少年は、今まで一度たりとも人の死について何も感じられなかった。…一人の親友を失うまでは。

その親友の死は、多くの見知らぬ人間の死よりも、重いものだった。けれど、涙は出なかった。心にあるのは喪失感だった。ぽっかりと穴が開いて、そこから空気がヒューヒューと音を立てて漏れている。もしかしたら、少年は彼が死んだことをまだ信じられなかったのかもしれない。

けど、心が空いていた。

振り返れば、返してくれるあの柔らかな笑みはもう無く、居心地のよかったあの部屋は、主を失い、寂しそうに思えた。変わらない部屋。彼が愛したゲームは、そのままおかれ、彼が深い眠りについた布団はそのままだった。かつてはそこに座り、雑誌を見ていた自分の姿と、ゲームに夢中になっていた友の姿が目に浮かぶ。

セミの甲高い声が終わりを告げて静かになったこの村で、あんなにもその名前を呼ぶなと実力行使で言っても凝りもせずにその名を呼ぶ事をやめる事なかった、自分の忌み嫌う下の名を親しげに呼ぶ、懐かしいあの声が聞こえてこないかと耳を澄ます。

その人物とずっと一緒にいるわけではなかった。気が付けば一緒にいた。一緒にいたからと言って、何かをするわけでもなく、ただ一緒にいた。
心地がよかった。気が付けばそこは、すでに少年のもう一つの居場所だった。自分の家よりも、都会にいた時よりも居心地のいい場所だった。…人だった。

今まで嫌と言う程、人が死ぬのは都会でも当たり前の様にブラウン管を通してニュース等で見てきた筈だった。更には、こっちに越して来てからは同じ村に住む住人だけではなく、自身のクラスメイトであった少女も亡くなった。…それでも、少年は悲しむことは無かった。特に少女に対しては煩わしいのがいなくなり、清々したと言う感情しかなかった。

そう、それは、隣の町で死んだ人。だった。今までは。身近に起きた人の死でさえ、所詮、そこまで関わっていなければ、隣の町で死んだ人の様な感覚に陥る物だった。近い様で遠い。関係がある様で、関係が無い。そんな感覚だった。

――今までは、そうだった。

少年は、眩しい太陽光を手の影で遮りながら、空を見上げてふと思う。何故、彼はこんな自分と一緒にいてくれたのだろうかと。自分が面白みのある人間ではない事は、重々に分かっていたつもりだった。

それでも、彼は笑顔でいつも傍にいてくれたのだ。人によってはどうでもいい事かもしれない。友情と言うのはそういう物だ。友達になろうと口に出さずとも、気づかぬうちにそう言うものになっている。案外、彼にとって、少年と一緒にいる事に対してこれと言って深い意味はなかったかもしれない。
けれど、誰からも好かれていた彼が、仏頂面と言ってもいい程の無愛想な自分に対して笑顔のまま、一緒にいる事を選んだのか、どうしても少年は気になっていた。

…こんな事ならば、聞いておけばよかった…と、少年は悔いた。そして、こんな早くに別れが待ち構えていたのを知っていれば、もっと彼に何か出来たかもしれないと、多くの人が思う事を少年も思った。

だが、もしもう一度会えるならば…。とは一度も思わなかった。それは叶わぬ願いなのを齢15にして悟っていたからだった。ありもしない希望に縋るつもりはなく、相手がいなくなってしまった以上、この言葉は自分が死ぬまで心の奥底に封印するしかないと思ったのだった。

太陽のまぶしさにつられて瞼を深く閉じてみる。そうすれば、彼の太陽の様な笑顔が浮かんでは、すぐに暗闇へと消えいった。


――こんな俺でも、徹ちゃんに何か出来ただろうか。

彼を失って1日1日と日経つにつれ、自身の胸がどんどん締め付けられる様な感覚に陥り始めた。それはとても、苦しく、身動きを少しすりだけでもつらい物だった。

その胸の痛みから、ようやくその一人の人物が自分にとってかけがえの無い、代替えのない人物だった事を思い知らされたのだった。あの笑顔、あの声、すべてがもう幻になってしまった現実。

けれど、やはり何故か涙は出なかった。

心のどこかで、もしかしたら、友がひょっこりと出てくるかもしれないと少年の心の奥で、期待していたのかもしれない。
友とは毎日会っていたわけではなかった。テスト期間中等は少年は自分の家で勉学に励んでいたのもあったが、それ以外に互いの学年が違う為、校内であまり会う事もなかった。

よくよく考えてみれば、会わない事の方が多かったかもしれない…。だからこそ、それの延長線上に今居るだけなのだと、自分の心が勝手に指令を出して、この別れから目を背けさせていたのかもしれなかった。

けど、もう会えないことも分かっていた。今まで一緒にいてくれて有難うなんて自分らしくない事を少年が口に出して言えるわけはなかったが、せめて、彼が望んでいたことを叶えてあげられなかった事が、今でも少年の心に重く圧し掛かっていた。

