「ん…」

ふと瞼を開けてみれば、真っ暗な部屋が視界に入ればそれは先程よりもさらに暗くなり、物の配置も分からない位の暗さだった。
どうやらあのまま疲れて眠ってしまった事に気が付けば、頭が幾らかスッキリとした気がした。

…よく眠ったみたいだな…それにしても…。

「喉が渇いたな…」

水分を取ったのはいつだったかさえ思い出せない。…もしかしたら今日一日飲んでいないかもしれない。
そう思ったら、さらに余計に喉が渇いて体が水分を欲しがった。

…このまままた眠る気にもなれないし、少し水でも飲んで一息つこう。

「…っと」

重い体を何とか起こし、ベットから体を起こす。あたりはさっきよりも一層暗くなったせいで足元が覚束ない。
自分の部屋だからこそ勝手が利く為、あまり慎重にならないまま部屋の中を歩いてみれば転がったままの椅子に思わず躓いた。

「そう言えば倒れたままだったな…」

かと言って、椅子を戻す気力も今は無い。
水でも飲んでからでも遅くは無いだろうと思い、ふら付く足をなんとか動かして扉があるであろう場所に手を掛けた。

ギィィ…

…静かだ。

部屋同様明かりの付いていない真っ暗な廊下は静けさに包まれていて、人の気配も感じられない。
父さん達はもう寝たのだろうか。俺が寝てからどの位経ったのだろう。今何時だ…?

「…寒…」

部屋とは違い廊下の寒さに体が無意識に震え上がった。
汗を掻いた状態のまま何も上に掛けずに寝てしまった所為か、少し寒気がする。
一応、明日の事もあるし、大事をとって水でも飲んだらすぐに寝よう。風呂は明日の朝にでも入ればいいか…。

…後はなんだっけ…。

あぁ、もう何も考えたくない…。とりあえず今は水を取りに行く事だけに専念しよう…。

そう思いながらようやくリビングへと辿り着けば、中の様子を覗き見る様な形で誰もいないのを確認してからコップを取りに食器棚へと向かった。

チッチッチッチ…。

近くにあった時計の時刻は7時を指していて思ったほど時間が経っていない事に気が付く。

…10時位かと思えばまだ7時か…その割にはよく寝た気がするが…。

夕食時は三人で囲うテーブルも今では寂しそうにひっそりとしている。
ふいに俺の夕御飯とも思われる物がラップにかけられて机の上にメモと一緒に置かれているのが目に入った。

"ちゃんと御飯を食べないと体壊すぞ 父さん 母さんより"

俺の好きな物ばかりが乗せられた皿に二人の俺への気遣いを感じながらも、それでも箸を付ける気にはならなかった。
ここにいないとすれば、二人は工房の方かもしれない。
今は、父さんや母さんとも会いたくはなかったから丁度よかった。

今のうちに部屋に戻ろうとコップを片手に蛇口を捻れば、ジャーと音を立てて水が止め処も無く流れ落ちていく。
排水口へと流れていくその様をただ見つめたまま、俺のこの気持ちも流れていけばいいのに…と握っていたコップを強く握り締めた。

「お、丁度よかった夏野」

「…父さん」

「父さん達はちょっと今から集まりがあるから御飯ちゃんと食べておくんだぞ、母さんは先に武藤さん所の奥さんと一緒に準備の手伝いをしにいっているから」

…武藤…?…あぁ、徹ちゃんの…。

「…今はいい、勉強するから」

流れっぱなしだった水をコップへと注ぎ、蛇口を捻りながら父さんに背中を向け続けたまま言葉を返した。今はあまり顔を見られたくは無い。
ここで一杯水を飲みたかったが、そうも言っていられなくなった。この場所から一刻も早く去ろう。

