自分の肩に誰かが寄りかかっている感覚。自身の手に添えられた冷たい手。
けれど、確かにそこには失ったはずの温度があった気がした。
そしてこの体になってから初めて一人ではない孤独から徹は解放された気がしたのだった。




…時期、朝が来る…。

体に仕組まれた朝の始まりを知らせる時計が刻々と近づいていた。
何度も味わったその感覚。時計を見なくとも、時期に朝日が昇るのが分かった。
徹はうっすらと眼を開ければ、そこには木で出来た頑丈な造りの格子の柵が眼に映った。
閉められた部屋。鍵が掛けられたその場所。

誰かを来る事を拒み、ここから出ることさえも拒んだ者の牢獄。

そこに二人、律子と寄り添う様に壁に凭れ掛かっていれば、この忌まわしい体になってから何度目かの朝日を迎え様としていた。

…きっとこれが最後の朝日だ…。

徹は意識が少しずつ朦朧とし始めている中、そう確信していた。

…遅かれ早かれ…きっと、彼女はここの場所を知らせるだろう。
何故ならば食料としてつれてこられた彼女を俺は逃がしてしまった。
ここ、山入に屍鬼である俺たちがいる事を告げ口し、多くの仲間を引き連れて狩りに来るだろう。
それか、俺のしでかした事を知った辰巳が罰しに来るのが遅いか早いかの事…。

…どちらにせよ、もうおしまいだ。

徹はそっと自分の手に添えられた細く痩せこけた指の方へと視線を向ければ、白装束を身に纏った女性の姿が目に映った。
生前の笑顔の絶やさなかったその綺麗な顔は痩せこけ、乱れた髪も、目の下も隈も相まってそれはもう見るからに美しいとは言えない姿になっていた。
何も口に入れなかった為に、栄養不足の所為で生じている唇の皺。どれを見ても痛々しい物だった。
それでも心だけはそのままだった。…生前の、人を救いたいからと看護師の職をついたあの時のままの綺麗な心がそこにあった。

残り僅かな気力で餌として捕らわれていた自分の同僚の女性を助け、そして最後まで気高い気持ちを絶やすことが無かった彼女のその姿を思い出す。
自分には無かった強い意思。人である事を強く願い続けたその姿。

「…」

徹は、少しばかりその女性…律子の方へと顔を動かした。
自身の頭を徹の肩へと預け、徹よりも先に深い眠りへと入ったその顔は、先ほどまでずっと苦しんでいた時とはまったく違った安らかな顔だった。

…そう、屍鬼となってからは今まで一度たりとも見た事が無い位の、幸せそうな顔。…すべての呪縛から苦しみから解き放たれたかの様な安心しきった顔をしていたのだった。

その顔を見て、徹はふと思った。

…律ちゃんはもう生きていないのかもしれない…。

呼吸も脈さえも持ち合わせない屍鬼となった律子が生きているかどうか、それを徹が確かめる術は今はなかった。
だが、彼女はもう死んでいるのではないかと徹はそんな気がしてならなかった。
屍鬼となって数日間、彼女は屍鬼が生きる飢えで必要な食事を一度たりとも摂る事が無かった。
人を救いたいと思って生きてきた自分自身であり続ける為と…徹の様に生きる為とは言え、人を殺めた挙げ句に自分自身を憎んで憎んで憎悪と言う呪縛に身動きがとれなくなる事をかたくなに拒否したからだからだった。
屍鬼の唯一の食事である人の血を吸う事をしなかった彼女は、いつ命を落としていてもおかしくは無かった。
どんなに腹が減っても自我を持ち続け、餌としてつれてこられた人の血を吸う事をしなかった屍鬼の末路を今彼女自身がその身を持って辿ろうとしていた。

"何で起き上がっちゃったんだろう…折角…一度死んでいたのに…"

彼女が飢えと戦いながら呟いた嘆きが、今更ながらに徹の心に突き刺さる。

…あぁ、確かにそうだ。何で生き返ってしまったのだろうか…。

視界が少しずつ少しずつ涙によって滲んでいく。

…あのまま大人しく死んでいれば…夏野の事さえも――…。

――殺すことなんてなかったのに…。

脅されていたとは言え、親友であった結城夏野をこの手に掛けた事実は時間の経過と共に薄れて行く所か、少しずつ少しずつ心の奥へと侵食して行ってはその部分を腐敗させていく感覚に徹はずっとずっと苦しみ続けていた。

