…何がどうしてこうなった。

結城(小出)夏野は頭を抱えた。
何故ならば、今自分が置かれている状況が状況であったからである。

「ん〜…」

頭のすぐ近くで聞こえる寝息。
いい夢でも見ているのだろうか、気持ちよさそうな聞き覚えのある声が静まり返った部屋に響く。

「と、徹ちゃん…」

夏野は、自分の身動きを封じながら気持ちよさそうに寝息を立てている男に躊躇ながら声を小さく漏らした。
だが、反応はない。

…どうすれば…。

気持ちよさそうに眠っているのを叩き起こせば、この体勢から逃れられるだろう。
だが、こんなにも気持ちよさそうに寝ている人物を叩き起こすほど、夏野は落ちぶれてはいなかった。
普段は、ツンとしていながらも、相手のことを重んじている彼にとって、究極の選択だった。

起こすか、起こすまいか。

緊急時の時ならわかるが、今はそんな時でもない。
何より、昨日ゲームのしすぎで全然眠れなかったんだよなぁと呟いていた本人を前にしては無理だった。
徹の家に泊まりたいと言い出したのも、自分なだけあって、これ以上迷惑かけるのも躊躇われた。
――――そもそも何故、夏野がこんな事になってしまったのかと言うと、事の発端となったのは、夏野が再び、眠れなくなっていたからだった。
本人は眼を閉じて眠ったつもりでも、意識ははっきりしたままの状態で夜を明かしている事が多くなり、少し前、何かの視線を感じ、徹の家に2日程泊まらせてもらった後、また自分の家でも眠れる様になった筈が、今度は、別の意味で眠れなくなってしまったのだった。

…あの部屋じゃなきゃ、うまく眠れない。

自分の部屋よりも居心地のいい部屋。他人の家の布団と、枕。普段使っている枕とは、弾力やら大きさやら勝手が違うのは勿論の事、布団も自分のではない匂い。…それなのに、夏野にとっては極上の安眠場になってしまっていた。
あの場所が夏野にとってこれ以上にない位、居心地がいいのは夏野自身も分かっていた筈だった。…だが、布団にまで居心地を感じてしまったら駄目だろうと自分を何とか制するが、それでも欲求は止まらず、眠り方を忘れてしまったかの様な寝起きの悪さや、きちんと休息を取れなかった所為で体にも疲れがたまっていき、とうとう、限界に来た夏野は、安眠処の主である武藤徹に、また泊まってもいいかと躊躇いがちに聞いてみたのだった。

"いいよ。むしろいつでも寝られる様に、お前の歯ミガキセットを俺とお揃いで用意済みだぞ!"

…と、徹の満面の笑顔と歯に物を着せぬ言い方に甘えさせてもらい、夕食の時間が過ぎた時刻に再び徹の家へと寝る為だけに訪れた。

そんな夏野を待ち受けていたのは、徹の言った通り、彼のと色違いなだけのお揃いのコップと歯磨きが一つずつ。よく見てみれば、何故ひらがなで、"なつの"と徹の字らしき筆跡でご丁寧に油性ペンで書かれている。

徹らしいおちゃめな悪戯に近い厚意に、夏野はため息まじりに、一応ツッコミを入れながらも、普段と変わりなく、徹はゲーム、夏野は雑誌と、少しの間共に時間を過ごせば、久方ぶりのあの居心地のいい寝床での就寝に付こうと準備をし始めた。…ここまでは、何も起こる事なく、うまく行っていた筈だった。

問題は次の瞬間だった。

夏野がいざ寝ようとした時、夏野よりもすぐに寝に入った徹が発した唸る様な寝言がいけなかった。
いや、その声につられて、少しばかり眼をさましてしまい、何事かと徹の方へと心配の気持ちを含みながら体を乗り出したのがいけなかったのか。
それとも、そのまま自分の布団に戻らず、徹の寝言だと分かった後でも、気持ちよさそうに眠るその寝顔を見入ってしまったのがいけなかったのだろうか。

ふと、徹が自分を見下ろす何かの視線に気づいたらしく、眼をうっすらと開けたかと思えば、自分のすぐ傍で夏野が驚いた顔をしているのを見て、寝ぼけ眼のまま徹はおもむろに口を開いたのだった。

「眠れないのか?」

「え、あ…いや…」

徹のその言葉に、夏野は思わず言葉を濁す。

゙徹ちゃんの寝顔を見てただけだから゙

…とは、本人前にしなくとも口に出して言える訳がなく、夏野は妙に後ろめたさを感じていれば、その様子にくすりと徹が笑みを零し、自身の体に掛けられた布団をどかした。

「おいで、おいで」

ゆっくり。ゆっくり。それはまるで蝶が宙を舞うかの様に…、徹は、布団をどかした場所、つまりは、自分の横に来る様にと夏野に対して手招きしを始めたのだった。

「おいでって…、うわぁっ!?」

巧みとも取れる、人を誘う徹の手招きの動きに、夏野はそっちに意識を少しばかり奪われていれば、突如手招きをしていない徹のもう一つの手がにゅっと伸び、そのまま夏野の体を捕まえたかと思えば、そのまま勢いよく、ベッドの上へ引っ張り上げた。
行き成り変わった視界に翻弄され、抵抗も出来ないまま、徹の上へと乗りかかる体勢となってしまった事に気づけば、夏野は慌てふためいた。

