寒さがしんしんと染み渡るこの日、もう少しで朝日が昇る、そんな時刻。
自分がいる場所が場所なだけに普段ならば朝早くからでも動き出している村人達の姿や声を見る事も聞く事も無く、それどころか鳥の囀りさえも聞こえない、辺り一面静けさを舞っていたそんな中、夏野は指定された時間よりも少し早く、ある人物が来るのを待っていた。

「はぁ…」

あまりにもの寒さに吐いた息は白く形となって目に映れば、あっと言う間に大気へと紛れて姿を眩まして行く。
そして普段の村の様子とは違うこの静寂さに、まるでこの世界には自分だけしかいなくなってしまったかの様な気さえしてくるのだった。
嵐が去ったかの様な…否、恐ろしい災厄がこの村に落ちてきて、すべての人々がいなくなってしまったかの様な感覚。
廃村と化した村にただ一人、立ち尽くす自分。
村人どころか自身の親も…彼さえもいないこの世界に一人残された様な…。

"夏野"

自分に向けられていたあの笑みを二度と見る事が出来なくなってしまった…そんな感覚に夏野が囚われていれば、その不安を掻き消すかの様に見慣れた人物が思いっきり自分の方へと手を振りながら駆けて来たのだった。
つい先ほどまで夏野が思い浮かべていたその笑みを満面に浮かばせながら。

「よっ、夏野。もう少しで受験だって言うのに悪いな」

「いや、いいけど…こんな時間にどうしたんだ?徹ちゃん。と言うか名前を呼ぶなってあれほど言っているだろ」

夏野が寒い中待っていた人物は武藤徹と言う、この村の住民の一人だった。
パンクした夏野の自転車を徹が修理した一件から会えば少しずつ会話をする様になり、気づけばこうやって待ち合わせをする様な仲にまでなっていた。

「んふふふ」

徹の裏表のない屈託な笑顔と誰にでも優しく、面倒見のいい人柄に、氷の様に微動だにしなかった夏野の心が少しずつ溶けていけば、出会ってからたった数ヶ月の内に幾度と無く徹と一緒に行動を共をする様になり、気づけば都会にいた頃のクラスメイト達よりも親しい間柄となり、年齢は違えどそれは俗に言う、親友と言ってもいいものだった。

「まぁ、そう言うなって。受験勉強でお疲れのお前に気晴らしにいいもんを見せてやるからさ」

「いいもの?」

「そ、いいもの」

そう言いながら徹は自分の懐で温めていたらしきホッカイロを一つ、服のポケットの中から取り出した。

「ほら、カイロ。温かいぞこれ。俺のはこっち、お前のはこれな」

そう言うと、そのカイロをひょいと軽く夏野に向けて放り投げた。
ひらりと宙を舞う濁ったオレンジ色の長方形をした物。中に入っている鉄粉がカシャと音を鳴らした。

「ん…」

それを素直に受け取ると、そのカイロ特有の熱の所為か、それとも徹の体温から来る温かさなのか、それとも両方の温度なのかは分からないが、じわりじわりと冷え切った夏野の指先に熱を持たせ始め、自分の為に懐の中でカイロを温めていた徹の気遣いに触発されてか心まで温かくなった気がした。

「……ところで、いいものって?」

「んー?まぁ、もう時間もないし、とりあえずついて来いよ」

手を翻して、今から行く方へと夏野を促すと、徹は挨拶もままならないまま、再び歩き始めた。

徹が一足一足動けば、それにつられてふわりとした稲穂色の様な癖っ毛がふわりふわりと揺れ動く。

「あぁ…」

夏野もそれ以上追求する事も無く、そのまま素直に徹の後をついて行けば、ついさっき自身の頭に過ぎった愚かな考えを掻き消したのだった。







ザクザクザク…霜柱の出来た土を踏みつける度に、心地いい音と感触が夏野の足先から伝わってくる。
その音、感触から、小さい頃はあちらこちらと出来た霜柱を見つけては無邪気に踏みつけていたことを思い出せば、それと同時に都会の方ではコンクリートで舗装される場所も増えてきた所為か、昔に比べて少しずつ霜柱を見る機会も減ってきていた事に気がついた。
気づかないうちに少しずつ失われていく何か。それが都会だとすれば、今もその何かが残る場所、それがこの村なのだろうと思った。