「夏野…」

…何度その名を口に出しただろう。夏野…夏野…。

顎を上に向けて涙が零れ落ちるの止めようとしたが、その努力も空しく、結局は止める事が出来ないまま、ぽつんと音を立てて痩せこけた律子の手の甲へと零れ落ちた。
それでも微動だにしなかった律子の様子に、徹は少しだけ悲しい笑みを浮かべた。

…時期に、俺を罰する為に来た誰かの手によって命を奪われるだろう。
屍鬼狩りを始めた奴らの手によって太陽の下へと引きずり出され、体を幾度と無く鎌や鍬などで痛めつけられてから最後に深々と杭を打たれ…命を奪われるかもしれない…。
辰巳の手ならば、太陽光の元に晒されて…、それから…想像を絶する拷問が待っているかもしれない。

…きっとどちらにせよ残虐なやり方で殺される。

朝日の始まりと共に少しずつ意識が薄れて行く中、これから起こる悲劇に瞼を深く閉じ、徹は一つ願った。

…けど、せめて律ちゃんだけは一思いに…してあげて欲しい。
もう生きてはいないかもしれないけれど、もう十分苦しんだんだ…。
最後まで苦しめないであげてほしい。太陽の下にさらして刃物などで彼女の体を痛めつけないであげて欲しい。
俺たちとは違う、人を一回も殺めることも血を吸うことも無く、人間であり続けたのだから…せめて、彼女だけは…。

――徹は結局、武藤徹のままだった。
屍鬼となって人を殺めた今も、心の奥にはやはり誰からも好かれていた優しい武藤徹の姿がそこにあった。…自身の生の執着よりも、人の事を思いやる事が出来る、優しい優しい…結城夏野の親友であった頃の姿がそこに。

どんな姿に変わり果てたとしても必死に生に縋り付いて、親友の…多くの人の命を奪ってまで生きて来た自身の命ももうすぐで潰えると言うのに、今までとは違って徹はそこまで恐怖を感じてはいなかった。
律子が…誰かが傍に居る。だからだろうか。屍鬼となってから誰にも心を許すことなく孤独に生きてきた自分がもう一人ではない気がして、それが運命ならばと受け入れる事を心のどこかで決めていたのだった。

…夏野の所に最後に花を添えたのはいつ頃だっただろうか…。…もう最後に添えた花は枯れてしまっているのだろう。

ふと、思い起すのは自分自身がその手にかけた親友、結城夏野と過ごした日々の記憶だった。
…とは言っても過ごしたのはたった一年間弱。
そう、たった一年の事だと言うのに、もっと長くずっと一緒にいた気がして、今更ながらに結城夏野の存在の大きさに徹は再び涙を零した。

「……最後に夏野に会い…たかったな…」

弱りきった声で最後の願いとも言える言葉を徹は悲しげにぽつりと漏らして、少しずつ自分の方へと近づいてくる誰かの足音を耳に聞き入れながら、ゆっくりと瞼を閉じてこの世の終わりへの終止符を打ったのだった。











"…ちゃん"

"徹…ちゃ…"

見渡す限り真っ暗な深淵の、深く沈んだ筈の意識下の中、どこからか聞きなれた懐かしい声に導かれる形で、徹は重くなった瞼をゆっくりと開けて見た。

忘れるわけがない声。自分の名を呼ぶ…の声。

けれど、すでに自分の体が眠りの態勢へと入っている所為か眼をあけても視界ははっきりとせず、すべてがぼやけて見える。
それでも少しずつ目の前にある物が何なのか目を凝らしてみれば、そこにあったのは誰かの足だった。

…あぁ、そうか、俺を殺しに来たのか。

徹は夢現にそう覚悟を決め様とすればその足が誰の物なのかが分かり、止まっていた筈の心臓が大きく鳴り響いた気がした。

それは、ずっと逢いたいと願っていた人物。

"夏、野…?"

…結城夏野の姿がそこにあった。
最後に会ったあの時に比べて顔は痩せこけていなく、むしろ健康そのものと言った印象を持ち合わせていた。

…そうか、きっとこれは夢だ…。何故なら夏野が生きている訳がないのだから…。
それでも…いい。夏野にこうして会えたんだ…。

徹は思わず体を起こそうとするが、体が思う様に動けない。
せめて声だけでもと、つまる喉元を何とかこじあけて。縋る様な顔で親友だった少年に声を掛けた。

"夏野…夏野…夏…野…"

