…お前ともっと一緒に――…いや、これでいいんだ。これで……。
償い切れない罪を沢山犯してしまった青年は、自分の欲を願う資格などないと言い聞かせました。
――辰巳もいつ戻ってくるか分からない。早くしなければ。
そうしてその場から去ろうとした瞬間。
「……待ってる」
「…!」
"待ってる"
今にでも消えて無くなりそうな声で聞こえてきたその言葉。
確かに少年の声で扉の向こう側から聞こえてきた気がしました。
――いや、そんな訳無い。気のせいだ…。
そう思い、再び足を動かそうとした瞬間、確かにもう一度、はっきりと少年の声でその言葉が聞こえてきたのでした。
「俺、待ってるから…あの場所であんたが来るの待ってるから…ッ!だから…ッ」
「…っ!」
「一緒に生きよう、徹ちゃん…ッ!」
その言葉に、青年は振り返る事はしませんでした。涙が溢れて溢れて…今振り向いてしまえば、決心が鈍ってしまうと思ったからでした。
死に行く自分を察して掛けてくれたであろう言葉。
こんな姿になっても、待っていてくれる人がいるとは何と心強いのか。
青年は走ります。
朝日が昇る前に、自分の命が潰える前に――…。
10.09.02-11.10.02.
七話
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