これが例え夢だとしても、せめてこの言葉を伝えたい。
どうか、まだ覚めないでくれ。


――どうかもう少しだけ。





胡蝶の夢。
それは夢なのか現実なのか。

もしかしたら、さっきまでの事が夢で、今この身に起きている事が現実なのではないのかと思えた。
人を…親友をその手に掛けながらも、今も尚、のうのうと生き続けている事が夢であればいいと思いたかった。

―――そう思いたかった。

徹は心の中で悲しげにそう、呟いた。









彼が今いる所は、見渡す限り一面の黄色い花が咲き乱れるひまわり畑。
風がそよげば、無数の向日葵達が揺れて夏特有の草木の匂いが鼻を掠め、黄色い小さな蝶々が気持ちよさそうに羽根を舞わせる。

懐かしい匂い。懐かしい太陽。青空。白く大きな雲。
…そして、懐かしい赤いチェック柄の…服。
誕生日に親友に貰った大事な大事な服を身に纏いながら、その景色とは打って変わって暗く沈んだ表情を浮かばせていた。

分かっていたのだ。
これが夢だと言う事を。

この季節には似合わない秋物の長袖を着ていながらも、汗を一つも掻いていない所か暑ささえも感じていない現実。
大きな雲、真っ青な空。眩い光。そして、耳に響く蝉の声。それは夏にしか見られない光景の筈が、太陽は自分自身を照らしていながらも、太陽の持つ暑さがそこには無かった。

…当たり前だ。俺はもうこの景色を見る事も、太陽のある場所を歩く事すら出来ない体へとなったのだから。

太陽の沈んだ夜にしか出歩く事が出来ず、更には人の血を啜る事でしか飢えを満たす事が無いその身。
物語に出てくる吸血鬼によく似た者へと変わり果てた自身の姿。
それはまるで、誰かが書いた夢物語の様。
…それがおかしな事に、今ではこの場所にいる事の方が夢物語になっていた。

求めていた夢は逆に今自分の身に置かれている現実を再認識させられて、それが胸を痛めつける。
悲しい現実だけが、徹の心の中を蝕んでいく。
前までは当たり前の様に暮らしていた日常が奪われた彼にとって、この場所は耐え難い所だった。
もう二度とこの目で見る事も出来なくなった景色。
どんなに強く求めても、一生手に入らない物。
諦めていた筈だったこの光景。平穏なる日常。
誰かの犠牲無くしては生きてはいけない体からの解放。
懐かしい我が家。大切な家族。そして……今はもういない、友…結城夏野の事が思い出される。

……夏野のいる世界に戻りたい。

夢でもいいからと思い描いた場所は、逆に未練を残させる形となり、徹の側には枯れ果てたひまわりの花が一本、今の彼の心情を象徴しているかの様にそこに寂しそうに佇んであった。

心の枯渇。罪を一生背負って行かなければ行けない現実。
永遠と孤独に耐えながらいつ狩られるか分からない状況下に怯えながら、生に縋りつかなければいけない生き地獄。
この手でその命を奪ったとは言え、友のいない世界はつらい物だった。
彼の優しさに付け込み、その首筋に顔を埋め、血を啜れれば、やがて彼の自制心さえも壊れ落ちた。
そうして親友だった少年の恩恵により極限の飢餓から救われたその身は、そんな彼を殺した罪によって未来永劫救われない体へと成り果てたのだった。

徹は、もし、あの時に戻れるならばと…考えた事もあった。
この体になる事も無く、あのまま結城夏野と一緒に過ごしていた日々に戻れるのならば…と。
けれど、それは所詮仮定の話。もしもの世界。考えても考えてもそれが絶対に無理な事だけが思い知らされては、徹は涙が止め処も無く零れ落ちた。

――もし、あの頃に戻れるのならば、俺は何をしただろう。

あたりまえだった日常が、失って初めて実はとても幸せな物だった事にようやく気づく。
自分の側にいてくれた人物の存在がどんなに大きく、救われていたのかも。

――あの頃に戻れるのなら、俺は夏野に――…

まだ時間はあるからと、告げずにいた自分の気持ち。
今の関係を壊したくなくて、言わないでいたあの言葉。

たった一言、たった二文字。それなのに、その言葉を言うのが何度も躊躇われていたその言葉。

…今なら、言えるのだろうか。

徹は、ふと青空を見上げた。
その目に映るのは、大きな白い塊の雲はゆっくりと流れ、太陽は確かに自分を照らし続けている光景。
目を凝らしながら見続ければ、小さな光が宙を舞う。

