目の前には一人前の血液の入ったガラスのコップ。
それと、屍鬼となった今では口にする事がなくなった…パンを主食とした洋食物。
綺麗に彩られたその食事は生前の頃ならばテレビの中でしか滅多にお目にかかれない生唾物の豪華な食事でした。
けれど、今ではそれに見向きもせずにパックに入れられただけの真っ赤な液体の方に視線が釘付けとなっていました。
この体になって一番のご馳走は真っ赤な血。
そして役目を果たした少年の食事は人の血では無くなりました。
青年の分のみ用意され、少年のは人が普段食する物へ。

人狼である少年は、血を糧としている屍鬼達とは違って人と同じ食事を摂取しても生きてはいけました。
けれど、血を摂取しない事により人狼が持つ本来の大きな力は発揮されず、それどころか人よりも劣ります。
そんな状態のまま硬く強固な拘束具で繋がれた少年は、愛玩人形そのものでした。
一人満足に食事どころか身動きすら取れない状態で鍵のついた部屋に閉じ込められた憐れなお人形。

――だった筈が、

"結城夏野君にとっての本当の鎖はあなたよ。あなたが彼を雁字搦めにしているの"

"すこし前にね、結構大きいヒビが入ってたのに気づいたの。自然に出来たものにも思えないし"

少年の腕に絡まる鎖は強固な物ではなく、ヒビが入っていた。

"つまりはいつでも逃げれたのにそれをしなかった事になるわね"

いつでも逃げれた、少女の言い方からそれは小さいひび割れが入っていたと言う訳では無いのは明らかでした。
大きい亀裂の入った鎖。ならばそれはいつから入っていた物なのか。
彼を犯す前か、犯した後か…。

――それともあの日か。

「……っ」

前まではあんなにも欲しくてたまらなかった血と言うご馳走だと言うのに二口飲んだだけで手が止まりました。
毎夜自分の為に用意され、わざわざ人のいる所まで下りていかずとも手に入る食糧。
前までは飢えとの戦いだったのが、少女の便宜によって今では腹が極限に減る事も無くなった所為でしょうか。
血に飢える事も無くなった青年の頭の中は、ただただ、先ほど言われたその言葉だけがぐるぐると回っていたのでした。

「俺が……夏野の鎖……」

視線の先には結城夏野が幽閉されている部屋へと続く真っ暗な廊下。
ズボンのポケットには一つの古びた小さな鍵。その鍵は少年の部屋の扉にに掛けられた和錠と呼ばれる金箔等で豪華に彩られた重さ数キロの錠前を施錠する為の物。
それは部屋と言う大きな宝箱に入れられた大事な大事な宝物の様でした。

「…俺は…俺は……」

暗闇の向こうを険しい表情のまま暫く見つめた後、青年は背を向けて少年のいる部屋とは逆の方向へと歩き出しました。

確かめるのが怖かったからかもしれません。

青年は、家族と言う鎖で雁字搦めにされていました。歯向かえば父や母、弟や妹に手を出される。
ならば、少年は何の鎖で身動きが取れないで居るのか。
それは彼の腕に絡まる見える鎖か、それとも少女の言う様に青年への恋慕と言う見えない鎖なのか。

答えはもう分かっている筈なのに、青年はその真実から目を逸らしました。
無意識に先ほどよりも早く動き出す足。
やがて、この胸のわだかまりをどうにかしたくて、これから自分はどうすればいいのか分からなくて、青年は足早に走り出しました。





……そうして、屋敷を出た後も足を止める事無くそのまま道行く先を進んでいけば、やがてすぐ近くに人の気配を感じました。
それは自分達側ではない、あちら側…村人の気配。
それに思わず足を止め、すぐ傍にあった木の後ろに咄嗟に身を隠しました。
…それはこのたった数ヶ月間で染み付いてしまった条件反射。
死んでしまった筈の自分の姿を見られてはいけない為と、自分の命を守る為に覚えた処世術…でした。

「――だったとは…」

「――…じゃないか」

屍鬼の特性で暗闇でもよく見えるその目に映るのは祭りの法被を着た3人の男性の後ろ姿。
年はさほど若くは無く、その風貌から壮年と言った位で、その3人はどうやら何かを話込んでいる様でした。

「…あれは…」

目の前にいる人物達との距離はさほど近くは無い為、本来ならばすぐにそのまま来た道を戻る所なのですが、何故か青年は話している3人の中の一人が気になりました。
何故ならば青年はその背中がとても見覚えのあるものに思えたからです。

