近くで聞こえる誰かの寝息。匂い。温もり。そして――…。
目が覚めてまず思った事は、とにかく早く家に帰りたいと言う事だった。

「んー…あれ、もう帰るのか?」

「…!…あぁ」

行き成り背後から聞こえて来た声。それだけで、俺の体は強張った。
起こさない様に身支度を整えていた筈なのにそうは上手くいかなかったらしい。
普段の徹ちゃんなら未だに寝ていると言うのに今日に限っては違っていた。
本当なら寝ていて欲しかったが、そうも言ってはいられなくなってしまい、今すぐに出て行きたい衝動が一層強くなった。

…早く出て行きたい。本当なら今は徹ちゃんと会話もしたくない。
けど、それだと徹ちゃんに不振がられる。…それだけは避けたい。

…とにかく、学校の仕度をする為に帰るとだけ言えばいいんだ…。その言葉を言ってこの部屋を出て行けば大丈夫…。
今度の事は家に帰ってから考えるとして、今はただこの状況から一刻も早く脱出する事を最優先にしなければ。
それにはどうにかして徹ちゃんに今の俺の気持ちを悟られない様に平常心でいようと自分に言い聞かせた。

「…まだ学校の仕度してないから、俺帰るよ」

「ん〜…そか…」

舌ったらずな言葉なのはまだ眠たいからなのが分かる。
何より寝たのは遅かった。まだ徹ちゃんには寝たり無い事だろう。

…頼むからそのまま眠ってくれ…。

「……なぁ」

「…っ!」

……けれど、俺の願いもむなしくそうはいかなかった。
今度はさっきの寝ぼけた声とは違う、徹ちゃんの声のトーンが少しだけ下がって聞こえて来た。
後ろを振り向かなくても分かる。それは普段とは違う、徹ちゃんが真剣な顔つきをしている時の声の調子だ。

…俺が昨日知った徹ちゃんのもう一つの顔と、声。

だからこそ、次に徹ちゃんが言うべき言葉がすぐに予想できた。

…聞きたくない。駄目だ。今は駄目だ。絶対に駄目だ。

今、徹ちゃんの言葉を聞いてしまったら平常心でいられる自信が無い。
まずは、逃げよう。それが最優先だ。今俺に必要なのはこの場から抜け出す事。一人になる時間だ。

「ごめん、徹ちゃん。俺、急いでるから」

俺はそのまま徹ちゃんの方に一度も振り向く事もせず、当たり障りの無い会話を返しながら身支度を済ませた。
よし、準備は出来た。
次はこの部屋から出る事に集中するんだ。
まずはこのまま足を一歩。二歩…。

「ほえ?あ、夏野!」

…今は名前を呼ぶな、なんて言える余裕はどこにも無く、俺はそのまま逃げる様に部屋から出て行った。

「はぁ…」

扉を閉めれば、一先ず深い息を吐く。

…よし、部屋を出ることはクリアした。
次は目の前の階段を下りる事だ。
誰にも気づかれずに、誰にも見られずに。今は小父さんたち…誰とも会いたくはないから。
本来ならば一刻も早く目の前にある階段を駆け下りてこの家から飛び出して行きたい所だが、まだ早朝だ。
小父さんや小母さん達を起こしてしまわない様にと足音に気を使う。
何より、徹ちゃんが追いかけてこれないのも分かってる。…分かっている分、それ以上に早く出て行きたかった。

…早く家に帰ろう。帰ってそれから―…。

最後まで靴を履ききらぬまま、踵を踏んだ状態で足を走らせる。
徹ちゃんから、今の置かれている状況から、今俺の頭の中を占めている物全てから逃げる為に。

帰りたい。帰りたい。

とにかく一刻も早く家に帰って、それから――…

「…くそ、どうすればいいんだよ…」

これからどうすべきか、それだけで頭が一杯になった。
もう徹ちゃんに顔を合わせられない。
次に会った時どんな顔をしていいのか分からない。
もう前みたいな関係には戻れない、そんな気がした。





―――昨日の夜、俺達は友人の一線を越えてしまった。

強く握りしめられた手のぬくもりは今も尚、熱を帯びている。

10.02.28-10.04.29.
逃避と境界線

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