それはある日の事だった。
茹だる様な暑い日々が続いていて、今日も変わらずとある家へと遊びに来ていた。
いつのも様にベットの上が俺の定位置で、そしてこのベットの主は新しく出たゲームに勤しんでいた。
それは変わらない日だった。何も変わることが無い筈だった。
……この日までは。
「なぁ、夏野よ」
「…何?」
声を掛けられて雑誌から目を離せば、目の前には真剣な面持ちで正座をしている徹ちゃんの姿。ゲームはいつのまにか放り出され、スタートボタンさえ押されなかったせいか音だけが響いている。
あんなにもゲームが大好きな徹ちゃんがそれをやめてまで珍しい位に真剣な顔つきで俺を見てくるので何事かと思えば、徹ちゃんはおもむろに口を開いた。
「キスってした事あるか」
は?きす…?キスって…。
「ぶっ!……いきなり何だよ、徹ちゃん」
「都会の人間は進んでいると聞いたことがあるんだが、どうなんだ」
いや、どうなんだって言われても…。
「しらねーよ…」
「はぁ〜…やっぱり、した事無いといざって言う時やばいよなぁ」
肩をこれでもかと言う位にうな垂れさせるその様子に、ふと疑問がわいた。
「え、もしかして…まだしていないのか?」
「うーん、まだそういう雰囲気にならないと言うか、上手くもっていけないというかだな…」
どうやら図星だったらしく、徹ちゃんの言葉が濁る。
この所、何とか粘りに粘って看護婦さんと付き合い始めた徹ちゃんは、何度目かのドライブデートをしていた。
…けど、まだそれだけだったらしい。…それだけ…。
「ぷっ」
「あ、笑ったな!夏野!」
「悪い、だって」
徹ちゃんらしいと言うか、予想を裏切らないというか、徹ちゃんには悪いが想像できてしまって笑ってしまう。
そうか、キスしていないのか。
……よかった。
「夏野はしたことあるのかよ」
「え、俺?俺はー…」
した事ないに決まっている、それに、そんな事誰かとするなんて想像するだけで吐き気がする。
少しばかり口先を尖らせている薄っすらとしたその唇に目をやる。
……俺はこの唇以外にしたいとは思わない。
けど、もう違う人の物。…いや、分かってはいた。俺達は男なんだから、それ位。徹ちゃんから俺に向けられる感情は友情以外の何ものでもないくらい。
「案外、夏野もなさそうだよな」
悪かったな。そういうのは今まで興味が無かったんだよ。
満面の笑みで同意を求めてくる男に少しばかりいらつきを覚えた。…人の気持ちも知らないで。
……少し、意地悪をしてみるのもいいか。
「…あるよ」
「え、本当かー!」
当たり前だが嫉妬されない。
むしろこれでもかと言う位に目を煌かせているのが見て取れ、胸が痛む。
自分自身の事、本当にそういう風に見られてないのが分かる度、なんとも言えない気持ちになる。
…徹ちゃんにとって俺はただの友達。それ以上は決してない…。
「なんなら、俺と練習してみるか?徹ちゃん」
そう思ったら、つい口を滑らせてしまった。
一瞬しまったと思ったが、きっと徹ちゃんは深く考えずに、なーに言ってんだ、夏野!と大きく笑ってくるだろう。
冗談としか思われず、少しでも意識してもらえないのを寂しく思いながら、徹ちゃんの方をちらりと視線を向けてみれば、徹ちゃんはじっと俺の方を見つめていた。
あれ…?
「…?徹ちゃん?」
「んー、いやさ」
「…?」
いつも笑顔しか見せない徹ちゃんが、何故か真剣に俺の顔を見ている。
な、何だ…?
「夏野がいいならお願いしようかな」
「え…」
「よし、んじゃ、今からするか!協力してくれるんだろ?」
「えっ!」
顔がどんどん近づいてくる。あれ、本当に、本気…か…?
後ずさりしようにも背中にはもう壁。
徹ちゃんはにっこりと笑みを浮かべて迫ってくるし。…もしかして、俺をからかってる…?
俺が慌てるのを待っているとか…?
…くそ、おちょくられてたまるか!その挑戦、受けてたってやると、その徹ちゃんを受け入れる体勢になる。
冷静でいろ、俺。心臓の音を鎮めるんだ。冷静に冷静に。徹ちゃんやめるなら今だぞ、俺は逃げないからな!
「って、と、徹ちゃん!目!目を閉じるのがマナーだぞ!」
ってか、見すぎだろ!俺の顔をそんなに凝視しないでくれ!
「あ、そっか」
一瞬、間の抜けた様な顔。と言うか、俺の顔を見たまましようとしていたのかよ…。
普通ありえないだろ。…いや、目閉じてても練習とか言ってキスしようとしている時点で、十分ありえないんだが…。
「いや、徹ちゃん…、そっかじゃな…、……っ!」
唇に何かが合さった感触。目の前にはちゃんと目を閉じたままの徹ちゃんの顔がこれでもかと言う位に近い。
今までこんな至近距離で見た事がない位近い。…いや、当たり前か…。だって、今俺達の間にあるのは何も無いのだから。
――――徹ちゃんに、本当に…キス、された。
唇を離され、目を開けてにっこりと微笑んだ徹ちゃんの顔が変わらず間近にあった。
「…思ったより、夏野の唇って柔らかいんだな」
「…!な、な、名前で呼ぶなって言っているだろっ!!」
普段どおりににへらと笑う徹ちゃんに顔を向けることが出来ないまま、俺は近くにあった雑誌を思いっきり投げつけた。
「いてっ!夏野、いきなり雑誌をなげつけるなよ〜!」
「もう寝る!」
「夏野〜」
まだ残る徹ちゃんの唇の感触に、俺はどうする事もできないまま、布団に包まってそのままふて寝をした。
触れられた部分が熱く、心臓が五月蝿い。そして、少しばかり…いや、思った以上の嬉しさがこみ上げた。
理由はどうであれ、徹ちゃんとキスをした。その事がこれ以上になく俺の心を歓喜させる。
「やれやれ」
頭上でクスリと徹ちゃんが笑った気がすれば、やがて聞き覚えのあるゲームの音がやがて聞こえ始め、その音に布団の隙間からバレない様にそろりと覗いてみれば、普段とまったく変わらない徹ちゃんの後ろ姿があった。
さっき俺とキスしたのが嘘だったかの様な……普段と変わらない、ゲームに夢中の徹ちゃんの後ろ姿だ。
……そうだった。
忘れてた。これは練習なんだった。徹ちゃんは俺のことを何とも思っていない。
だから、俺とキスをしても徹ちゃんは何も変わらない。普段どおり。その事実がさらに俺の胸を締め付けた。
10.07.28-10.07.29.
練習と秘密事
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