「と、徹ちゃん…!!!」

「こうすれば怖くないだろ」

「な!ちょ!離せ…っって!」

胸元にすっぽりと抱きしめられる様な形を取られ、慌ててこの体勢から逃れ様と夏野は心みるが、素早く自身の腰に回されたその腕を、両手使ってもどかす事が出来ず、腰に回された徹の暖かい腕がじわりじわりと、冷え切っていた夏野自身の体に侵食していくのを夏野は自分の意思とは関係なく許してしまう。
むしろ、抵抗をしようとすればする度に、絶対に離すものかと言わんばかりに、夏野を抱きしめている徹の腕の力が少しずつ強くなっていく。

…くそ…何て力なんだよ…!

「徹ちゃっ…!」

力の差は歴然としているにも関わらず、未だに抵抗をしている夏野を尻目に、徹は相変わらず間の抜けた言い方で何かの言葉を口に出したのだった。

「怖いの怖いの飛んでけ〜」

…それは、親が泣きわめく幼き我が子によく使う呪文の言葉。
本当ならば、痛いの痛いの〜だが、何故か徹の口から出たのは、怖いの怖いの〜飛んでいけ〜。
それは少し前、何かの視線で、自分の家では眠る事が出来なかった夏野に対する徹なりの慰めの言葉なのだろうかと、ふいに考えが過ぎる。

「って、俺は子供じゃないぞ…っ!」

…それは小さい子を慰めるのに使う言葉だろうっ!俺は子供じゃない!

どちらにせよ、馬鹿にされた感が否めない夏野は思わず怒りを露にし、自分の腰に回されたままの腕に爪を立てる勢いでどかそうとすれば、徹が次に言った言葉にその動きを止めるしかなかった。

「これで大丈夫だぞ〜保〜葵〜」

保。葵。少し間の抜けた口調で口に出したのは、徹の一個下の妹弟達の名前だった。

「…は?た、保ちゃんと葵?」

「ん〜…」

「と、徹ちゃん…?」

…もしかして、今までのは全部寝事だったって言うのか…?

その考えは当たっていたらしく、恐る恐る徹のほうへと顔を向けてみれば、笑顔のまま瞼を閉じ、気持ちよさそうに寝息を立てている徹の姿。

…じゃぁ、今までのは全部、寝ぼけてたって言うのかよ…!

寝ぼけている相手に対して危うく怪我を負わす所だった夏野は、その前に気づいてよかったと安堵を漏らした。…だが、それが逆に、自分の行動範囲を狭め、これ以上寝ている相手に対して、手も足も出なくなってしまったまま、今現在に至ったのだった。


くそ…どうすれば…。

夏野は、悩んだ。徹を、起こすべきか、起こさないべきか。
その二つの選択肢がぐるぐる頭の中で回っては夏野を苦しめる。
出来る事ならば相手の快眠を妨害せずにこの拘束を抜けられたら一番いいのだが、そうもうまくいかない所か、徹は、抱き枕か何かの様に夏野にしがみ付いて夏野を離す気配は無い。

そして、もう一つ問題があった。徹を起こしたら起こしたで、この体勢を見られるのは夏野にとってさすがに恥ずかしいものだったのだ。かと言って、少しでも徹の手の力が緩んでくれる事を願おうとすれば、幼き日に親に抱きしめられた以降、この年になるまでこんな風に人に抱きつかれる事がなかった夏野は、この体勢に落ち着ける訳もない。

「う…、徹ちゃんの、が…」

…さらには、徹の大きくなった一部が、自分の体に触れている事にまで気づいてしまい、朝勃ち成らぬ夜勃ちに、同じ同性であっても夏野は思わず頬を赤らめた。

…こんな事になるなら、徹ちゃんの寝顔なんか見ていないで、素直に寝ておけばよかった。

夏野は、深いため息を漏らした。
そんな夏野の悩みを知らない未だに夢の中の徹は、再び寝言を口に出した。
今度は何故か自慢げに。

「皆で寝れば怖くなぁ〜い!」

「だから、何の夢みてんだよ…徹ちゃん…」

徹の間の抜けた言い方と言いように、思わず夏野も気の抜けたツッコミが入る。
その夢のせいでこんな事態に陥っているのかと思うと、夏野は段々と徹が今見ているその夢に対して恨みを覚え始めた。

「はぁ…、徹ちゃんが起きたら、何の夢見てたか聞き出してやる…くそ…夢のせいで…」

しかも、さっきから鼻で息を吸う度にいい匂いがして、夏野の視界が少しずつぼやけていくのを夏野自身は薄々気づいていた。
さらには、寝不足気味なのもある所為か、段々と自分の体の力も抜け落ち、徹の胸元に大人しく顔を埋め、今の体勢を不本意ながら受け入れている形になってしまっていた。