――なぁ。徹ちゃん、何でこんな俺と一緒にいてくれたんだよ。

校内で見かけた彼は、確かに多くの人に囲まれ、交友関係に不自由はなかった筈だった。それでも、遠くで見つめていれば、人ごみの中でもすぐさま気づき、"どうしたよ、夏野"…と、笑顔で少年の元へと足早に駆けてきていた。

そんな彼の様子に、少年は、あんなにも彼と仲良くしたい人達がいる中で、何故自分と一緒にいる事を選んだのか、彼の気持ちがまったくもってわからなかった。

…いつかは、分かるだろうか。いつかは、彼のその優しさに答える事が出来るだろうか。…と、少年なりに、努力し始めていた矢先だった。運命とは何と残酷か。結局それすらも出来ぬまま、別れが来てしまうとは。

そう、普通ならばそこで、永遠の、別れだった。…筈だった。

少年は、思いもしなかっただろう。
心の奥底に封印していた言葉をあの友人に伝える機会が再び訪れる事となるとは。彼の願いを彼が死してから、少年が叶える事になるとは。

そして、少年が倒すべき敵が、あの親しかった少年の友人であった彼の姿をしていなければ、ここまで躊躇うことはなかっただろう。その者の手によって少年が命を奪われる事はなかっただろう。少年自身が、人間ではない得体の知れない者になる事はなかっただろう…。

それでも、少年は、横たわる友に手を差し伸べ、封印していた筈のあの言葉をつらい面もちで、口に出したのだった。

"何で、何で…っ、俺なんかと一緒にいたんだよ…っ。徹ちゃん…っ!"

一緒にいなければ、自分が苦しい思いをせずに済んだ筈だった。彼が死んでも何も思わなかった筈だった。それどころか、死んだ筈の徹が自分の部屋に来たとしても招かなかっただろう。その扉を開け、その名を呼びながら必死に夜道の中を追いかける事なんてしなかったに違いない。…むしろ、この手で彼の命を奪う決意を固める事も無く、躊躇無くその心臓に杭を打っただろう。…そして徹もまた、夏野を守って再び命を落とす事にはならなかっただろう。

一緒にいて、情に触れてしまったが為に、心が、その手が震える。

そんな少年に、彼は弱りきった表情を浮かべながら、言葉を少しずつ、少しずつ、口に出した。

"…夏野のさ、…満面の笑顔が見たかったんだ…"

彼もまた、自身の命が潰えてから、この言葉を親友に告げる事になるとは思っていなかっただろう。前だったならば、一生言う事がなかったその言葉を、丁寧に、ゆっくりと、涙が今にでも零れ落ちそうな親友に告げる。

"……お前、いっつも人生つまらなそーな顔してただろ…?…だから、笑顔にさせてみたかったんだよ…。"

そんな理由で…?少年は予想だにしていなかったその返答に、驚いた。自分の笑顔が見たいから一緒にいてくれたその事実に、胸が熱くなる。

"…それにさ…俺がお前の横でずっと笑っていたら、いつか笑ってくれるんじゃないかって思って……"

馬鹿じゃないのか!本当に、馬鹿じゃないか…っ!何度も、何度も、少年は、その言葉を繰り返した。言葉と共に、どんな時でも笑顔を向けてくれていた友の顔が浮かんでは消えていく。
彼のあの笑顔は、自分の為だけに存在していた事に、気づけなかった自分を心底恨んだ。そして、そんな事の為だけに、自分に対して笑顔を振りまいていた彼に、少年は一つ、大粒の涙を零した。

…本当に、馬鹿だよ、徹ちゃん…。

「なぁ、徹ちゃん…、俺、ちゃんと笑えているか…?」

友の瞳に、涙を溢れさせながらも満面の笑顔の自分の顔が映る。

「笑えているか…?」

何度問いかけてみても、少年の涙が自身の頬に落ちても、光を失ったその瞳は一瞬たりとも揺るぐ事もなく、当に物を映し出す鏡と言う役割でしかなくなっていた。

「答えてくれよ…徹ちゃん…っ」

少年は、あえて聞かなくとも笑顔が出来ている事は分かっていた。それでも、聞きたかった。友の口から。

"そうそれ、その笑顔が見たかったんよ、夏野"

そう言いながら、ピストルを突き立てる様な手で、人を指しながら笑ってくれる筈だった。…けれど、どんなに待っても、その言葉は、虫の音さえ聞こえなくなったこの静かな夜でも、どんなに耳を澄ませても聞こえてくる事はなかった。

「…っ…答えてくれよ…っ!徹ちゃ…っ!」

葬式の時には、一滴たりとも零れ落ちる事がなかった涙はこれでもかと言う位に零れ落ち、ようやく今になって友の死と言うものを実感できたのだった。

初めて触れた、大切だった人の死。それは、とてもとても、思ったよりも重かった。彼らを殺すと決めた日から、彼もまた自分の手で殺す覚悟は出来ていた。けれど、自分を庇って死ぬなんて、彼らしいと思えた。死して、得体の知れない者になっても尚、彼は、彼のままだった。

