「おぅ、夏野」

中学3年生ながら推薦合格により、高校受験をすでに終えていた夏野は、今日も親友である男の家へと訪れていた。親友と言っても、同じ学校所か、同じ年でもなく、昔からの付き合いのある幼馴染でもない、ほんの何ヶ月か前に親しくなった2コ上の男なのだが、親友と言ってもいい程、仲がよかった。

何より、あの人を寄せ付けるのを極端に嫌う夏野が唯一心を許した人間であり、語尾を若干延ばす事によって受ける間の抜けた口調、歯に物を着せぬ言い方、年上にも拘らず夏野よりも子供じみた、よく言えば人懐こい言動。…かと言ってその言動の一つ一つが夏野にとってはそこまで煩わしいものではなく、頻繁に繰り返される彼のスキンシップに対してさえ、人に触れられるのを極度に嫌がる夏野がそこまで不快に思わない程の、稀有な人物だった。更には、後2ヶ月もすれば、その男と同じ高校に進学するのが決まっていて、今まで同じ学校ではなかったのが不思議な位、むしろもっと前からずっと一緒にいたのではないかと思えるくらい、自他ともに認める親しい間柄となっていた。

「だから、名前を呼ぶなって言っているだろ…徹ちゃん」

「お、何だ今日はヤケに機嫌が悪いなー、夏野ー」

徹は、相変わらず、ゲームのコントローラー片手に、夏野を笑顔で出迎えた。よく見れば、徹の横には封を切られた透明フィルムに入った手作りチョコらしき物がある。徹の指の先にも同様に、銀色のフィルムに包まれた、小さなカップ状のチョコが有り、カラフルなチョコレートと銀色の小さな球体によって彩を添えられていた。

…チョコ、もらったのか…。

少しばかり胸に痛みを覚えつつ、そこに視線を向けていれば、突然口の中に何かを押し込められた。

「んぐ…」

「そうそう、これ、葵から俺とお前にって」

「…急に口の中に突っ込むなよ…。」

どうやら、丁度今、自分が持っていた物を口の中に突っ込んで来たのがわかった。視線を下にずらせば、中身を失った銀カップが畳の上に寂しそうに転がっている。

「…葵からって?」

「そ、一緒に食べてだってさ。もっと食うかー?夏野」

「いや、もういい」

徹の妹からの贈り物だと分かれば、夏野はホッと胸を撫で下ろした。胸の痛みも徐々に引いていくのが分かる。

「うまいだろぉ」

大きく口を開けながら満面の笑みを夏野に向け、徹は自身の体温の熱によって少しばかり溶けたチョコの残片が付いているのを発見したかと思えば、何の気なしに、舌で自分の指をペロリと舐め取った。

「な…ッ!」

その流れがあまりに自然で、夏野は思わず口に入ったチョコと共に声を出しそうになった。

…なに、人の口に付いた指を舐めてんだよ…っ!徹ちゃん!

だが、何故か言葉が詰まって、言い出す事が出来ない。

「どうしたんだ?夏野」

そんな夏野の様子に、徹は不思議そうな顔で見てくる。徹が今しがたしたその行為が俗に言う、間接〜と言う物なのだが、徹は普段から夏野が口を付けた缶を気兼ねなく自身の口に含む所か、夏野の食いかけさえも食べたりする為、たった今、自身が無意識に起こした行動が何を意味するのか分かっていない様だった。…かと言って、人の唇に触れた指を舐めるのは、さすがに有りえないと思うが…。

「…い、いや」

徹の予期せぬ行動に少しばかり心臓を高めながら、夏野はいてもたってもいられずに、視線を下に移して見れば、そこには学校の時に夏野がゴミ箱へと投げ捨てた物についていた同じ様な小さなメッセージカードが一つ、畳の上で広げられているのが目に入った。人の物を盗み見するのはよくないと思ったが、パッと目に入った瞬間、どうやら自分と徹に向けられた物だった事が分かり、そのまま視線をそらす事無く、心の中で読み上げてみる。