舗装のされていない獣道へと徹が進んでいく中、枯れ枝に体が当たる度にガサガサと大きな音が響き渡る。

目の前には、常緑樹なだけあってこの寒空の下でも葉が落ちて無くなる事はない、無数の樅の木。
よく見れば、あんなにも青々しく生い茂っていた樅の木も若干黒く変色しているとは言え、その造詣は確かにクリスマスツリーであった。
雪でも舞い降ればもう少し見栄えのいいツリーの出来上がりになるのだろうが、残念ながらまだこの村には雪が訪れてはおらず、いつ雪が降ってきてもおかしくはない寒さに耐えながら、夏野は歩いて行くうちに自身の体の内面が少しずつ暖かくなっていくのを感じた。
久々に体を動かして、血行がよくなったのだろう。
最近では、机にばかり向かっていた所為か、体の体力が幾分か落ちていたのが分かった。

…あれ…?

それと同時に、どんどん人気のない方へと徹が行っている事に気がついた。
村に越してきて半年程経つが、夏野は徹に連れ回される以外はあまり村の中を好き好んで散策などしない為、こっちの方面へ赴くのは初めてだった。
民家のある方へ行っていない所為なのか、枯れ木と樅の木だけが延々と生い茂る場所に、少しばかり気味が悪い印象を受ける。

斜面になっている所をひたすら上へ上へと進んでいく徹の背中を見ながら、さすがの夏野も一体どこへと行くのだろうかと不思議に思い始めれば、その様子に気がついたのか、徹が夏野の方へと振り向いた。

「大丈夫か夏野ー?おんぶでもしてやろうか?」

「いらない」

「そう、遠慮するなって。何ならお姫様抱っこでもいいぞぉ!」

「絶対、いらない」

そんな会話を繰り返しながら、ひたすら上へ上へと歩き続けて30分程歩いただろうか、否、もっと歩いていたかもしれないが夏野の中ではそこまで苦でもない時間であった。
都会の者にしてみれば、30分と言う時刻は長くつらい時刻になるかもしれないが、村の方になると30分など普通の感覚で、すぐ言って右へと行けばいいと教えられて歩いてみれば、そのすぐと言うのが30分以上先と言うのがザラであった。
そう思うと自身の感覚も少しずつ村人達に似てきたと言えるのかも知れないが、もしかすれば徹と一緒だから苦痛に思えないのかもしれないと心のどこかで夏野は思っていた。

「大丈夫か?もう少しだからな」

時折、足を止めては、夏野の方を振り向いて気遣う徹のその優しさに少しばかりこそばゆさを感じながら、足を進めさせていった。






「ここだよ」

どうやら目的地に着いたらしく、徹は足を止め、夏野の方へと振り返った。

「ここって…?」

そう言われて徹の後ろにある光景を夏野が目にすれば、先程まで樅の木しかなかった光景から、一転、開けた場所へと代わり、薄い乳白色の空が目の前に広がっていた。
さっきまで薄暗かった筈なのに。どうやら歩いているうちに少しずつ明るくなっていた様だった。

そこは、道中に沢山生えていた樅の木は見当たら無く、あるのは電線注意と大きく描かれた鉄塔が大きくそびえ立っていた。
むしろ、それしか無いと言っても過言ではない場所に、夏野は思わず聞き返した。

「…ここに一体何があるって言うんだよ、徹ちゃん」

そこには徹の言う、いい物があるとは言いにくい場所だった。
どこを見渡しても空と大きな鉄塔のみ。
それなのに何故か徹の顔自慢げなままで、それが更に夏野を困惑させたのだった。
徹の事だから、こんな朝早くに人を呼び起こしといてこれだけと言うのはあり得ない話なのだが、どう目を凝らしても目ぼしい物は何もない。
あるのはやはり、少しずつ明るくなって来ている空と、大きな鉄塔のみだ。

確かにこれ位大きな鉄塔ともなると、行く所へ行かなければ、都会ではあまり見られないだろう。空も都会の高層ビルなどによって遮られ、こんな風に全体を見渡す事は難しくなっている。
けれど、この村にいる限り、今の時刻でなくてもいつでも見れる光景であった。

これにはさすがの夏野もこれだけの為にここまで連れてこられたのかと、少しばかり徹に疑いを掛けてしまう。

そんな夏野の様子に徹も気づいたのか、再び笑みを零せば手を軽く一振りして自分の方へと来る様に促した。

「もっとこっち来てみろよ、夏野。」

「名前を呼ぶな…。……あ」

徹に誘われてもう少し足を動かしてみれば、唐突に目に入ってきた光景に思わず夏野は言葉をもらした。

そこに会ったのは、高いビルも電柱なども何もない光が少しずつ差し込んできている空の下に、とても小さくなった無数の家屋達が立ち並ぶ、それは外場村の全てを見る事ができる全景とも言えるものだった。
はるか向こうに見えるのは無数の樅の木が立ち並ぶ山。それは都会にいた頃には見る事ができなかった景色だった。
それが、少しずつ差し込まれる朝日の光によってまた違った顔を見せ始めていた。
それは確かに、この村でないと、この時刻でしかないと見れない景色。

