今まではその言葉にそこまでの意味はないと思っていた。
所詮、ただの言葉。文字と文字を合わせただけに過ぎないその言葉に俺は興味などなかった。
むしろ、言われすぎて聞き飽きていたというべきか。
重たい感情を向けられ続けて、俺にとっては鬱陶しいもの以外の何物でもなかった。

「好きだよ、夏野」

やめろ、やめろ。

「好きだ…」

そんな言葉聞きたくない。愛おしそうに俺の名を呼ぶ声が日増しに弱っていく事に、俺は心の中で涙を零した。
日増しに冷たくなっていく体温。光が少しずつ消えていく瞳に映るのは、徹ちゃんの血を口の端から垂らした醜い自分の姿。

言い聞かせをしたのは俺。
好きだと言えと徹ちゃんに言い聞かせた。

…こんな事したかった訳じゃない…。

俺が死んだ後、徹ちゃんがあの人と仲良く話しているのを見て、衝動的に俺は徹ちゃんを夜道で襲った。……いや、気づいたら、襲っていた。

「な…夏…の…?」

いきなり組み敷かれた徹ちゃんは驚いた表情を見せたが、すぐに思いつめたかの様な表情へと顔を変え、涙を浮かばせて俺の腕にしがみ付いて来た。

「な…夏野…生きていたのか…?夏野…!夏野…っ!本当にお前なのかっ!?」

体を軽く揺すぶられながら度も何度も名前を呼ばれる。

「…」

けれど、俺は答えない。…答えられなかった。
それは今のこの自分は徹ちゃんが知る結城夏野と言うにはまったくの別物へと変わり果てていたからかもしれない。

「夏野…」

だが、俺の長い沈黙を肯定ととらえたのか、徹ちゃんは俺の胸元に頭を押し当てた。
すぐ傍にある徹ちゃんのふわりとした髪が鼻先に触れ、少しくすぐったい。

「…本当に…っ夏野なんだな…」

未だに徹ちゃんの上に乗っかった状態の俺の腕をしっかりと握りしめて徹ちゃんは小さくそう呟いた。

「…っ」

あんなにも触れたくてしょうがなかった相手が、今俺に触れてくれている。
すでに停止した筈の俺の心臓が大きく動いた気がした。

…あぁ、この距離なら徹ちゃんの匂いがある筈なのに。
もう二度とあの匂いを嗅ぐ事が出来ないのは少し残念に思えた。

「…よかった…よかった…俺…っ」

死んだはずの俺が起き上がりとして戻ってきた事に徹ちゃんは何も疑問に持たないまま涙をポツリポツリと零した。
俺の事を思って涙を流してくれている。こんな人間でもなくなった俺に…。

「俺…俺…っ」

本当に俺が生きて戻ってきたことに対して喜んでいるその姿に、何とも言えない気持ちになった。

…そうだ…この数日間、徹ちゃんはずっと俺の墓に花を添えてくれていたじゃないか…。
ずっと俺の事を思って泣いてくれていた…それなのに何で俺は…。

「うぅ…っ」

……今さっき徹ちゃんに何をしようとした?

死んでから起き上がりとなって最初に思ったのは徹ちゃんに会いたいと言う事だった。
事情を話して一緒に逃げて欲しいとかそういうのじゃなくて、徹ちゃんにただ、会いたかっただけだった筈なのに…。
あの人と話している徹ちゃんを見て、醜い感情が胸の奥底から溢れ出てきたかと思えば俺は咄嗟に徹ちゃんを組み敷いてその首筋に歯を立て様と…。

違う…違うっ!俺はそんな事をする為に徹ちゃんに会いにきたんじゃないのに…っ!

「夏野…うぅ…っ夏野…っ!」

「と、おる…ちゃ…ん…」

徹ちゃん…徹ちゃん…徹、ちゃん…。

俺の胸で顔を埋めるその髪に触れ、小さく震えるその自分よりも大きな体を優しく包み込みたい気持ちに駆られた。

「夏野…っ」

そして今まではあんなにも忌み嫌っていた自分の名前を呼ばれる事がこんなにも嬉しいことなのかと実感させられる。

「夏野…夏野…夏野…っ」

徹ちゃんに名前を呼ばれる度、俺は本当は死んでいなくて、あの忌まわしい物になどなっていなくて前の…普通の人間だった頃の自分ではないのかと錯覚させられる。
俺は確かに徹ちゃんの目の前にいる。存在している。本来なら死んだはずの俺が。

「よかった…俺…お前が死んだと思って…」

……いや、違う。俺は死んだ。確かに俺は死んだんだ。だから心臓の音も聞こえないし。息もしていない。日が出ていない夜のうちでしか出歩けない。
だから、また日が昇ったら徹ちゃんとはお別れしなきゃいけないし、都会所かこの村から出ることすら出来なくなった…不便な体へと変わり果てた。

これからはずっと徹ちゃんとは日が落ちたこんな夜でしか会えない…。
今はこうやって喜んでくれているが、俺はもう人ではない者だ。そして、いつしか徹ちゃんを獲物として見てしまうだろう。

そうなったらどうする…?
どちらにせよ、徹ちゃんとはこれ以上一緒にはいられない。あいつらをどうにか出来たとしても俺は一生この姿。
俺が死んで数日の間は悲しんでいた徹ちゃんが今日は笑っていた様に、いつしか俺の事なんか忘れて…あの人と一緒になるのだろうか。

それに…血に飢えた獣の姿をした俺を見ても徹ちゃんは普通でいてくれるだろうか?
こんな風によかったと言ってくれるか?怯えた顔をして俺を拒絶するんじゃないか…?

