冷え切った風が火照った体に丁度よかった。
呼吸がままならなくなり、息を口から吸い込む様になれば、冷たい冷気が熱くなった俺の体の中へと浸透していった。

「はぁ…はぁ…くっ…はぁ…っ」

足は少し痙攣していて地を蹴る為の力がうまく入らない。じわりと汗が滲んで衣服が肌にピタリと張り付けば少し気持ち悪く感じる。
もうあの暑さがめっきり無くなったこんな夜に一人汗を掻いていれば、ふいにある物が目の前に映り込み、思わず俺はその足を止めた。
急に止まったせいで、思った以上に足に負担がどっと来るのを堪えながら少しだけ呼吸を整え、もう一度それに視線を向けた。

「…っ…はぁ…あれは…」

ここはまだ、徹ちゃんの家じゃない、けれど、足を止めたのは日も沈んだにも道端で見覚えのある車が目に入ったからだった。
暗くても分かる。その車が徹ちゃんの家に行くたびに目に入っていたあの車だと言う事を。
小父さんの車でもあり、今は徹ちゃんも使っているあの――…。

ごくり。思わず喉が鳴る。

暗い車内の中でもそこには確かに懐かしい顔があった。会いたくてしょうがなかった相手。…徹ちゃんの姿があった…。

「…徹…ちゃ…」

とても懐かしく思えた。会わなくなってからまだ1月も経たないと言うのにもう何ヶ月も会っていなかったかの様なそんな感覚。
徹ちゃんに会うのをやめてからの1日1日は思った以上に長かったのを感じながら、車の中にいる徹ちゃんの姿に目が釘付けになった。
もう目的は果たしたはずだと言うのに、それでも俺はその場から立ち去ることが出来なかった。

「…?」

運転席で肩を落として項垂れているそんな徹ちゃんの姿に、少し元気がない様に見えた。

…それに少し痩せた…?
それともいつもの様にゲームのしすぎで寝ていないだけか?

そんな憶測が俺の中で飛び交う。

…それとも…と思っていれば、徹ちゃんの隣に誰かが座っているのに気が付いた。…それは、見覚えのある人物だった。今一番会いたくなかった…あの人の姿。その人の姿に気づいてしまえば、ズキリと胸が痛んだ。

日の沈んだ車の中に二人、…それは、今一番見たくない光景だった。

その人の方へと徹ちゃんが顔を向ければ、その人は徹ちゃんに向けて優しく微笑んでみせる。
そうすればさっきまで元気がなかった徹ちゃんも少しだけ笑った気がした。

あの人だけに向けられた…徹ちゃんの顔…。

「…っ」

何ともいえない感情が沸き起こる。
醜い感情。嫉妬と言う物。

無意識に心のどこかで、偶然通りかかったあの人を優しい徹ちゃんが気を利かせて送っていく途中なんだと、それ以上の事は何もないと自分に言い聞かせていた。
二人が付き合っている事を理解しているつもりだったのに、心のどこかではどうしてもその現実を認めたくない自分がいた。

「…く…しょ…」

どんなにその事実を否定したくても、それは見るからに…車でのデートをしている…恋人同士、そのもので…。

「ち…しょう…」

目を離す事もその場から立ち去る事も出来ず、そのままつらい気持ちで二人を見つめた。

…見たくないのに。こんなのを見るために俺は走って来た訳じゃないのに…っ!

何よりこんな場面を見せられても、より一層徹ちゃんが恋しく思える自分が憎い。

歯を強く噛みしめて、二人の様子をただただ見続けていれば、ふいに何かを感じとったのか、あの人が俺の方へと視線を向け俺の姿に気がついた。

一瞬驚いた顔。

そしてその人の様子に徹ちゃんもどうやら気づいたらしく、その人の視線の先にある俺の方へと顔を上げれば、途端にその人と同じ…顔をした。

それはまるで予期していなかった場面に遭遇してしまった様の顔だった。普通は逆じゃないのか?何で二人がそんな顔をするんだよ。
もしかして、二人で会っているのを見られてはいけなかったのだろうか?

そう思っていれば、徹ちゃんの顔が次へと変わった瞬間に俺は気づいてしまった。

…あの顔は、二人で会っている所を見られたからじゃない…。

――あぁ。そうか。きっと、俺の顔が…。

「夏野…ッ!」

久々に聞いた徹ちゃんの声。俺の名を呼ぶ声。車から出てきて俺を見て、俺の名前を呼ぶ徹ちゃんの姿。
少しつらそうな、…悲しそうな顔。

…やめろよ。そんな顔を俺に向けてくるなよ…ッ!

その声に、その顔に、後ろ髪を引かれる思いをしながらも、俺は歯を食いしばって、拳に力をこめて、徹ちゃんに背を向ける形で体を反転させた。

あとは、無我夢中だった。足はもう限界にきていても徹ちゃんが俺の後ろから追いかけてきている様な気がして自分の家に着くまでは足を止める事が出来なかった。
徹ちゃんがあの人と一緒にいるのに俺の事を追いかけてくるわけが無いのを知っていながらも、それでも俺はひたすら息を切らしながら、自分の家へと走り続けた。

さっきよりも胸が張り裂けそうに痛い。息が出来なくて苦しい。どうしようもない感情が体の奥底から止め処もなく溢れ出てくる。今まで感じた物よりももっとドス黒い物。

何してんだ俺。何しているんだ…っ!
逃げた事でもっと変に思われたかもしれない。
むしろ二人の元を去らないであのまま普通にしていれば、もしかしたら徹ちゃんと前の様な関係に…あの頃の様に戻れたかもしれなかったと言うのに…っ!