「…ここからの景色がなぁ、またいいのよ。昔はよくこの上に登ってそこから見ていたんだけどな」

そう言って頭上にある高さ数十mもある鉄塔に徹が視線を向ければ、危険だから登ってはいけないと忠告の貼られた看板が雨風に晒された所為か所々錆付いているのが目に映った。
大きく電線注意とかかれた所から少し行った所に踊り場と言う、鉄塔を修理などする人の為の休憩器具が塔柱外周に取り付けられているのだが、徹曰く、昔はその場所に座り込んでこの景色を見ていたのだと言う。

「結構な高さがあるな…」

夏野もつられて顔を見上げてみれば、徹が言った様に確かに大きく突き出た踊り場らしき物が見えた。
鉄の錆具合、雨風にさらされて薄くなった看板の文字から見て、この鉄塔がたてられてから何十年も経っているのが伺えるが、ボルト器具等によって頑丈に固定されているからか、今でも人一人乗っても壊れる事は無さそうなのが分かった。

手でしっかりバランスを取っていれば落ちることは無いだろう。……いきなりの強風などに煽られなければ。

だが、そこに行くまでの方法がどこにも見当たらなかった。
梯子を持ってくればどうにかなるのかもしれないが、あの高さまでの梯子はさすがに見当たらない。子供の頃に登っていたのを思えば、梯子を子供たちの力だけでここまで持ってくるのも一苦労…否。無理と言えるものだった。

修理などの為に、何十mを登る際に生じる肉体的疲労を回復させる目的で作られた踊り場がある以上、そこまで繋がる梯子らしき物が当時はあったのかもしれない。
…が、好奇心旺盛な子供達がその梯子を使って高さ数十mもある高い鉄塔に登るのを黙ってみている大人たちでもないのを考えれば、梯子の撤去を余儀なくされたのが伺えたのだった。

「この上って…どうやって登んだよ…一応、無闇に人が登らない様にそれなりに工夫はしてあるんだろ。足場も見当たらないし」

夏野の言うとおり、確かに梯子の代わりになる様な物がどこにも見当たらない。
そんな夏野に徹は楽しそうに笑みを浮かべた。

「んっふっふー、普通はそう思うんだよな。だがな、ここをよく見ると突起物あるの分かるか?ここをうまく足でかけてだな…」

そう言うと自身の足を小さく飛び出たステップボルトと言う足場用の突き出たボルトへと足を掛けて、何段か試しに登って見せた。
昔から登っていた所為か慣れているらしく、徹の足取りは思った以上に軽い。
そのまま最後まで行かずにすぐ様降りてくれば、手についた汚れを軽く叩いて落とし、夏野に笑顔を再び向けた。

「ま、村の子供の度胸試しの一つみたいなもんだな。小さい頃、正雄が清水にからかわれてさ。それで正雄がやけんきになって人の制止も聞かずに登っていった挙句、結局は途中で降りれなくなって結構大騒ぎになってなぁ。…あん時は父さん達にこっぴどく叱られたもんだ」

"あんた。男のクセにのぼれないの?だっさぁ!"

"う、ううるるさいやいっ!おれだってこれ位のぼれるんだからなっ!!"

"やめとけって正雄、お前、木のぼりもこわくてろくに出来ないのに"

"コラ、恵も正雄のことあまりからかわないの。この前だってー…"

"正雄ー!無理しないで降りて来いよー!あーぁ…"

「あの日以来、ここに来る事はなかったんだが…」

その時の光景を思い出したのか、徹は思い出し笑いに似た笑みを零した。
自分自身も大人たちに怒られた筈だと言うのに、その顔はどことなく嬉しそうな…懐かしい表情を浮かべていた。
よほど滑稽だったのだろう。粋がって自分にものぼれるやい!と周りの忠告も聞かずに勢いで登っていった挙句、踊り場にも辿りつけない所か下を見ずにがむしゃらに登って行った所為で地面まで結構な高さがある所にまで来てしまった少年に、当時の徹達だけでは助ける事が出来ず、止むおえなく村の大人達を呼びに言ったのが伺えたのだった。

"正雄君!落っこちそうになっても小父さんがちゃんと受け止めてあげるから大丈夫だからゆっくり、ゆっくり…"

"はは、俺達も昔は登ったなぁ、なぁ、静信"

"いや、君だけだよ。敏夫。幹康が泣きながら止めてもそれを無視して一人勝手に登っていったんじゃないか"

"恵!お前がまた正雄君をいじめたんだろう!あんな気弱な正雄君がこんな高い所を登るわけないんだからな!"