「またそんな事を言って。母さんも心配しているぞ。最近一緒に御飯も食べなくなってきたし…徹君の事で…」

「…っ!違う!!」

思わず父さんの口から出た名前に過剰に反応してしまった。
忘れようとしていた感情がまた疼き始める。

「な、夏野?」

俺の様子に意表をつかれたのか、父さんは驚いた顔をしている。

驚かせるつもりはなかったのに…こんな事なら水を我慢して、あのまま寝ておけば良かったと後悔した。

「あ、いや、何でもない…ごめん。父さん、本当に今は食欲ないんだ…後で食べるから」

居たたまれない雰囲気にいてもたってもいられず、俺は出来ない嘘を父さんに告げて逃げる様にその場を後にする事にした。

「って、待ちなさい夏野、まだ話は…」

…けれど、父さんどうやら俺を放っておくわけもいかないらしく、一緒についてこようとする。

二重に聞こえる足音。
一つは俺のでもう一つは父さんの。

父さんが俺の事を心配してくれているのはよく分かる。けど、今はほっといてくれ、そっとしといてくれ…。今は何にも誰の声も聞きたくはない。

背後から未だに聞こえてくる足音とまだ何か話をしている父さんの声に、思わず自分の耳を手で覆ってしまいたい衝動にかられれば、

…♪

聞こえてきたのは、父さんの声ではなく、家のチャイムの音だった。家に誰かが来た音。
その音に背後から聞こえていた足音が止まった様だった。

…丁度よかった。その音に意識がいってくれたのが幸いだ。

誰かは知らぬ来客に心の中で感謝しながら、父さんがそっちに足取りされている合間に俺は自分の部屋へと向かった。

「おぉ、…じゃな…か……だったかい?」

部屋へと向かう途中、うっすらと耳に入ってくるのは来客を出迎えている父さんの声。

都会の7時とは違ってこっちでの7時なんて村の住人はほとんど誰も出歩かない筈だ。
こんな時間に誰だろうか。

そう言えば、さっき父さんが集まりがあるとか何とか言っていたから、父さんを迎えに来たのかもしれない。
もしかしたら清水がいなくなった時みたく、徹ちゃんの小父さんあたりが迎えにきたのかもしれないな…。



……俺には関係のない事だ。

この水を飲み干したら、また寝よう。今日は勉強をする気になれそうにない…。

……椅子…倒れたまんまだ…。元に戻しておかないとな…。勢いよく倒しちゃったから傷付いてなきゃいいけど…。

静寂に包まれた光も何もない自分の部屋へと戻れば、すぐさま口の端に水が伝うのも構わず喉を大きく鳴らして久しぶりの水を飲み干した。
音を立てると同時に気温と共に冷えた水が心地よく、渇ききった喉を潤していき、少しだけ頭がはっきりとしてくる。
出来る事ならば、もう1杯程飲みに行きたい所だが、また父さんと鉢合わせしたら面倒だ。

空となったコップを名残惜しそうに見ながら机の隅に置いて、ついでに倒れたままの椅子も元に戻せば広げっぱなしのままの教材に視線が行った。

…だしっぱなしだったな…。

勉強の途中だった所為か、筆記用具から教科書まで乱雑になっている。
ついでにこれも片そうかと少し悩んだが、やめた。

明日早めに起きてまた勉強するだろうし、今日はこのままにしておくか…。
今はとりあえず寝ることに専念しよう。さっきもぐっすり眠れたんだ。
今だって…。

……そういえば勉強どこまで進んだっけ…さっきまでしていた所さえ思い出せない。
皮肉な事にどんなに頭を回転させても思い出すのは――…。



――何してんだ…俺。こんなに精神がもろくてどうするんだ。俺にはこの村から出る為にもっと勉強を…。

あ…駄目だ…。体がだるい。瞼も再び重くなる。それに釣られて再び倒れこむ様にベットへと身を沈めた。
布団の柔らかな感触に誘発されて本能のまま瞼を閉じれば、まるで瞼に焼き付いているかの様にあの光景が鮮明に映し出された。

車の中で二人仲睦まじそうにしていた…あの…。

「…っ」






その時だった。


"夏野"


