難しい公式に頭を悩ませば、その時だけだけでも忘れる事が出来る。
だが、解いてしまえば、より一層あの感触…温もり、俺の名前を呼ぶあの声に恋焦がれてしまう。
叶わない恋に縋り付く人間を滑稽だと笑った自分が、今ではその叶わない恋に無様に縋り付いていた。






「夏野君、最近元気無いみたいなんだけど…ご飯もあまり食べていないし」

「小耳に挟んだんだが、どうやら徹君とあの看護婦さんが付き合う様になったみたいだから、夏野も寂しいんじゃないのか」

「そう…、言われて見れば最近武藤さんの家へ行かなくなったものね…テストが終われば必ず行っていたのに」

「今はそっとしておいてやろう、夏野なりに二人に気を使っているんだろう。時間が経てばまた普通に会いに行くだろ」

……そんな両親の会話を廊下の角で立ち聞きしつつ、俺は重い足取りで自分の部屋へと戻った。人から見ても、元気が無いのがバレているのに少しだけショックを受けながら再び机に向かえば、先ほどと同じ様に意識を勉強の方へと傾けた。

テストはもう終わった。夏休み明けの実力テストだったのもあるが、勉強をすればする程この痛みを紛らわせることが出来て今の俺には丁度よかった。
おかげで苦手だった所を克服する事も出来て、テストもいい結果を残せた。

それに、この村でする事など限られている。学校へ行って家に帰って、勉強して、夕御飯を食べて、また寝る前に勉強してそして眠る。ただ、その繰り返しが延々と続くだけ。

前までは、そうだった。…徹ちゃんと出会う前は。

徹ちゃんと出会ってから、仲良くなってから、今の様に同じ事の繰り返しでも、日を見ては徹ちゃんの所へ言ったりと息抜きの場所が出来ていた。居心地のいい場所。その時だけは勉強やら、都会の大学の事や、この村で感じる疎外感さえ忘れる事が出来た場所。俺のもう一つの居場所。
あまりに居心地がよくて、少しだけ、この村にいる事が苦ではなくなっていた場所…。

むしろ―……

……いや、これで、いいんだ。一刻も早く徹ちゃんへのこの気持ちは捨てて、俺はこの村を出るんだ。
だからこそ、こんなテストの結果などに満足せずに、都会の大学に行く為、さらに勉強をしなければ。

――本当にこれでいいのか?

…そう思う自分がいる。

――これでいいんだ。

…来年になったらもっと徹ちゃんに会う事もなくなるだろう。
徹ちゃんが高校を卒業すれば…。
前聞いた時は、進学しないと言っていた気もするし。
そうしたら、あの家へ行くのも気が引けてあまり行く事もなくなる。…さすがの俺でも仕事疲れの徹ちゃんの元へ前の時の様に頻繁に行くつもりはないだろう。

もしかしたら。1ヶ月に会うか会わないかになってしまうかもしれない。
都会に比べれば、少なすぎる人口1300のこの村でも、村全体で考えなければ1300と言う人数は結構な数字だ。
だからこそ、毎日会う人もいれば会わない人もいるのも確かで。案外、俺に残された時間は思った以上に少ないのかも知れない。
それに俺が徹ちゃんの家に行かなければ、徹ちゃんが俺の家に来る事など皆無に等しい。
一年を通して考えて見れば、俺が一方的に徹ちゃんの家に行くばかりで、徹ちゃんが俺の家に来たことが無かった。

……この部屋に訪れる事も一度足りとも。

だからこそ、俺の足が徹ちゃん家から遠のけば必然的に前の様にはいかなくなるのは眼に見えていて、ただの知り合い程度になってしまう位の付き合いの無さになるのも分かってはいた。
そう、今までの関係はもう無くなる。今俺が選ばなくても後一年もすればごく自然に…。距離を置くことになる。

…これでいいのか?本当に。このまま疎遠になる事を望むのか?あの感触を知る前に戻れるのか?無理じゃないのか?

かと言って今更前の様に戻れるわけも無い。徹ちゃんを困らせてしまった。あんな顔をさせてしまった…。

――本当に困っていたのか?

もう一人の俺がいつもの様に囁いた。

――何にせよ、キスまでしてくれたんだ。あの時徹ちゃんが言いかけた言葉を俺が遮っていなければ、徹ちゃんは何を言いかけていた筈だ?
むしろ、承諾してくれたんじゃないのか?思い出してみろ、俺が言った言葉に対して訂正した時の顔はどうだった?
残念そうな顔をしていなかったか?

"冗談、なのか…?"

そう言われてみれば、あの時の徹ちゃんの顔はそんな顔をしている様にも見えた。名残惜しそうな…そんな顔。

だが、俺の言葉に対して眉間に皺を寄せた徹ちゃんのあの顔が忘れられなくて、すぐに今の考えは俺の思い違いだと首を振る。

――本当にそうか?見ようによっては自分を自制している様にも見えなかったか?現に、俺とキスしている時、徹ちゃんの体は反応を示していた。
本当は俺としたいと思ってもおかしくはなかったんじゃないのか?