゙おにーちゃんと夏っちゃんへ!お返しは3倍返しだからね! 葵より。゙

そこに記されていたのは、なんとも彼女らしい言葉で書かれた内容だった。それを確認すれば、夏野は口に入ったままのチョコレートを吐き出すことはせずに、何回か噛み砕いた後、完全に溶ける前に、ごくりと飲み込んだ。

…あまい。

じわりとチョコ特有の甘さが口の中に粘り着く。

いきなり徹の手によって突っ込まされたのもあるが、夏野が口の中に入れたのは、今日自分がゴミ箱へと捨てた物と同じ種類の物。だが、これは違っていた。彼女は顔見知り。徹の妹。知らない人間ではない。だからだろうか、普段なら無理やり口に突っ込まれても吐き出すところが、抵抗無く自分の胃の中へと流し込めたのだ。それは、きっと目の前にいる人物が大きく影響していたのだろう。…何より、彼の手から食べさせてもらったものを夏野が吐き出す訳にはいかなかった。

自身の唇に微かに触れた徹の指先の感触が、夏野の中を支配していく。

……?あれ…。

夏野にチョコを食べさせる事が成功出来て、気をよくしたらしく、チョコを美味しそうにほうばりながら再びゲームのコントローラーをカチカチを動かしている徹の近くに、先ほどのチョコよりも丁寧にラッピングされた箱の山が、夏野の視界に入った。それは、自分のロッカーや机の中等に置かれていた物と似た様なラッピングが施された箱、達。

その箱の中に何が入っているのか夏野は分かっていたが、徹に聞かない訳にはいかなかった。

「徹ちゃん、そこにあるのは何」

「んあ?あぁ、これか。学校で貰った奴。食うかー?」

「いらない。てか、受け取ったのか」

「全部義理だけどなー、なははは」

「…」

夏野は、その箱を一つ手に取ってみれば、徹が貰ったままそれ以降手をつけていないのが分かった。何より、その箱に挟まった花柄模様の小さなメッセージカードに書かれていた内容を見れば、そんな事は言わなかったに違いない。

夏野と違って、徹は優しかった。その優しさは、あまり人と一緒にいるのを好まない夏野さえも魅了し、あの正雄さえも懐く程で、その優しさを自分に対して向けられてしまえば、つい勘違いしてしまう子が多数いるんじゃないかと思うくらい、優しく気が利く人物だった。

だからこその、この箱の数。義理だらけかもしれないが、本命もまだ幾らか混じっているのだろう。…そう思ったら、ふいに夏野は、そのメッセージカードをくしゃりと握りつぶした。

そして、徹が貰った物を次々と開けひろげ、目の前に映るそのチョコの数々を夏野は躊躇いもなく、勢いよく自身の口の中に放り込み始めたのだった。

「うまいかー?」

「まずい」

「お前なぁー」

夏野の一言に呆れ声を出しながらも、自分のを食われていると言うのにも関わらず徹は笑顔のままで、手を休める事なく、ゲームを進めている。自分が貰った物を横で思いっきり食べられていると言うのにも関わらず、味の有無だけ聞いてそれ以上は突っ込んでこない所を見ると、そこらへんの男性陣と比べて、あまりこう言ったイベントに対して、執着がないらしいのが見て取れた。現に、他にもチョコはあったと言うのに、それはそのまま放っといて、妹のチョコだけを口に含んでいる以上、あまり興味がないのかもしれない。

そんな徹の事をお構いなしに一粒摘まんでは口に入れを繰り返していれば、どれもが様々な形をしていようとも、結局口の中に入ってしまうと、どれもが同じ味へと変化し、チョコ特有のねっとりとした感触と甘さに次第に胸焼けがし始めた。更には、これ以上甘いものを摂取したくないと体が拒否反応を起こしたらしく、食道の部分がきゅっと閉まった気さえし、飲み込む事自体が困難になり始める。

それでも夏野は、手を止める事なく、そのチョコを一つ、一つ、機械の様に、一定のリズムを刻みながら、すでに満席の自分の口に含んでいくが、結局うまく飲む込むことが出来ず、黙々と口の中へとチョコが溜まって行く所為で、頬がだんだんと膨らんできた。

