「……辰、巳」

「アレをどこへやった」

「ぐ…」

青年は咄嗟に口を噤みました。
"アレ"それが何なのか、明確に口に出されなくとも分かっていたからです。

「お前が持ち出した事は分かっている。どこへやった」

じり…じり…と少しずつ近づいてくる音。
青年もまた同時に相手が一歩踏み出す度、後ずさりをして一定の距離を保とうとしていました。

「これが最後のチャンスだ。今一度聞く。――あれをどこへやった」

威圧的に更に一層低くなる声。赤々しく光る瞳。

――答えぬと言うならば、分かっているだろうな。

そんな言葉が聞こえてきそうな刺々しさがひしひしと感じられ、蛇に睨まれた蛙の様にその瞳に捕らわれて足元が竦みます。

「……こ…殺した。殺して埋めた…っ!」

青年は震える足を必死に堪え、声高々に言葉を吐き出しました。拳を強く握りしめて、瞳を反らす事無くはっきりと。

「――――ほお」

けれど人狼が一言発した瞬間、背筋がビリビリと音を立てて凍り付き、自分の意識に関係無く再び震えが起き始めました。
体中の毛穴がぶわっと開く感覚。今すぐにでも逃げろと警告の鐘がけたたましく体の中で鳴り響きます。
このまま立ち向かえば、勝つ見込みはない。
けれど逃げきれる確率さえも無いと言ってもいい程でした。
体力も力も足の早さもあちらの方が遙かに上……それほどまでに人狼と屍鬼である青年の能力的な物に差があるばかりか今の青年の体内の血液は減量している。
少しでも背を向ければ距離を置くどころかすぐに背後を捕られ、命を奪われる事でしょう。
すでにこの男に出会ってしまった時点で詰んでいました。

「お前達はもう終わりだ…っ!!滅ぶべきなんだ……!」

それでも青年は最後の足掻きとばかりに大きく大きく声をあらげました。雨音が止み、その声を遮る物が何一つ無くなったこの場所にとってその声はよく響き渡りました。

「……それに…お前達、""起き上がり側"にされる位なら俺がこの手にかけた方がまだましだ…!」

――アレ呼ばわりする奴なんかに…!誰が…!

あえて"起き上がり"の部分を強調する感じで叫ぶ青年に、人狼はさらに表情を変えていきました。

「――だから殺したと?ならば仕方がない。また作らせばいいと思ったが沙子に刃向かうならばお前とてもう用はない。太陽の光で焼け爛れる方法もいいが…そんな暇も無いからな。すぐに仕留めてやる」

「…!!ぐ、ぅ……」

あっと言う間に間合いを取られたかと思えば首元を捕まれ、持ち上げられる体。宙に浮かぶ足。
青年の首を力強く締め付ける人狼の男の手は太い血管がボコボコと浮き出ています。

「丁度そこに突き出た鉄材がある。そこめがけて投げつけてやろうか」

狩人の目から罪人を今から裁く処刑人の様な形相へと変われば、絶対的な勝者から来る高圧的な笑みを見せました。
それは決して自身が負ける事などないと言う余裕の現れ。

そんな男に青年はうっすらと笑みを浮かべました。
それはどことなく晴れやかな顔をしている様にも見え、死を直面した者の表情には到底思えませんでした。

「……何故笑う。自分の最後を確信して気でも狂ったか」

さすがにそれには人狼の男も不審に思ったらしく、青年に問いました。
過去今まで自分が処罰してきた屍鬼達は人狼の男に怯え、謝罪の言葉をひたすら吐きながら必死に足元にすがりつき命をこう者ばかりだったのが、青年は違っていました。
一度たりとも膝を地面に付ける事も無く、背を向ける事もせず、それどころか挑発の言葉まで投げつける始末。
それはまるで自分に意識を向けさせ、何かを待っている様な……。
あえて大きな声を上げる事によって居場所を誰かに知らせている様な――。