「よかった…夏野…夏野…」

「嘘だ…」

そうだ。……所詮、最初だけだ。そんなの分かりきっていただじゃないか。
他の奴らと同じ様に俺の姿に怯え、化け物呼ばわりし始めるんだ。

「夏野?どうしたんだ…?」

人が死んで少し経てば人間と言うのは、またいつもの様にきまった生活を繰り返す。
そんなの分かり切った事だ。後ろばかり見てはいられない。

徹ちゃんも少しずつ前を向こうとしているんだ。

「うそだ…」

「夏野…?」

――俺の事なんか忘れて。

…はっ。何がよかった…だ。

「嘘だ…」

俺が起き上がりとして戻ってこなければ徹ちゃんも俺の事なんか忘れて、あの人とあの時みたいに笑い合って…。

「嘘だ!俺の事なんか忘れてたくせに!何がよかっただ!あの人と笑っていたじゃないか!!」

「そ、それは…っ」

「俺は…ずっと徹ちゃんに会いたくて仕方が無かったのに…っこんなにも徹ちゃんの事が…っ!」

おかしかった。今までなら絶対言わない言葉。
もしかしたらこの体になってしまうと性格も変わってしまうのかもしれない。
必死で隠してきた醜い感情を持ったもう一人の自分が、自分が一度死んだ事が引き金となって顔を出した。

「好きだったのに…っ!!」

「お、俺だって、夏野の事を…っ!」

その言葉を最後まで聞く前に自分の言葉で掻き消す。
何故なら徹ちゃんの言う好きは友人としての好きだと言う事を知っているから。

「俺はそう言う意味で言ったんじゃない!!俺は…っ友達とかそう言う意味じゃなくて……徹ちゃんの事、を…っ!」

あんなにも我慢していた言葉を、高ぶった感情と共に、そのまま徹ちゃんにぶつければ、そのまま目を真開いたままの徹ちゃんに自分の唇を重ねていた。
徹ちゃんの体がびくりと反応をしたのが分かると、それ以上唇を合わせる勇気は出なかった。

「…こう言う意味で好きなんだよ…」

「な、なつ…の…」

狼狽えているのがよく分かる。それはそうだろう。いきなり死んだ筈の友人が現れたかと思えば押し倒されて告白されれば、そうならない人間などいないだろう。

「少しでも俺が死んで悲しいと思ってくれているなら…そう言う対象で見てくれよ…俺の事、友達とかそういうんじゃなくて…」

「お、俺は…」

――知ってる。徹ちゃんはあの人が好きだ。…俺が死ぬ前に、相談された。

けれど、もう駄目だ。限界だ。
あの人の物になるのなら、いっそ俺のこの手で徹ちゃんを…。
いずれ、この村もあいつらの物になる。徹ちゃんが誰かに血を吸われる位なら俺が、俺が…俺が。

「それが出来ないなら俺があんたの喉元に喰らい付いている間中、嘘でもいいからずっとずっと俺の耳元でその命が尽きるまで好きだと言い続けてろよ…っ!!」

そして目の前にあるその柔らかな髪に隠された首筋に俺は歯を立てた。

「夏…っ!」

ドクリドクリと大きく脈打つ太い脈の中へと歯が埋まっていく感覚に零れ落ちる甘美な液体に喉がなる。
それが徹ちゃんの血だと思えば思わず体の一部が熱を帯びた気さえした。

「夏…野……」

俺の腕を掴んでいた徹ちゃんの手は一瞬強張った後、すぐに力をなくして地面へと落ちていった。
虚ろな瞼が俺を映しているのを見下ろしながら、俺は力の失ったその体を強く握り締めて顔を埋めれば、そのまま長い時間徹ちゃんの傍から離れなかった。








そして…

「好きだ…夏野。好きだ…」

…それ以降、俺が徹ちゃんの喉元に歯を立ててその血を吸う度に、言い聞かせした通り徹ちゃんは俺の事を何度も好きだと呟く様になった。

「…好きだよ…」

聞きたくない。聞きたくない。自分で言い聞かせをしておきながら、徹ちゃんがその言葉を言う度にすでに役目を終えてただの飾り物と化した俺の心臓がわし掴みにされる気分になった。
心などそこには無いそのうすっぺらな言葉を聞かされながら、俺はただ、飢えた心を埋めるかの様に空腹を満たしていく。

「本当に…お前の事が好きだよ……お前が死んでから気づいたんだ…俺もずっとお前の事…」

……今思えばその言葉をやめさせる事が出来たのに、その時の俺はそんな考えさえ思いつかないまま血を啜る事だけに専念していれば、やがて近くで何度も何度も好きだと言われていた声もか細くなっていった。

「…き…だっ…た事…に……」

そして、徹ちゃんが冷たくなった後に気がついた。
今まで徹ちゃんが言っていた言葉は俺が言い聞かせをしたわけではない、徹ちゃんの本心から告げられた本当の言葉だった事に。

「そう言えば、血を吸う前に…言い聞かせは出来ないんだったな…」

けれど、もう遅かった。
10.08.28-10.11.19.
偽りの言葉

back top