"正雄ー!正雄ー!父さんがいるから安心して降りてくるんだぞー!ほら宗貴もう少しだぞ!頑張れー!"

思い出すのは、必死になって助けようとしている大人達の姿と、村中に響き渡った正雄の泣き声。

「……ここに足を掛ければいいのか…よっ」

徹の様子に夏野は少しだけ視線を背け、先程してみせてもらった所に足を掛けた。
確かに、よく見なければ分からない小さな突起物。
けれど、足を掛けてみれば確かにちゃんとした足場へと様変わりした。
冷え切った鉄の感覚に少しばかり手が悴むのもお構いなしに足の掛けられる所を見つけては、夏野は意図も容易く駆け上っていった。

「お、うまいな!」

身軽な夏野の姿に徹も関心を示していれば、自身の登った所をゆうに越え、気づけばあっと言う間に大きく突き出た部分の近くまでにさしかかっていた。
そこまで行けば、足元もしっかりとしている為、全体重を置いても問題は無い。手でしっかりとバランスを取っていれば鉄塔のどの場所よりも安全な場所だとも言えた。

「気をつけろよー。ま、夏野が落っこちたら俺が受け止めてやるけどな!」

あの時とは違う今の自分だからこそ言える言葉。
その言葉を口に出せば、徹は自分自身があの時に比べて大きく成長している事を今更ながらに実感したのだった。

…変な感じだよな。去年の今頃は夏野がいなかっただもんな…。

あの時には存在しなかった人物と、再びこの場所に訪れていると言う事に徹は一人、感慨じみていた。
まだ会って、数ヶ月。自分が生きてきた人生のほんの少しだけしか一緒にいない人物。
だからこそ、徹は思い出を作りたがった。
塔の上から自分を見下ろす、結城夏野と言う人物と共に。

まだ人生は長い。慌てる事無く、これから少しずつ思い出を築いていけばいい筈なのに、徹はどうしても今日と言う日に、夏野をここに連れてきたかったのだった。
それは、あと何年もしないうちにこの村を出て夏野が都会の大学に進学するのを知ったからだろうか。

――それとも、何かを感じ取っていたからだろうか。

「…名前を呼ぶな。それに俺はそんなヘマはしない」

少しばかり感傷に浸っていれば、夏野は踊り場と言う場所へとすでに辿り着いていた。
徹のいる位置からの距離は高さ10m程。3階建て位の高さに相当する。
夏野は一応何か起きても落ちない様に手で支えを取りながら再び視線を村の方へと向けて見れば、それを待っていたかの様にゆっくりゆっくりと朝日が顔を出し始め、まだ若干薄暗かった場所にも光が差し込み始めたのだった。
雲がその光に導かれる様に集まれば、鮮やかな色の重ね合いを冬空一面に魅せる。

それは一つの名の知れた絵画とも言える絶景へと外場村は変貌を遂げていたのだった。

「お、見てみろ、初日の出だぞぉ!」

「……」

その光景にはさすがの夏野も感動したのか徹の話に返事をせずにその光景に釘付けになっているのを見れば、徹は満足そうに笑みを浮かべた。

「今年もよろしく。また来年もここで初日の出見ような!夏野!」

「……あぁ…」

今年初めての朝日が登る。そして今日という日の朝が始まる。
そうすればさらに輝きを増し、一年の始まりと言う大事な日に徹と夏野は暫くその景色を見つめていた。

――来年のこの日、この場所で…この光景を二人で一緒に見ると言う約束を交わしながら。

…去年のこの頃には知る由もなかった相手と共に。

そして、来年の冬はきっと真っ白な雪に彩られ、辺り一面雪景色となるだろう。
嘆きや悲しみと多くの…の血によって赤く染まった大地を覆い隠す様に降り積もるであろうその雪は、きっと今まで見た事がない位に白く、白く――…

「…また来年も……」


……結局、この約束を叶える事が出来なくなってしまった二人の悲しい運命さえも全て覆い隠してしまう程、死人に着させる白装束の色の様に真っ白な物に違いない。

10.12.27-11.01.21.
交わした約束

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