「…まさか、貴様…!」

人狼の男が青年の意図に気がついたのも束の間、風を裂く様な高い音が夜空に響き渡りました。

「…ぐ、ぅッ……」

「っ…!……!」

咄嗟に手を離された事により、地面に倒れ込んだ青年が見たのは人狼の男の腹部に広がる真っ赤な血……それはまるで狙撃されたかの様な傷跡がありました。

「こっちだ!兼正ん所の奴がいるぞー!!」

聞こえて来たのは年を幾つか重ねた男性らしき声。
声がした方へと視線を向ければ複数の村人達の姿がそこにありました。
その手には鎌や斧、そして猟銃と言った武器を携えながら。

「チッ…!」

人狼の男は舌打ちをしました。
何故ならば村人達の出現により、たちまち不利な状況に置かれてしまったからです。
人よりも優れた能力もあり、朝も夜も関係無く行動が出来るとは言え、多くの村人達を一人で対応するには限度がありました。
だから青年をすぐに始末して、同胞が動き回れる夜間の内に行動を起こして来る朝に待ちかまえるつもりでいました。
更には屍鬼や人間よりも打たれ強いとは言え、一応は弱点はある。屍鬼と同じ様に胸の中心部を杭によって貫かれたり、爆薬などによって身を粉砕されれば一溜まりもありませんでした。――そう、今のこの状態の様にされてしまえば。

「……猟銃ときたか。分が悪いな」

「逃げるぞ!しとめろー!」

村人達の声を皮切りに再び鳴り響く発砲音。
先程の様に命中とはうまく行かず、かすれた人狼の男の頬に掠り傷が一つ。
いつまた来るか分からない再びの銃撃に人狼の男は意識を向けさせ、隙を見て逃げ様としているのが分かりました。
それと同時に青年もまた、人狼の男からも村人からも逃げれるチャンスでもありました。
人狼の男の居場所を村人達に知らせる為に青年はわざと声を上げ、そしてその通りになった。
村人達が現れたのは偶然ではなく、青年自らが作り出した好機でした。

「……っ」

そう、今ならばまだ逃げられる。――彼の待つ場所へ。

「……くっ!」

「!…貴様……っ!」

……けれど青年は逃げる事はしませんでした。

――今、逃げてどうする。こいつを生かしたままじゃいけないんだ…!

そう自身を震い立たせば、勢いよく人狼の男の体にしがみつきました。

ごきゅり。ごきゅり。

後ろから羽交い締めにして、以前やられた時の仕返しと言わんばかりに奪えるだけ血を奪いました。

「よ、くも……っ!」

血と共に失われていく自身の人狼としての力。
自分にしがみついたままの青年の服を勢いよく引っ張れば、そのまま思いきり地面へと投げつけました。

けれど青年はすぐ様起き上がり、もう一度人狼の体にしがみ付きました。

――父さん達が無事村から出る為にもこいつは邪魔だ…!それに…こいつだけは……野放しにしては置けない…っ!