――友達の関係にしては度を越えていないか?

その言葉に触発されて脳裏に浮かぶのは、熱を帯びた徹ちゃんの瞳。
俺とキスをして反応を示していた徹ちゃんの…一部。

「…違う!!」

その愚かな考えをどうにかしたくて、思わず机の上に拳を振り上げ腕を机へと振り下ろせば、大きな音と同時に鈍い痛みが骨に浸透する。
握り締めたままのペンを強く強く握り締めて、俺はこれでもかと言う位に眉間に皺を寄せた。

「違う…そんなわけが無い…」

その考えを払拭する為に難しい公式の頁を咄嗟に開いてその数式だけを頭の中で一杯にさせる。
それでもまだ駄目ならば何度も何度も馬鹿の一つ覚えの様にすでに解いた筈の問題を繰り返し解き始めた。
長い間ペンを持っていたせいでへこんだ指先から痛みがじわりじわりと浸食していく。
右手の小指から手首にかけて摩擦によって擦れた芯の色が黒く滲んではノートに薄っすらと影を忍ばせた。それはすでに勉強ではなかった。ただ、この胸の痛みが和らぎ、愚かな考えをしない様にする為だけの行為へと成り果てていた。

…瞼が重い。

こんな状態できちんと睡眠を取れる訳もなく、睡眠時間はほぼないと言っても可笑しくはなかった。
どんなに忘れたくて勉強にいそしんでも車の騒音など一切ない、あるのは虫の羽音位のそんな静寂に包まれたこの部屋で瞼を閉じれば、日を増すごとに熱に浮かされた徹ちゃんのあの顔と何度も交わした唇の感触がさらに強く思い出される様になり、それと同時にあの人と…キスが出来て喜ぶ徹ちゃんの笑顔も同時に思い出してしまって睡眠を取る事出来なくなっていた。

そう言えばここ何日間か程ちゃんと眠れていない…。2、3…いや一週間か…?
日付けの感覚が麻痺している様に見える。…いや体もか…。

体が悲鳴を上げているのは分かっているつもりだった。
前にも事情があって睡眠を思うように取れなかった時は徹ちゃんの家で寝かしてもらいに行っていたが、今はそれも出来ない。

そして皮肉な事に、日が経つにつれて睡眠時間を削ってまで今まで以上に勉強に勤しんでいた結果、テストが終わって少し気をゆるめてしまった途端に忘れようとしていた胸の痛みがうずき始め、何をしても紛らわせる事が不可能になりつつあった。
眠ればその間だけでもその痛みを忘れられる事が出来ると言うのに、今では眠る事さえままならない現状。

…あの頃は徹ちゃんの匂いのついた布団が最高の安眠剤だったな…。

あまりにもの眠たさに徹ちゃんのベッドを奪ってそのまま眠ってしまった事を思いだせば、ほんの数ヶ月前の事だと言うのにあの頃が懐かしく思えた。

何をするわけでもなく、ただ一緒の空間にいるだけでよかった。そこに徹ちゃんがいれば、俺はそれだけで…。


……顔が見たい。声が聞きたい。それが無理なら、せめて、家の近くに行きたい…。
部屋の明かりだけでも確認したい。そんな醜い感情が沸々と俺の心の中で沸き起こる。

…これじゃ、清水じゃないか…。

「…最悪だな」

少しばかり障子を開けて窓の向こうの木々の生い茂る薄暗い場所へと目をやれば、そこに潜んで俺の事を覗いていたとある人物の姿が少しだけ浮かんでは消えていった。

……あいつもこんな気持ちだったのだろうか。

「…はっ」

馬鹿馬鹿しい。俺はあいつとは違っていつか相手が振り向くまで待っている程、柔じゃない。
いつか振り向いてもらえたら等と言う、甘えた考えなど持ち合わせてはいない。

ただ、会いたいんだ。もう何も言わないから、求めないから、困らせたりしないから…せめて、徹ちゃんの顔だけでも…。


"なっつのー!"

"夏野〜!"

"夏野"

"どうした、夏野"


「…くそっ」

寝不足の所為か頭がうまく回らない。

……そうだ、その所為だ。

勢いよく立ち上がった所為で椅子が引っくり返ったのもお構いなしに、俺は思わず家を飛び出した。

「はぁ、はぁ、はぁっ」

飛び出してきといて何だが徹ちゃんに会いに行ってどうするつもりとか考えてはいなかった。

睡眠不足からくる足のふらつきを抱えながら、それでも足を休める事無くひたすら走り続けた。

「はぁっはぁ…っはぁっ」

こんなの俺らしくないのは重々に承知だった。
途中転びそうになったりと、今の自分の無様な姿を滑稽だと心の中で嘲笑いながらも、後はただ本能の赴くまま足を走らせるだけだった。



――その先で、つらい現実を目の当たりにする事になるとも知らずに。
10.07.28-10.10.26.
恋い焦がれて

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