声に出してみたのはいいものの何を言えばいいのか分からず、只々夏野の名前を何度も何度も繰り返した。
例えこれが夢だとしてもお前を殺めてすまなかったとは言えなかった。
亡骸無き場所で贖罪の言葉を告げる事が出来ても、本人を前にしてでは言葉が詰まって言える事が出来なかったのだった。
現に、あんなにも一緒に逃げ様と言ってくれた友を裏切り、命を奪ってしまった。
その事が重くのしかかり、徹は言葉を続けられずにいれば、夏野は表情一つ崩さずに、次の言葉を口に出した。

"山入の事が村人たちにバレた。時期にあいつらがあんた達を狩りに…殺しに来る"

あいつら。そう、それは屍鬼達を狩り始めている村人達の事を指していた。
杭や斧、鍬、鎌などと言った穀物などを育てる際に使う物を凶器として、村の男たちが屍鬼達が潜む場所を見つけては次々と殺戮を繰り返していたのだった。

"…そう…か…"

徹は予想していた分、夏野のその言葉に驚きはしなかったが、変わりに少しだけ、悲しみの表情を浮かべた。

"もう山入ではない所を居住としていた奴らはほとんど狩られた。滅多刺しにされた後、杭を打たれた"

そんな徹の様子に構う事なく、夏野は淡々と言葉を続けた。
一切誤魔化す事なく、見たままの事すべてを事務的に言うかの如く。

"…っ"

徹は、その言葉を聞いて無意識のうちにとある人物の顔を思い浮かばせた。
昔から自分の後ろをくっついてきていた男の顔を。いつも威張っている癖に泣き虫で、寂しがりやなあの男の顔を。
そして、今ではあまり仲がよくなくなったが、昔はよく遊んでいた少女の顔も。

…二人は安らかに死ねただろうか…。

徹は、二人の最期がせめて苦痛の無い様にと心の中で願った。

"…あんたはどうする"

"…どうするって…?"

夏野の予期しないその言葉に徹は少し戸惑った。
もう朝日が昇る。今更ここに人が押し寄せて来たとしてももう逃げる事は不可能。
自分の道はもう決められている。逃げる事は出来ない。

…いや、もう逃げるのをやめたと言えばいいのかもしれない。
臆病だった自分自身からももう逃げるのを止め、すべてを受け入れることを心に決めたのだから。

そうすれば、夏野の手に、木で出来た杭が見えた。それも二つ。
屍鬼の死の象徴の一つでもある。杭。どんなに切り刻まれても生きる事が出来る屍鬼達の息の根を止める事が出来る、物。
前に夏野に見せられた時には恐怖の感情が沸き起こった物が、今では何故かそれが妙に安堵出来た。
本来ならば、体に飢えつけられた恐怖は治す事が不可能な筈なのに、今の徹にはそれが感じられなかった。

…きっと…俺の願望を夢で見ているからだ…。
誰かに殺されるくらいなら…いや…俺は親友であるお前に最期を看取って欲しかったんだと思う…。お前の顔を見て。お前の手で…。だから、こんな夢を見ているんだろう…。

徹は意を決して、目の前に立ち尽くしたままの親友に自分の願いを告げた。

"なら…夏野、お前の手で殺してくれないか…?"

夏野の手でならと思うと、徹はどんな殺され方をしても平気に思えた。
夏野をこの手に掛けた贖罪と、そして、もう一つの…感情。それの二つが徹の中を支配していく。

"…いいのか"

徹が言った言葉に、今まで微動だにしなかった夏野の顔が少しだけ動いた気がした。

"あぁ…俺はどんな殺され方をしてもいい。お前を…殺したのだから…。それに…お前もそのつもりで来たんだろ?"

"…"

杭を握るその指先が微かに動いた気がした。
否定の言葉が無いと言う事は肯定と同じだった。

"…でも、せめて律ちゃんだけは苦しまない様にして欲しいんだ…。お前を殺した俺が言うのも何だけど。他の奴らの手によって…は、あまりに可哀想だ。彼女は一度も人を殺さないで居続けたんだ…だから最後だけでも…。"

その言葉に、少し間があったが、すぐに夏野は頷いた。

"……分かった。この人も…あんたも…なるべく苦しまない様に…する。"

あんたも…、親友だった少年が発したその言葉に、一瞬徹は驚きの顔を見せたが、すぐに笑顔へと変わった。
まだ人であった頃、青空と太陽の下でその親友に何度も向けていた柔らかな笑顔を。

"……ありがとうな…夏野…俺、最後にお前に会えてよか……"