そう、それは――…

「大川さんの所の息子さんが生きているとはなぁ…」

「大丈夫かい?武藤さん」

「あぁ…はい…」

忘れはしないあの声、あの背中…。
それはとても懐かしいもの。
その大きな背中目掛けて必死に追いかけた幼き頃。
声をあげれば優しい笑顔で振り向き、大きな手のひらで頭を何度も何度も撫でてくれた懐かしい記憶。

――父、さ…ん。

「私は――から息子を…徹を守ってあげる事が出来なかった何て…」

確かに懐かしい筈なのに、昔はあんなに大きく思えた父親の背中が今ではとても小さく見えたのでした。

「すまない…すまない…徹…」

青年が罪に苛まれているのと同じ様に、かの者も罪に苛まれていました。
もしかしたら屍鬼となって起き上がっているかもしれない我が子を見捨てて、逃げる事を選んだと言う罪に。




*





時は少しばかり遡れば、聞こえてきたの痛々しい女性の悲鳴。


「きゃあああああああああ」

一人の屍鬼がその日長かった人生に終止符を打たれました。
多くの人達の命を人生を翻弄させ奪った罪に見合った最後。

男は自身の目の前で行われた行為が最初、誰かの手によって作られた映像かと思いました。
でもそうではありませんでした。
嘘偽りない、昨今続く村人の変死、その原因であった村に代々伝わる"起き上がり"である女性が退治された光景だったのです。

"起き上がり"

それは村の大人達が悪さをしない様、子供に言い気かせをしていたお伽話に出てくる怖いものの象徴でした。
躾の一環として使われていた作り話。…だったもの。夜な夜な人を襲っては自分達の仲間へと引き込もうとする怖い怖い死者。
それが確かに今目の前に存在していて、つい先ほど大勢の村人達の前で殺されたのです。
それどころか、その女性を助けに来た人物の中に、確かに少し前に死んだ筈の男もいました。
お伽話だった筈の話が死んだ筈の男が出てきてしまった事でさらに現実味を帯び、そして我に返った村人は家族を亡くした人達を含め、多くの人々が起き上がりに対して遺憾の意を表しました。

「あいつらを引っ張り出して殺してやる!」

「俺の息子の仇をとってやる!!」

「起き上がりだ!起き上がりが俺達の村を奪おうとしてやがんだ!!」

そして、狩られる側だった彼らがとうとう狩る側へと変貌を遂げました。

そんな村人達とは打って変わって、一人の男は目の前で杭を胸に打ち付けられた女性の遺体を見て複雑な心境を抱えていました。
死んだ筈の知り合いの息子が先ほど目の前に現れた事、それが人事の様に思えなかったのです。
男も少し前に自分の息子を亡くしました。
死因は村に流行ってきていた病気が原因でした。
そう、ついさっきまでは…そう思っていました。…が、それが息子が死んだのは病気が原因ではなく、起き上がり達の所為で死んだと言う事を瞬時に理解すれば、自身の息子さえも起き上がっている可能性を否定出来なかったのです。
最初はもしかすれば生きているかもしれない。死んだと思っていた息子が息を吹き返しているかもしれない。その事を思えば何ともいえない嬉しさが込み上げたのも事実でした。

――ですが、次に息子も誰かの血を吸って…誰かの命を奪って生きているかもしれないと言う事実に気づき、その喜びは瞬時に掻き消されました。

"息子の姿をした起き上がりが村人たちを襲っているかもしれない。その時は、起き上がりの女性の様に嫌がる息子の胸に杭を打たなくてはいけない"

そう思った瞬間、背中に汗がどっと出たのが分かりました。手にも汗がにじみ、微かに震えが生じました。
結局、どう足掻いても一人の男は自分の息子をその手に掛ける勇気がありませんでした。
それ所か自分の息子でなくてもこの手で誰かの命を奪う事など出来ませんでした。
だから逃げる事にしました。今から行われるであろう惨劇を目にする前に村から逃げる事に決めたのです。
人によっては臆病者と嘲笑うでしょう。
村の危機だと言うのに、何もせずに逃げた負け犬と罵る人もいるかもしれません。
けれど、自分の子供の不始末を自身の手で片付ける者もいればその逆もいる。
どちらにも言い分はあり、見せ方は違えど我が子に対する愛がそこにありました。