涙を流しながら、大切な親友でもある夏野の血と命を奪った優しき吸血鬼は、彼の命を守った事により、生前の優しい武藤徹に戻れたのだった。

「…徹ちゃん…っ」

自分の半身がうばれた感覚。今までそんな感じがなかったのは、きっと、どんな存在になっていたとしても、徹が生きていたからだろう。けれど、もう、その徹はいない。
今目の前にあるのは、ただの器。徹だった物。そこに中身が無ければ、意味が無い。その器に惹かれたわけではない。その内面に潜む優しさに惹かれて、そして、彼の全てを好きになったのだ。

中身が無ければ、意味が無い。

人が涙を流すのは、その人の事を思って泣くのではなく、可哀想な自分を思って涙を流すと誰かが言っていた事を思い出しながら、夏野は可哀想な自分にさせる程の唯一無二の存在になっていた大切な友の亡骸を強く抱きしめて、その頬、鼻筋、唇に大粒の涙を降らせ続けた。



やがて、多くの悲しみと屍達の血が滲みこんだその大地に、小鳥の囀りと共に、光が少しずつ差し込めば、この村にもようやく火葬と言う最後の儀式が始まりを告げた。火で燃やすのは、きっと、亡くなった者に対する自分達のしがらみを清算させる為に必要なのだろう。綺麗な死体。目をつぶっているだけの綺麗な体。そんなのを目にして、人は本当にその者にきちんと別れを告げる事が出来るのだろうか。実はただ眠っているだけで、もう少しすれば目を覚ますかもしれない、そんな考えが、残された遺族達の頭の中によぎってもそうおかしくなかった。

瞳孔の開いた徹のその瞼を優しく指先で閉じれば、眠っている様に見え、それはどことなく、安らかに眠っている様に見えた。
それは、彼が生きる屍として戻ってきた時には一度たりとも見せた事のなかった笑みを浮かべている様にも見え、生前の、そう、あの大切な親友に対して向けられる優しい優しい、彼の笑顔だった。

「…俺も、すぐ行くから…」

強く抱きしめられたその体は、日の光によって少しずつ、少しずつ、侵食されていく。周りに散乱とする中身を失った物達は当に黒く変わり果て、すでに遅すぎた火葬を終えていた。
そして、少年も今は亡き友の傍らで自身の命を絶てば、悲しい悲しい物語がようやく終わりを告げたのだった…。



大量の黒い物の中心に寄り添う、その2つの死体は、のちにその小さな村で起きた出来事にしては雑誌や新聞、テレビ等に、大きく取り上げられた。発見された死体の一つは、とても綺麗な状態だった。もう一つは、周りの黒い物までとはいかないが、黒く、黒く、焼け焦げてしまい、顔が判断できるものではなかった。…けれども、その光景は残酷な物ではなく、何か神聖な物に感じれたと、数少ない生存者の一人、尾崎と名乗る男は語った。

そして、その事件をきっかけに、瞬く間に、その村の名前は知れ渡り、多くのオカルトマニア達が、自身の欲望のままにその地を踏み荒らした。
太陽が昇っている時間にも関わらず、出歩く人がほとんど見当たらない、蜘蛛の巣がはったままの荒れ果てた空き家も多く見られる静まり返った村。今も尚、壊れたままの無数の地蔵達。閉散した村には不釣り似合いなその存在を誇示し続ける洋館。雨で拭っても落ちない大きな黒い染みの数々が散らばる、木々の生い茂るとある一角。今も残る埋葬の手法が土葬の村。何故か掘り起こされてしまった墓だったと思われる、人一人分の長方形型の深い、穴。

…そのどれもが、彼ら達を喜ばし、あらぬ考えを巡りに巡らせた。他人事だから言える言葉の数々が宙を舞い、テレビでも、新聞でも、人々の口からも熱く討論された。

所詮、村の外部の者からすれば、隣の町で死んだ人だった。その地に足を踏み入れ様とも、死者を弔う事をしたとしても、時が流れば、どんなにも惨たらしかった事件さえもやがては風化され、その事件に巻き込まれた可哀想な村人達の物語も、…二人の悲しい物語も、人々の記憶から忘れ去られていったのだった。


――――いや、これは悲しい物語ではなかったのかもしれない。
確かに、悲しい事件だった。惨たらしい事件だった。疫病がはやり、年寄りから幼き子供まで瞬く間に多くの人が亡くなったと聞かされた周りの人々は口々にその一言で締めくくるだろう。

それでも最後は、人間でいる事を選んだ二人の少年の事まで、その言葉一つで片付けられない様にと願ってやまない。
10.07.27-10.07.31.
参考「隣の町で死んだ人」
彼らの終焉

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