ここは夢の世界。誰もいない、無数のひまわりの生い茂る場所にただ一人。

けれど、自身の目の前にある景色は、霞がかってはおらず、はっきりと色をなし、そこに存在している。
その所為だろうか。少しずつどちらが現実なのかが分からなくなって来ていた。
頬を抓れば分かるのかもしれない。けれど、徹はあえてそれをしなかった。

…これが現実なら、どんなにいいか…。いや、夢でもいいから…会いたい。

願う事は、ただ一つ。

…夏野。……夏野。

何度も何度も心の中で呟いたその名。愛しい人物の名前。もう二度と触れる事の出来ない相手。

「夏、野…夏野…」

ただ、無心にその名を呟く。

「夏野…」

――そうすれば、背後から懐かしい声が自分の名を呼ぶ気がしたのだった。

"徹ちゃん"

親しげに自分の名を呼ぶ声に驚き、瞳を大きくさせる。
徹はすぐにその声の主は誰なのか分かった。

…そうだった。これは夢なんだ。だから、ここに…夏野がいてもおかしくはない。

徹は意を決して、声のする方へと振り向いた。
普段の夢ならば、大体ここで目が覚めるのだろう。
いい所で終わるのが夢の悲しい性。
もしこれが本当に夢の中であるのなら、夢にまで見た相手の姿をその目に焼き付ける前に夢から覚めてしまうのだろう。
それでも徹は振り向かずにいられなかった。会いたいと願っていた人物がすぐ後ろにいる。

そう、ずっと会いたいと恋焦がれていた人物が、すぐそこに。

「徹ちゃん、どうしたんだこんな所に呼びつけておいて」

振り向けば、夢はまだ覚めない所か、確かに親友である結城夏野の姿がそこにあった。
あの時と変わらない姿で、あんな事が無かったかの様なそぶりで徹の前に立っていた。

「大丈夫か?顔色が悪いみたいだけど。最近、悪い夢ばっかりでよく眠れてないんだろ?」

「夏、野…」

うまく声に出す事が出来なかった。
それでも、どうにか言葉を繋げればと思った。

遅かれ早かれこの夢から目を覚ましてしまうのが目に見えていた。
徹は思った。ならば、目の前にいる人物に何を告げればいいのかも分かっていた。

――もし、あの頃に戻れるのならば、俺は――…。

「熱もあるのにこんな所にまで出歩くなよ。ほら、家に帰ろう」

夏野、夏野、夏野。

……これが例え夢だとしても、せめてこの言葉を伝えたい。
どうか、まだ覚めないでくれ。

――どうかもう少しだけ。

「夏野、俺――…」

最後の言葉を言い切ろうとした瞬間、運悪く強い風が二人の間を通り抜けて行った。
青々しく染まった葉っぱから、黄色い花びらまでもが宙を舞う。
突発的な強い風に煽られて、一瞬だけ徹が瞼を無意識に閉じれば、次にその瞳に映ったのは、不機嫌な顔をした友の姿がそこにあった。
だがそれは嫌悪感から来る物ではない、嬉しさと照れ隠しが上手く出来ず、眉間に皺を寄せている表情だと分かれば、自分の言った言葉が伝わった事に気づいたのだった。

――それと同時に、彼が自分にどんな感情を抱いているのかも。

徹は今度は強く願った。

もし、これが夢ならば、どうかどうか、覚めないでくれ、と。
もし、これが夢ではなく現実ならば、どうか、どうか――……

「何だよ、徹ちゃん…。急に…」

視線を逸らしたまま、無愛想に答えた愛しい相手の体を自分の方に寄せて強く抱きしめた。
いつこの夢が途切れても後悔しない様に。もう二度とこの夢が見れなくなってもいい様に。

「知ってたか?夏野。俺さ、ずっと、お前の事好きだったんだ…こう言う意味で」

そう告げれば、自身の腕に温かい温度を感じたのと同時に

「……知ってた」
…と、聞こえた気がした。




――結局、彼は覚める事の無い永遠の夢を見続けているのか、それともこれが現実だったのかは分からない。
…分からないが、彼はもう悪夢を見る事が無くなったと言う事だった。

そんな二人の姿を枯れ果てた一つの向日葵が羨ましそうに見つめていた。
10.02.28-10.03.09.
胡蝶の夢

back top