…このままじゃ…やばい…。

「と、徹ちゃ…」

「んぁ〜大丈夫だって、お前達が寝るまでにーちゃんが起きてて、怖いのからお前達を守ってやっからな〜…」

「…は…?これって…」

徹の寝言から出された、お前達が寝るまで起きている。保。葵。怖いのから〜…その内容に、夏野は思わず首を傾げた。
今現在、徹も保も葵も夏野より年上で高校生。互いに個別の部屋があり、その年になってしまえば、もう一緒に寝る事などほぼ無いに等しかった。
それを踏まえた上で、徹の言葉の数々を思い起こしてみれば、どうやら徹は自分達兄弟が幼かった頃の夢を見ているらしかった。
現に、夏野の頭に手をそっと添えたかと思えば、そのまま優しく優しく撫で始め、まるで怖い物を見てしまって泣いている子供を、あやすかの様な仕草を夏野に対して繰り返し始めている。

「…大丈夫、大丈夫」

「…」

妹弟達を安心させる為の優しい手つき、優しい声音。
そんな徹の様子に、夏野も次第に抵抗する意思も、その夢に対する恨みも薄れていき、怖いのを思わず見てしまって泣いている弟、保と、妹、葵をあやす、優しい兄である徹の幼き兄弟達の姿が脳裏に浮かべば、夏野は思わず笑みが零れ落ちた。

…いつの頃も、優しい徹ちゃんのままなんだな…。

そう思うと、自身の胸が温かくなっていくのを夏野は感じた。

「んぁ〜正雄、大丈夫だって…」

「…正雄?」

徹の寝言から零れたその名前に、こころもち夏野の声のトーンが低くなる。徹の兄弟愛に触れて胸が温かくなったのが、その一言により、急激に冷めていくのが分かった。
小さい頃から正雄も一緒なのは、正雄の口から嫌と言う程聞かされていたつもりだったが、突如、徹の寝言からその名前を出されるとは露にも思っておらず、何だか釈然としない気持ちになった夏野はふいに徹の顔を覗き込んで見た。

…またさっきと同じ様に、微笑んでいるのだろうか?

そう思いながら見てみれば、さっきよりも眉間に皺を少しばかり寄せて、困っている様な徹の顔があった。

「…ぷ」

その顔に思わず笑い吹き出し、何故かホッと胸を撫で下ろせば、体勢がきついのもあってすぐに夏野は自分の顔を元の位置に戻した。…勿論、徹の胸元に。

…あいつは、昔も、今も、変わらないのか。

あのキーキー五月蝿い声をもっと高い声で喚きちらして、幼き頃の徹や保達に世話を焼かれていたのだろうと、夏野は容易に想像がついた。

…小さい頃の、徹ちゃんか…。

そう思うと、夏野の胸の中で黒いもやみたいなのがふいに渦巻き始めた。
それが、夏野にはよくわからなかったが、何故か、羨ましいと言う感情が胸の中にあるのが分かった。
それは、徹の兄弟でもない、赤の他人でもある正雄が、自分の知らない幼き頃の徹の事を知っていたからだった。

夏野が知っているのは、1年くらい前からの徹の姿しかない。
今の自分よりも身長が低く、年下であった頃の徹の姿は、夏野の記憶には無かった。

…俺が知らない、徹ちゃん、か…。

兄弟である保、葵、そして幼い頃から一生に行動していた正雄が、昔の徹を知っていてるのは当然なのだが、自分だけが知らない徹ちゃんの事…。…そう思うと、夏野はふいに今までに無い寂しさを感じたのだった。

「お前がおねしょした事は皆には黙っとくから、ほら泣くなって、正雄〜」

「ぶ…っ!!」

思わず盛大に吹いたのは仕様がないとして、徹の爆弾発言により寂しいと言う感情が吹き飛んだ夏野は、ふいに気を緩ませた。

…何バカな事を考えてたんだ俺。あいつが徹ちゃんの何を知っていようと、知っていなかろうと、そんなのどうでもいいじゃないか、別に。…過去なんか、どうでもいい。

それよりも、今まで意識しない様にしていた分、気が抜けたと同時に、鼻先にかすむとある匂いに誘発され、とうとう極度の眠気が自分の元に来てしまえば、夏野は欠伸を一つし、急激に来た眠気に抗う事なく、そのまま眠りへと落ちていった。

――――息を深く吸えば、近くに自分の好きな匂いの元がいる。
この部屋の匂い、布団のにおい、それよりももっと好きな匂い。深い眠りへと誘われる前に、自分の体温よりも暖かく、耳元に当てられる心地よい自分のではない徹が生きている証拠でもある心臓の音を子守唄代わりにして、夏野は夢現つに思った。

…そうか、この匂いが俺の部屋には無いから、眠れなかったのか…と。





翌朝。

「あえ、夏野どうした?寝ぼけて寝床間違えたか」

「徹ちゃんが寝ぼけて俺を引きずり込んだんだろ…っ!」

「ほえ?」

だが、そのおかげで夏野が今までに無い程の、快眠が出来たのは言うまでもない。
10.07.21-10.08.06.
快眠に必要な物

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