その言葉を最後まで言い切る事も無く。徹は安心しきった顔で瞼を閉じた。…一粒の涙を頬に伝わせて。

そして、夏野は朝日が完全に昇った事を確認すれば、木で作られた杭を徹の胸部へと押し当て、そのまま勢いよく小さな小槌を振りかざしたのだった。







ポタ…ポタ…

親友の血によって真っ赤に染まる自分自身。徹の血を大量に浴びた夏野の衣服も同様に真っ赤に染まり、ぽたりぽたりと音を立てて落ちる。

「…この服は…もう着れないな」

今さっきまで親友をその手に掛けたと言うのに一切変わらぬ冷徹な表情のまま、自分の白かったシャツへと手を伸ばし、その言葉を吐き捨てれば、すぐ側で行われた行為に気づく事も声を上げる事もしなかったもう一人の胸にも杭を突き立てた。
そのままさっきと同様に勢いよく振りかざせば、白装束がじわりじわりと赤い色へと染まっていった。




ポタリ…ポタリ…。




……そして、ようやく全てを終えた時、先ほどの冷徹な表情とは打って変わって切ない声音でそっと夏野は呟いた。

「先…行っててくれ…すぐに俺も行くから…」

この姿となってから、屍鬼を狩る事を決めた時から、一度も口に出す事をしなかった愛しい人の名前と共に。

「徹ちゃん…」

安らかな顔をした親友にそう告げれば、親友の血と女性の血で染まった頬から水滴が一つ、零れ落ちた。
どちらの血なのかは分からない、真っ赤な真っ赤な一滴の雫が。






*



事件など全くもってなかったのどかな村、外場村。
人々が協力し合い、絶え間ない笑い声が響いていた場所、外場村。

それが今では人の姿と変わらない多くの屍鬼達の死体が積み重ねられた地獄絵図と化していた。
日の光の下に出された所為で皮膚が焼き爛れた多くの死体が身元さえ分からない惨状。知人の顔をした死体。
それにはさすがに吐き気をもよおす人もいたが、悲しい事に次第にその光景がさも村の中での日常的風景の様に村人たちの中に溶け込んでいた。

「なぁ、この二人はどこにいたんだ…?他のよりも状態がいいんだが…」

そんな中、山入に入ってすぐの場所で、白衣とは言いにくい血で赤く染まった衣を身に纏った尾崎と言う医者が、とある二つの死体を持ってきた村人に尋ねていた。

……自分の職場にいた男の息子と、職場の部下であった女性の死体について。

「あぁ、あそこを少し行った先の日陰になっている場所で、この板の状態のまま置かれていましたよ。花みたいなのも添えられていて、まるであたかも見つけて下さいといわんばかりでした」

「…花…?二人は家の中にいなかったのか?」

日陰、花、男の話に違和感を感じた尾崎は、少し怪訝な様子で繰り返し質問を返せば、その様子に少し首を傾げながら村の男は自分が見たままの事を口に出して答えた。

「はい。外に出されてました。誰かが杭だけぶっ刺してそのままにしていったのかと思ったんですけど…。そう言われて見れば変ですね。今まで見てきた奴らの死体なんかより綺麗な状態だし、花まで置いてあったのも何だか不思議な話ですよね」

「…そうか…」

尾崎は、きっと彼がしたのだろうと一人心の中で呟いた。
自分の職場にいた男の息子の交友関係まで知っている訳ではなかったが、年齢は違えど二人は親しい間柄だったのだろうと思えた。
何より、この二人を苦しませずに抵抗させずに綺麗な状態のままトドメを刺すことが出来るのは限られた人間しかいないからだった。
山入りの場所を自分たちよりも早く知り、そしてあの道が封鎖された場所を意図も容易く行けた人物。他のどの屍鬼たちの死体よりも綺麗な状態で杭が打たれている。…そして添えられた花。
それを踏まえた上で、人狼である、あの少年しかいないと推理できたのだった。…少年の大事な人だったのだろう。彼は…。ふと、一度だけ彼と少年が戯れていたのを見た事があったと思い出せば、その二人の姿を学生時代の自分と親友だった男に重ね合わせて感傷に浸っていた事も思い出した。

……最後はこの彼の為に、自らの手で下したのだろう。痛くない様に、苦しまない様に…。

…律ちゃんもきっと…彼がやってくれたのだろう…。…せめて、安らかに…律ちゃん…。

自分の部下だった女性の姿に少しだけ目頭を熱くさせれば、男は自分自身の事を振り返った。

…俺は、どうだろうか。どうすべきだろうか…。

少年と同じく親友と呼べる人物が男の中にもいた筈なのに、気づけば相反する側へとなってしまった一人の男の姿が浮かんでは消えていった。
10.12.24-10.12.25.
最後の願い事

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