家族を盾に少年を襲えと脅し、少年を犯せと命令した男。
青年にとってその指示に従ってしまった自分同様に許せない存在でした。

「早く、早くこいつを仕留めろ!早く!!」

青年は村人達に言いました。

「ど、どう言う事だ…!?仲間割れか…!?」

「誰かはよく見えないが、どうやらあいつら側の一人が兼正の奴の身動きを封じているみたいだぞ!」

いきなりの青年の行動に村人達は動揺を隠せませんでした。
あちら側である筈の赤い瞳をした人物が同じ側の男に反逆し始めたのですから。

「くそっ!離せ……!!」

先程、血を吸われた所為で若干力が劣っているとは言え、人狼の力はまだ青年よりもありました。

――このままではすぐに拘束が解かれてしまう。

「いいから早くしろッッ!!」

青年はもう一度大きな声を出して村人達を促しました。

「早くしろって…」

「いいから!このまま一気に俺ごと……やってくれ!!」

何度振り回され様とも、爪を立てられ傷つけられ様とも、青年は背中をがっしりと掴んでいました。

「離せ……っ!邪魔だ!!」

普段の人狼の力であれば、容易く抜けられる筈が、どうやっても抜け出す事が出来ず、男も焦りを見せました。

「う…撃てー!」

――もう会えないみたいだ。……だから…どうか、生きてくれ――夏野。

「……もし生まれ変わる事が出来るのなら、今度こそお前に――…」

――好きだと伝えたい……。

止むことなく何度も何度も間隔的に発射される銃声音。飛び散る真っ赤な血。放り投げられ宙に浮く体。

そして――…。



「そっちに逃げたぞー!」

「相手は手負いだ!今だ!やれー!」




「……こりゃぁ、武藤さん所の子じゃないか…」

「……彼も起き上がりだったのだろう?」

ぴくりとも動かない手のひら。大きな水たまりには赤い色が滲み、胸部には鉄材が突き抜けて見えていました。

「だが、あいつを足止めしてくれたのも確かだ」

「なら、あちら側に行っても、心だけは私達側だったのだろうか……」

いいえ、きっと彼はどちら側でもなかったのかもしれません。

「おい、何してんだ!あいつを追うぞ!!」

「あ、あぁ!分かった!!」

村人達は手負いとなった人狼の男を追うのに躍起で、取り残された武藤徹であった躯がぽつんと寂しく横たわっていました。
泥まみれになった顔。
地面に滲み出る血液。
激しい抵抗をした為に付いた傷跡が無数に見え、誰が見ても痛々しい姿となってありました。

……そこに一人、悲しげな表情を浮かべながら青年の躯に近寄る人物がいました。

「何で…だよ、何で…一緒に逃げようって行ったじゃないか……徹ちゃん…」

体を起こして雨と泥に汚れた顔を拭えば、そこには屍鬼となってからは見る事がなかった…柔らかな笑顔がありました。
何かを成し遂げたかの様な、満足そうな笑み。

「徹ちゃん……」

――なぁ、何をしようとしていたんだよ、徹ちゃん…。

少年は結局、青年が最後に何をしようとしていたのか分からずじまいでした。
自分の想いは果たして伝わっていたのか、一緒に逃げ様としていてくれていたのかさえも分からぬまま……。

閉じられたままの瞳。何かを発する事も無い唇。触れた体は相変わらず冷たく冷え切っていました。
相手から触れてくれるのを待つだけで、自分からは触れる事が出来ずにいた体。触れたくて仕方がなかった体。けれどもう、そこに武藤徹は存在していない。

器があってもそこに中身がなければ意味が無い。

――あんたがいない世界なんて俺にはもう――……。

「価値が無いよ……徹ちゃん……」

自分の方に近づいてくる幾つかの足音。
それを耳に入れながら、愛しかった相手を強く抱きしめて、少年は深い悲しみに暮れたのでした。



……そして次の日の夜、村から火が上がりました。

屍鬼と人間との戦いが、後少しで人間側の勝利と言う決着が着く前に、誰かが放火したのか…たった数分間だけ降った昨日の雨などなかったかの様に、村人達の懸命の消火活動も空しく、瞬く間に村の全てを包んで燃え盛りました。

多くの悲しみも嘆きと一緒に空高く、赤い炎を揺らして真っ赤に燃え上がる夜空。
村全てを覆い、生者も死者も関係無く飲み込む勢いで、さらに火は強くなっていきました。
燃え盛る中に転がっていたのは、どちら側なのか分からない無数の亡骸達と……人狼の男の骸。

その中に屍鬼の少女と新たに生まれた人狼の男の姿はありませんでした。


――少年の姿も。



*





幸せと言うのは当事者にしか分からない物もあるわと少女は言いました。
きっと誰もが私のこの体を見て可哀想だと嘆くでしょう。
そんな事をしたくはなかったけれど、生きる為に仕方なく、多くの人の血を吸って殺してしまった。
そして太陽のある青空の下で歩くことも出来なくなった。
でも、家族が出来たわ。私と言う屍鬼を理解してくれた人もいた。
だから不幸ではなかった。
人の幸せと言うのは、人の一般的な幸せを基準して見定めてそして人々は口々に言う。
けど、本当にその人達は幸せかしら?
お金もちだから幸せだろうと、綺麗な人だから幸せだろうと言うけれど、彼らにだって人には言えない悩みや苦しみもある。
本当に幸せな人生を歩んでいるのかは当事者しか分からないの。…と、少女は言いました。