そんな様子に気づいた徹は、夏野の今の姿にぷっと息を零した。

「夏野、お前今シマリスみたいになってるぞぉ」

じろりとにらみ返されるが、その夏野の姿にはさすがに徹も突っ込みをせずにはいられない。

゙夏野ってそんなにチョコが好きだったか?゙

…と、徹は率直な疑問を声に出すが、その前に夏野自身がチョコを貰っていない事が気になった。

「そもそも、お前こそチョコどうしたよ、夏野の事だからいくつかは貰ったんだろ?」

徹の頭に一人、確実に夏野にチョコを渡すであろうピンク色のツインテールの少女が脳裏に浮かぶ。義理ではない、本命チョコを夏野に渡す少女の姿が。その少女が夏野に対して、この日をチャンスとばかりにチョコを渡さない訳がないと、徹は知っていた。

その言葉に、夏野は一瞬視線を下に動かし、思わず手を止めれば、一度口の中に入ったままの固体ではなくなったチョコをごくりと飲み込んだ。

「…全部捨てた」

「捨てたって…そか」

徹は、誰もが一度は言うであろう、それは酷くないか?とは言わなかった。むしろ、

"夏野らしいな"

と、笑みを零した。その"らしいな"と言う言葉の単語に引っ掛かりを覚えた夏野は、少し苛立ちながら返答の言葉を口に出した。

「…俺は、徹ちゃんみたいに優しくないからな」

そう言いながら、また一口と、限界はとうに来ている筈なのに、再び徹のチョコを食べ始める。出来る事ならば、吐き出してしまいたい位だったが、夏野はそれでも口に運んだ。

「そうか?夏野は、優しいと思うけどな」

思っていなかった徹の返答に、夏野の手が再び止まった。今度はチョコを口に入れる手前で。

…優しい?俺が?

自分にチョコをくれたであろう相手の目の前で、ゴミ箱に突っ込んだ自分を優しいと言う男に夏野は心の中で首を傾げた。

…酷いの間違いじゃないのか?

「なんで俺が…てか名前を呼ぶなって…」

「相手に少しでも期待を持たせる事無く、バッサリと切るって言うのは夏野なりの優しさだと俺は思うよ」

…俺なりの優しさ?

そんな事誰かに言われたのが初めてだった所為か、夏野の瞳は驚きとばかりに少しばかり真開いた。

……違う、俺は優しくなんかない…。期待を持たせるとか、持たせないとか、そんなつもりはない。むしろ、関わりたくはないだけだ。優しいとかそんなんじゃない。

「…面倒臭いだけだ」

「そかー?そこまで手酷くしてくれれば、ハッキリ脈がないのが分かって次に行きやすいから、いいと思うけどな」

「…」

「逆に、好きでもないのに、変に情けを掛けると、互いの為にはならないだろ」

自分が優しいと言う点は腑に落ちなかったが、夏野は、徹の最後の言葉に、

"確かに"

…と、自身の心の中で呟いた。少しばかり、視線を下に落とせば、自身の手によって散らかされたチョコレートの残骸が眼に映る。

「夏野、口元にチョコついてるぞ」

その言葉に、思わずチョコが付いているらしき口元目掛けて手で拭えば、苦笑の声が近くで聞こえてきた。

「夏野よ、何の為のティッシュ箱だ。今度は手についたぞ」

「うるさいな、いいんだよ。」

そう言いながらも、持っていたチョコを口に放り入れ、近くにあったティッシュを一枚抜き取った。甘い匂いのする自分の手をゴシゴシと擦り、ゴミ箱へと投げ捨てれば、まだ残るチョコレートの入った箱達に悔しそうな表情で見つめるが、とうとう体に限界に来た為に、一休みしようと、机の上にあった雑誌を一つ掴んだ。

…気持ち悪い。

暫くチョコレートの姿どころか名前さえ聞きたくないなと思いながら、そのまま自分の定位置である徹のベットへと腰掛けた。本当は全部食べてしまいたかったが、吐き気がこみ上げてしまい、そうもいかなかった。

…少し、気分を紛らわせよう。

食べるだけ食べ散らかした後、ふらふらと、ベッドへと向かう夏野の後ろ姿を徹はクスリと笑った。
とける溶かす

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