「私がもっと早く気づいていれば……」

肩を落としたその姿はどことなくやつれている様でした。

「武藤さん…」

「仕方ないよ、若先生がいなかったら私らだって気づく事は出来なかったんだから」

「そうだな…よもや実際それを目の当たりにする日が来るとはなぁ…」

その言葉に青年はビクリと体が反応しました。

「あぁ、――"起き上がり"だなんてただの作り話だと思っていたのに」

彼らが発したその言葉に青年はとうとう自分達、屍鬼の存在が知れてしまった事に気がつきました。

「杭で胸部を一刺しとはなぁ…」それは、永遠であった筈の命が脅かされようとしていると言う事実。狩られる側だった筈の村人達が今度は屍鬼達を狩る、狩人となって襲ってくるかもしれないと言う恐怖に、無意識に体がぶるりと震えました。
いつかは天罰が下るだろうと覚悟していたとは言え、やはり命が脅かされる事に恐怖を感じないわけには行きませんでした。
死にたいと思っていながらも、自分自身を殺すことも出来ず、さらには腹が減っては人を襲ってしまっていたと言う矛盾。
どんな姿になっても生きたいと心の中では思っていた事、あの杭で胸を打たれてしまうと言う底知れない恐怖が青年の心を蝕みます。

……あの杭で打たれる時は苦しいのだろうか、どのくらい痛いものなのだろうか。……いやだ…いやだ…死にたくない…っ!!

今すぐにでも屋敷へと戻って沙子や辰巳にこの事を知らせなければ。…そんな言葉が青年の頭を一瞬過ぎりました。

「武藤さん宅は明日の明朝辺りに発つのだろう?さ、ここも何時あいつらに襲撃されるか分からない。早く家に帰ろう」

「武藤さん達が生きてさえいてくれたらあの優しかった徹君も喜んでくれるさ。恨まないでいてくれるに決まっている。気にやむ事も無い」

「……いいえ、恨まれても仕方は無いんです。…私は息子を置いて逃げるのですから」

置いて逃げるとは、彼の屍が埋まった墓も含まれているのでしょう。
もし、起き上がり…屍鬼となっていても、なっていなくとも…どちらにせよ息子を置いて行くには変りありませんでした。

「武藤さん…」

「…すみません。後は一人で帰れます…。お二方もどうかお気をつけて…」

笑い皺が出来る程、いつも柔らかな笑みを浮かばせていた武藤と言う男の変り様に他にも何か声を掛けようかと悩んだ末、二人の男はたった一言"お元気で"と言い残し去っていきました。

「…うぅっ……」

そして一人残された彼は、先ほどよりも大きく肩を震わせて今まで溜めに溜めてきた涙をこれでもかと言う位に零し始めました。

「すまない…。すまない…徹。お前は村のどこかで生きている様な気がしていたと言うのに…ッ……杭を打ち込むなんて出来る訳が…ッ」

――父さん…。

家族の前では決して涙を見せる事が無かった父の涙する声にさっきまでの恐怖は消え、青年も密かに涙を零しました。

……恨むわけが無い。

青年はそう声を掛けてあげる事すら出来ない今の自分に歯がゆさを感じました。
結局、助け出されて連れて行ってもらったとしてもやがては血に飢え、自制心を無くし、家族まで襲ってしまう未来が見えていた青年は、それでいいんだと父親の背中に語り掛けました。

……いいんだ。これで。どうか、無事に逃げてくれ。そうでなければ俺は―…夏野を襲った意味が無くなってしまう――…。

誰よりも早く起き上がりに気づいてしまった親友に、一人の人狼の男が彼を襲えと命令しました。
狩人は許されない。君が襲わないのならば君の家族を襲う…と、脅されて止む負えなく、青年は自身の親友であった少年を襲いました。
そこまでして守った家族。その家族までもが起き上がりである屍鬼達の手に掛かってしまえば今までの事がすべて無駄になってしまう。

青年は、祈りました。

……どうか、あいつらの手に落ちること無く、父さん、母さん、保、葵…家族全員がこの村から出て行ける様に。…と。

「徹…すまない…すまない…すま…ない…っ」

…それでも、父親は我が子を見捨てた罪を一生背負って行くのが目に見えていました。
青年が起き上がりになっていなくても、この忌まわしい姿を晒していなくとも。……本来、親と言うのはそう言うものなのでしょう。

「…どんな姿になっていたとしても、お前は私の息子だ…自慢の…自慢の…」

父の嘆きを耳に入れながら青年は一人、その場を後にしました。
その言葉が今の自分にとってとても苦しいものだったからでしょうか。
今の自分の姿は父親の言う自慢の息子には程遠く、かけ離れたものになってしまったからでしょうか。

わだかまりと、やるせない気持ち。
これから自分は何をすべきなのかさえ分からないまま、青年は自分と同じ同胞達のいる場所へと戻って行ったのでした。
10.09.02-11.09.27.
伍話

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