だから、例え周りの人々がどう思っていようとも当事者の二人が幸せだと思うのであれば、それはどんな形だったとしてもハッピーエンドなの。……少女はそう言いました。





住民がいなくなり古びてしまったくもの巣が張る、廃屋、樅の木が生い茂る場所。
雑草を駆除する人間がいなくなり、昔は歩道だった場所さえも今では雑草が生い茂ってしまった場所。

そのとある場所で、珍しく人の姿がありました。
幼さが今も尚残る少年と、太陽の光を遮るかの様にフードを頭に被せた青年が二人、その場所に立ちすくんでいました。
涼しい表情の少年とは打って変わって青年だけは肩を大きくゆらし、息も絶え絶えな状態を見ると、つい今しがた全速力でここまで走ってきたかの様。

「……はぁ…はぁ…っ」

青年の乱れた呼吸だけが静まり返ったその場所で響く中、互いに目の前の人物の姿をその瞳に捉えて、暫く二人は見つめ合っていました。



それからどの位時間が立ったのでしょうか。薄暗かった場所もやがては日が昇り始め、今まで太陽の無い場所でしか会う事ができなかった二人の姿を太陽の光が照らせば、それは二人の再会を祝福をしているかの様に思えました。

そして青年は大きく大きく深呼吸をしました。
ある言葉を少年に告げる為に。
それはずっとずっと伝えたかった大事な言葉。

「俺、お前に伝えたかった事があるんだ―――…」

その言葉に少年はただ黙って次の言葉を待ちます。
彼も伝えるべき言葉があったからです。……ですが、それは今目の前の人物の言葉を聞いてからでも遅くはないと思いました。
もう長い月日を少年は一人待ち続けてきたのですから、ほんの数分など一瞬と変わりません。
恋焦がれていた相手との思いがけない再会に今は溢れ出る想いをかみ締めていました。
例えこれが夢か幻だったとしても、自分に残された最後のチャンスなのだろうと少年は思いました。
本来ならば、もうこの世にいない人。
その者の墓の前に本人が現れたのですから夢物語と言っても過言ではありません。
それでも、それでもいいからと、少年は一度たりとも視線を外さず、見つめました。
瞼を閉じれば消えてしまう、そんな気がしたからです。

「……ずっと言えずにいたけど――今なら言える」

柔らかく優しさのこもった懐かしい懐かしい声。
その声に全神経を集中させて次の言葉を待ちました。

「俺、夏野の事が――…」

そして青年もまた、自分の胸の奥底にしまわれたままだった永年の想いを告げる事が出来たのでした。

これは、夢か幻なのかもしれません。
でも当事者の二人が幸せならばそれでいいのかもしれません。
何故ならばどんな形にせよ、ようやく二人の想いが繋がったのですから…。

一歩踏み出せば少しだけ縮まる二人の距離。
流行る気持ちを押さえながら、その距離を埋めるべく、歩き出した青年を少年は静かに迎え待ちます。

「……長い間、待たせてごめんな」

「……本当だ」

……0距離だからこそ分かる温かい体温。トクントクンと聞こえる鼓動の音。
それは確かに彼がこの世に存在していると言う証明。

「これからはずっと一緒だ。ずっと、ずっと――…」

そうして今度こそ同じ道を歩む事になった二人は、少女の言った通り、カインとアベルからアダムとイヴとなり、太陽に祝福されながら幸せに暮らしました。


――――死が再び二人を別つまで。



*



"私たち種族は潰える事は無い。今もどこかで少しずつ少しずつ……増えていく"

真っ暗な空すらも照らす人工的な光と、騒音に感じられる位の沢山の人々の雑踏。
行き交う人々の様々な思惑などが入り乱れるこの都会の中心で、フードを深く被った男の傍らにそっと寄り添う少女がいました。

空を見上げれば、あちらこちらと溢れかえる街灯の光によって薄く霞んだ夜の空。
あの村では到底見る事のなかったその景色。

あの時とは違うその空に少女は想いと、都会では珍しく強い光を放ちながら頭上を通っていた無数の流れ星に願いを託して、

"どうか願わくば、種の繁栄を、種の繁栄を。種の、繁栄を――…"



――そう、3度呟きました。



そうやって私達は増えていく。あなたが知らぬ知らぬうちに。

少女はそう言うと最後に口元を緩ませ、人混みに紛れていきました。
- END -

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吸話

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