知らない匂いが鼻を掠める。嫌いじゃない匂い。
人が住んでいると言う生活臭。
自分の家も鼻がなれて気づかないだけで他人からしたらそれ特有の匂いがあるのだろうかと少し頭に過ぎった。

ガラガラガラ…。

「ただいまーって、誰もいないな。出かけてんのかな」

「…お邪魔します」

「ちょっとそこで待ってろ、今持ってくるから」

「ああ…」

そう言うと靴を脱ぎ捨て、階段を駆け上がっていった。

…どうやら部屋は二階らしい。部屋の扉が開くのと同時に何かを探している様な物音がし始める。

…変な感じだ。
よもや自分がこの村に来て、誰かの家に訪れる事になるとは…。
しかもまだ引っ越してきてそんなに経っていないと言うのに……。

「…何してんだ…」

…何故か俺は、どんなに冷たくしても懲りもせずにこんな俺に何度も話しかけてくる物好きな奴、武藤徹と言う男の家に来ていた。

「はぁ…」

見知らぬ玄関で待たされるのは、落ち着かない。この家の住民が帰ってくる前に、とっと去りたい気持ちに駆られる。

…いや、もう少しだけ我慢すれば…あれが…。一応この家に来た理由はあった。目的が無ければこの村の誰かの家になどに行く訳がいない。

「夏野ー」

人の名前を呼びながら階段を下りてくるその人物の手に、ホチキスで留められた状態の数枚の紙が目に入る。
…それと同時に自分の忌み嫌う名前が耳に入った。

「人を名前で呼ぶなって言っ…」

「なはは、これでいいか?」

…って人の話を最後まで聞けよ…。と言うか何度言えば気が済むんだ…。
くそ、こいつに名前まで教えるんじゃなかった…。

相変わらず自分の名前を呼ぶことを諌めれると笑顔で流されるの繰り返しに、幾度となくあの時思わず自分の名前を言ってしまった事を激しく後悔した。

「いらないのか?」

「…いる」

とりあえず、まだ腑に落ちなかったが差し出された物を素直に受け取ればぺらりと一枚試しにめくってみた。

「…!」

…確かにこれだ。欲しかったのは。

そこには予想していた通りの物があった。――いや、予想外の部分もあった。

…去年はこの範囲が出たのか。…ここが出るとは盲点だったな…。

その紙に書かれている文字を見て、今までの勉強の仕方について少しだけ考えが変わった。

…これはいい。去年のとは言え範囲がしぼめる上に、あの高校がどの位のレベルなのかが見て取れるのも参考になる。何より、思ったより結構レベルはある事にも驚いた。

偏差値は知ってはいたが村の高校だからたかが知れていると頭のどこかで思っていた自分に気づきそれを恥じた。

…これは後でもう少し念入りにやらないといけないな。

「あとこれ、俺ん時に出た試験問題な。俺のもあったから参考がてらにでも使うといいよ」

「…あぁ」

そう、わざわざこの家に来たのもこれが目当てだった。

俺が来年受験する高校の去年出題された試験問題集。
距離は結構あるが一応こんな村にも高校はいくつかある。
その中でも一番レベルが高い高校へと進学するにあたって目の前の人物が通う高校へと進学することに決めた俺に、学校の帰り道に偶然会ったこいつが話しかけてきたのがきっかけだった。

"おっ、夏野。お前ん所の親から聞いたぞ。お前、俺と同じ高校を受験するんだってな。なんだったら去年の試験問題集いるか?"

"……去年の?"

相変わらず会うたびに話しかけてくる人物に普段同様そっけない言葉を一言残して通り過ぎようとしたが、その男の口から発せられた去年の試験問題集の言葉に思わず足が止まった。

確かこいつは俺より2コ上の筈だが…去年のって…?

"あぁ、去年のまだ取ってあるんだよ。保と葵も俺と同じ高校受験したから、きっとお前の受験勉強に役立つと思うぞぉ"

"…"

たもつ、あおい。
口に出されたその知らない名前は、その男の弟と妹の名前だと言うのが分かった。

…父さんからあそこの家は年子で下に双子ではない同学年の妹と弟がいると聞いていたが…本当だったのか。…だからだろうかこんなに人の事を世話焼きたがるのは…。

"明日お前の家に持っていってやろうか?それともお前んとこの親にでも渡しとけばいいか?"

"…いや、いい。今取りに行く"

"はは、分かった"

家まで届けに来てもらう義理がなかったのもあったが、それよりも一秒でも早くそれを入手して試験対策をしたかった事もあった。

この村では極力誰かと触れ合うつもりも、人の家などに行くつもりはなかったが…そうも言ってられない。

……何、少しの我慢だ。受け取ったらすぐに去ればいい。
必要最低限の会話だけして、後は貰うもの貰って礼を一言告げて去れば…。

「少しは参考になりそうか?」

「…あぁ」

「そっか、よかった」

「…」

…そう思っていたが…早まったか…。
問題集が欲しかったとは言え、やはりこの男の家に来るなんて俺もどうかしてる…。

助かったとは言え、こいつにだけには極力近寄らないでおこうと心に決めていたのに何してんだ。
この男には調子が狂わされる一方だ。…こんなの初めてだ。

「全部やるよ、それ。家にあっても邪魔なだけだしな」

「…悪い」

「同じ高校に行けるといいな、夏野」

そう言って向けられたのは相変わらずの屈託の無い笑顔。
恩着せがましくもなく、純粋に人の役に立つのが嬉しいと言った顔や、どんなに俺が冷たくしても最初にあった時から変わらない態度に、少しずつ複雑な気持ちを覚え始める。

…変な奴だ。本当に…変な奴…。

近寄っちゃいけないのは分かっている筈なのに、本当にこいつといると何だか調子狂う。
最初に会った時からこの男だけは特に注意しなければと思っていたのに…誰とも仲良くするつもりなんかは無いと言うのに…。

「……ありがとう。……って、名前はやめろ」

「なはは」

…本当に調子が狂う。
10.11.01-10.12.11.
初めて訪れた家

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