「…もう終わりだ」

自分の家の前でようやく足を止めれば、顔を俯かせた。










「あ、お帰りなさい」

「おぉ、お帰り夏野、そろそろ晩御飯だぞ」

「…食欲がないからいらない…」

「そんな事言って、最近ちゃんと食べてないじゃ…って夏野!」

…親の話を最後まで聞かないまま、靴を脱ぎ自分の部屋へと足を動かせば、さっき全速力で走った後の後遺症で足が思うように動かず引きずる様にして自分の部屋へと続く廊下を歩いた。
本当なら、玄関先でもいいから一呼吸おいてここで休みたいくらいだ。喉も渇いた。水でも飲んで落ち着きたい。風呂にでも浸かってこの汗でしとった体を洗い流したい。

あぁ、でももう何もかもが面倒だ。出来ることならこのままここで倒れこみたい。
自分の部屋に向かうまでの廊下の道のりがいつもよりも遠く感じる。
こんなに距離があっただろうか?廊下が伸びたのではないかと錯覚に陥る。
むしろ、その先に俺の部屋はなくて、ただひたすら廊下だけが続いているんじゃないかと思えるくらいだ…。

早く、部屋に篭りたい。早く、一人になりたい。早く、倒れこみたい。



「はぁ…」

ようやく自分の部屋へと辿り着けば、電気を付けないままベッドへと倒れる様に顔を突っ伏した。
足はもう動けそうにない。手さえ動かすのも億劫に感じられる。汗でしとった服を着替える余力も持ち合わせてはいなかった。
最近続いていた寝不足から急な激しい運動。俺の体力が無くなってもおかしくは無かった。
明日は筋肉痛にでもなるのだろうかと布団の温もりや感触に少しだけ癒されながらそんな考えが頭に過ぎれば、ふいにあの二人の顔が思い浮かんだ。

驚いた顔の次に見せたあの顔…。あれは、俺の顔を見ての表情だった。

…よりにもよってあの人に見られた。…隠していたはずのもう一つの顔を。嫉妬にかられた醜い自分の顔を。

最悪だ。徹ちゃんは鈍感な所があるからまだしも、あの人はそう言った類に敏感そうに見える。…徹ちゃんの事を恋愛感情として俺が好きだとまでは気づかれていないにしても、今日の一件で変に思われたのは確かだ。

……最悪だ。

「何してんだ…俺…」

視線だけを少し動かして部屋を見回してみれば、引っくり返ったままの椅子、床に転がったペン、開けられたままの障子、広げっぱなしの参考書が目に入った。…酷い有様だな。今の俺みたいだ。

心臓が痛い…。塞ごうとしていた傷口がぱっくりと開いてしまった様な感覚。この痛みに慣れる日は来るのだろうか。
呼吸はさっきよりも少しずつ整ってきている筈なのに、心臓の痛みが取れない。

…つらい、苦しい。どうして、何で、何で、

「…何…でっ」

――何で、徹ちゃんの好きな人は俺じゃないんだ。

俺は男で、徹ちゃんも男。恋愛関係になるなんて有り得ない、当たり前の事なのに、その言葉ばかりが俺の中を支配していく。

――――何で、今なんだよ。

好きだと自覚した途端に、失恋。
この感情が恋だと気づく前に、この村から出る前に、徹ちゃんの好きな人を知らされていたらまた状況が変わっていたかも知れない。
むしろ、もっと、早く、もっと仲良くなる前に――――…

見たくなかった。あんな場面。
本当にあの人と付き合っていたんだな…。
徹ちゃんが嘘を言うわけがないのは知っていたけど・・・それでも、嘘か冗談だと思いたかった。

一緒に、いた。この時間まで、二人で、車の中で。…笑いあってた。

…じゃぁ…何で…。

「じゃ…何で…俺にキ、スなんかしたんだよ…何で…ッ!」

自分から練習と称して徹ちゃんを誘ったのは分かっている。けど、断る事だって出来たじゃないか!
俺とのキスで、反応してくれてたじゃないか!なのに、何で…!何で…!
俺の方が、あの人よりも徹ちゃんの事が好きなのに!俺の方が・・・っ俺の方が…っ!

止め処も無く、俺の負の感情が溢れ出てくる。勉強に勤しむ事によって俺の心の奥に押し込めていたはずの醜い感情、醜い嫉妬心。

きっとあの人なら、徹ちゃんの困らせる事はないんだろう。俺みたいに口実を使って徹ちゃんの優しさを利用するなんて事は…きっと無い。

少し子供じみている徹ちゃんに包容力のあるあの人…。何だ…お似合いじゃないか…。
…さっき車の中で二人でいたのなんて見るからに恋人同士そのものだった。

恋人同士…そのもの…。

「…何で…好きになんか…」


……もう嫌だ。この村がいけない。この村にこなければ、こんな感情になる事も、苦しむ事もなかった。早く出て行きたい。

あと3年もあの人と徹ちゃんが一緒にいる姿を見なければいけないのかと思うとつらくてつらくてしょうがない。

二人の姿を想像するだけで苛立ちを隠せない。この醜い感情をどこに向ければいいのか分からなくて吐き気がする。

もう嫌だ…!

誰かに対してこんなに独占欲が強かった自分に、今でも徹ちゃんの気持ちを求めている自分自身に、あの人に嫉妬してしまった俺自身にさえも。
10.07.28-10.10.27.
その視線の先

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