まほやく | ナノ







 最近ベッドから起き上がるのがしんどい。このままでは身が持たない。

「オーエン。今夜は手加減してほしい、です……」
「無理」
「いや無理じゃなくて、……っ、あっ」

 また失敗した。昨晩もオーエンの気の向くままに抱き潰され、最後は意識を飛ばして朝を迎えた。

 ――恋人同士になっておよそ一ヶ月。
 初めて肌を重ねた夜は、涙が出るほど嬉しかった。オーエンの青白い肌が、焼けるように熱いことがあると知った。ベッドの中でも意地悪な物言いは健在だったけれど、手付きはひどく優しくて、触れられたところから溶けてしまうかと思った。
 口付けの甘さ。髪を梳いてくれる指先。蜜が滴るような目つき。
 全部が愛しいのは本当だ。愛しくて愛しくてたまらない。そこに嘘偽りはひとつもなく、私はオーエンのことが大好きだ。
 だけど。でも。でも。だけど。

(身体がキツい! 無理! 倒れる……!)

 オーエンのセックスはしつこい。激しい。長い。頻繁。容赦がない。

(あんなに細いのに、どれだけ体力があるんだろう……やっぱり男の人なんだよなあ……)

 私だって嫌なわけじゃない。始まってしまうと夢中だ。気持ちよさに溺れてしまう。
 ただ。ただ回数と時間を絞りたいのが正直なところだ。毎度くたくたになって気絶してしまって、朝になれば全裸で抱きしめられたまま、すべての後始末が終わっているのをどうにかしたいし。

(……仕方ない。ちょっと恥ずかしいけど、あれに頼ろう)



「何これ」

 翌晩。それを見下ろし、オーエンは眉間を寄せた。

「YES/NO枕です」

 裏表にそれぞれ『YES』『NO』をこの世界の文字で刺繍した、大きな枕だ。市場で華やかな色味の布や糸を買い求め、ちくちく夜なべしてこしらえた。

「私の世界で、少し昔に流行ったアイテムなんです」
「…………」
「その、したい夜は『YES』の面、したくない夜は『NO』の面を上にしておくんです。そうするとベッドに入る前に、言葉にしなくても色々伝わるでしょう?」

 オーエンは枕を抱え、表裏をくるくると交互に眺めている。

「賢者様の世界の恋人は、情緒豊かなやり取りをするんだね」

 嫌味だ。

「……無粋ですかね?」
「でもおまえはこれがやりたいんでしょ? わざわざ手作りまでして」
「う……まあ、便利かなーって……」

 やはり却下か。私も話に聞いただけのアイテムだったが、角を立てずに意思表示をするのにうってつけだと思ったのだけれど――

「いいよ」
「……へ?」
「はい、どうぞ」

 オーエンはにっこりと微笑んで、恭しい仕草で私に枕を渡してきた。

「今夜はどっち?」
「え、今ですか……?」
「だって折角作ったんだから。すぐに使った方がいいんじゃない?」

 笑顔なのに、形容しがたい圧力を感じる。ぎしり。ベッドが軋む。背筋にすうっと冷たいものが走った。
 ここはオーエンの部屋だ。私もオーエンもパジャマ姿。二人そろってベッドに腰掛け、手を伸ばせば触れられる距離にいる。
 そこでこの枕を、設置しろと。

「……えい」

 それでも、『NO』を選んだ。
 だってこのために睡眠時間を削ってこしらえたのだ。たとえオーエンの視線が突き刺さるようであっても、ここで遠慮するわけにはいかない。

「…………さあ、寝ましょう」

 そう小声で絞り出しながら、恐る恐るオーエンを見やった。彼も枕を見下ろしているから、前髪で表情がわからなかったけれど、

「そうだね」
「……!」

 あっさりと受け入れられた。やった、と思った。
 だけどあんな安堵は、ほんのつかの間。

「へっ」

 ぐるりと視界が回転し、ぼすり。両手首を掴まれ、ベッドに押し倒されたのだと、一瞬遅れて気づく。

「オ、オーエン? 寝ないんですか?」

 拘束を外そうと身じろいでみた。びくともしない。まずいかもしれない。

「寝るよ。ヤッたらね」
「え!? だって今夜はNOですよ!?」
「知らないよ」
「どういうことですか!? ねえオーエ……っ、ひゃあっ」

 素肌にオーエンの片手が触れる。もう片方の手は、ぷちぷちとパジャマのボタンを外していく。

「や、やめ……っ、ねえ、オーエン!」
「あはは、たまにはこういう雰囲気でヤッてみるのも良いかも」
「!?」
「今までつい、どろどろに甘いセックスばかりだったから」

 艶やかな目をすうっと眇めると、オーエンは私の耳元で囁いた。

「おまえに選ばせてあげるよ。NOの夜は乱暴に、YESの夜は優しく抱いてあげる」

 ぴしりと凍りつく私を、オーエンが至近距離で見つめる。掴まれた手首は、今はまだ痛くない。

「どっちがいい?」







 事後。僕の腕の中で、彼女は微かな寝息を立てている。肌に散る鬱血痕を、そっと指先でなぞってみた。

(馬鹿みたい)

 結局あの後、彼女は「ちょっとだけ待ってください」と尻すぼみに呟いて、枕をひっくり返した。『YES』。彼女は恋人然とした甘ったるい逢瀬にいつもいつも大層幸せそうにしているので、この選択をするのは火を見るよりも明らかで。

(したくないなら、僕の部屋に来なければいいのに)

 一緒にベッドに入ったら、間違いなく襲われる。わかりきっているはずなのに、毎晩律儀に僕の部屋を訪れる。肉食動物の巣穴を、敢えて寝場所に選ぶ草食動物なんかいやしないのに。

 ――おまえ、ひとりで眠れないの?
 ――? いいえ? 寝付きは良い方です。
 ――……じゃあ夜這いに来てるんだ?
 ――はっ!? そんな体目当てみたいな言い方しないでくださいよ……! ……あ、いや、ある意味体目当てではあるんですけど……。
 ――痴女。
 ――そうじゃなくて!

 ほんの少し前の記憶。不可解で奇天烈な経緯を経て、こいつが僕の恋人になってしばらくの頃だ。

 ――くっついて眠るのって幸せじゃないですか。
 ――……寒いの? 北の冬でもないのに?
 ――あはは! 寒くはないですよ。幸せなのはオーエンのことが好きだからです。

 抱き寄せてやったら、胸元に顔を埋めてくすくす笑っていた。本人の言葉通り、やけに幸せそうに。

「……好きだと触りたくなるって、おまえが教えたんだよ」

 だから責任を取れ。気が向けば少しくらいは手伝ってやってもいい。そう思う。
 だけど寝入りばなの思考など泡沫のようなものだし、本人に伝えてやるつもりもなかった。
 のんきな寝顔にキスをして、僕も眠ることにする。この話はこれでおしまい。



第16回ワンライ・お題「気まぐれ」




×