それは幻聴とも言える声だった。優しい声色、親しみを込めて俺の名を呼ぶあの声。
けれど、幻聴にしては何かが違っていた。この数週間自分の脳裏に浮かばせて何度も何度も繰り返し響かせていた声よりも…。

…まさか。

そんな期待が俺に押し寄せる。けれど、そんなわけないと自分に言い聞かす。
期待してはいけない。きっと幻聴に違いない。
そう思いながらもその声がした方へ…思わず部屋の扉の方へと顔を向けてみれば、何故かそこは…

「と…徹ちゃん…」…の姿があった。

何でここにいるんだ?俺の部屋なんか来たことなかったのに、さっき父さんが出迎えたのって徹ちゃん…?
夢か?俺はあのまま寝ていて夢を見ているだけなのか?
いや、違う。これは、夢じゃない。確かに徹ちゃんは俺の部屋に、俺の目の前に立っている…。

「夏野、ちょっといいか?」

「…あ、あぁ、ちょっと待ってくれ、徹ちゃん、い、今電気つけるから…」

こうやって面と向かって話したのなんか数週間ぶりだ…。
何だか、緊張する…。今、俺はどんな顔をしている?ちゃんと笑えているだろうか?
引きつっていないか?悲しそうな顔をしていないか?変に思われていないか?

「いや、つけないでこのまま聞いてくれ」

「徹…ちゃん…?」

その言葉に少し安堵する。この暗闇なら今俺がどんな顔をしているか徹ちゃんには気づかれないだろう。
逆に言えば俺の方も徹ちゃんの顔もよく見えないのだが、徹ちゃんは少し俯き加減で拳を強く握り締めているのが分かった。

…何だ…?

徹ちゃんのその拳の握り具合から、何か大事な事を言うんじゃないかと思えて、つい身構える形になる。

「……夏野、あの時、言ったよな、練習に付き合ってくれるって」

「え…」

予想しなかった徹ちゃんの言葉に少し間の抜けた声を出してしまった。

練習…?付き合う…?

その言葉にすぐにキスの事が思い浮かぶ。
確かにその練習に付き合うと言ったが…今更何か言われるのだろうか、何度もしといて気持ち悪かったとかか?あの時の事はなかった事にしてくれとかか?…駄目だ。どう考えても悪いほうにしか考えが浮かばない。

もしかすれば、あの人には俺と練習と称してキスをした事は言わないでくれ…とかか…?

あぁ、それが一番ありえるかもしれない。
普通、親友と言えど友達とそんな練習なんてあり得ないもんな…。
あの時の事も…無かった事にされるのか…。

…そう思っていた俺に、徹ちゃんの次に口に出した言葉は俺にとって到底ありない言葉だった。

「本当に、抱いてもいいのか」

…抱く…?

抱くって、誰を?誰が…?
確かにキスの次にそっちの練習を持ちかけた事もあったが、抱いてもいいかってどういう事だ…?

「徹ちゃん…?何を言って…」

目が暗闇に少しばかり慣れて来たとは言え、下を俯いたままの徹ちゃんの今の表情が見えず、その言葉が指す意味が何なのか理解できない。
…いや、嘘だ。うっすらと分かっていた。現に徹ちゃんが言ったその言葉の真意に期待をして、自分の意思とは関係なく体がざわつき始める。

まさか、まさか。…いや、期待してはいけない。期待しても裏切られるだけだ…。期待しても…、

「……練習台になってくれるか?…夏野」

「…あ」

"練習台になってくれるか?"

その声色が、今まで聞いた事が無い位、真剣で。

――――その言葉が、俺の待ちに待った言葉で。

「…あ、あぁ…」

顔を上げた徹ちゃんの顔があまりに切羽詰まった様な顔で。
その表情から今言った言葉が冗談ではないことが分かれば、俺はその申し出を断る理由なんて無かった。
10.07.28-10.10.29.
廃れていく心

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