まほやく | ナノ







 賢者様が寝ている。死んでいるみたいにぴくりともしない。
 頬は青白かった。ご馳走を頬張ったり猫を撫でたり僕がお茶に付き合ったりするたびに、のんきな薔薇色に染まるのが嘘みたいだ。

「まだ死んではおらん」
「眠っておるだけじゃ。救う手立てはある」

 訳知り顔の双子にも、馴れ馴れしく彼女の脈を取るフィガロにもうんざりした。
 蟻みたいにぞろぞろ連れ立って任務に出向き、早々に戻ってきたと思ったらコレだ。賢者様は現地の人間を庇い、たちの悪い呪いに引っかかった。愚かでお人好しで要領の悪い、彼女らしい無様な姿。

「さっさと叩き起こせばいいのに。僕たち魔法使いと違って、賢者様の代わりは呼ぶのに手間がかかるでしょう」

 奴らは顔を見合わせて「それが」「のう……」と言葉を濁すだけ。埒が明かない。

「おいファウスト。呪い屋ならなんとか出来るんだろ」
「……解呪方法はあるよ」

 陰気な瞳が、気まずそうに伏せられた。こいつが言い淀むとは、解呪によほどの代償を必要とするのかもしれない。弩級の魔法生物だとか魔法使い一人分の生き血だとか。
 まあどうであれ僕一人でどうとでもなる程度だ。目覚めた賢者様が泣いて許しを請うくらいの恩を着せてやるには丁度良いチャンスかもしれないし、今回ばかりは請け負ってやってもいいかな――

「『愛する者の口付け』」
「は?」
「だから……解呪方法だよ、オーエン」
「……は?」
「しつこいぞ。『愛する者の口付け』だそうだ。至って単純な条件解呪だよ」

 賢者様の部屋の前。扉から廊下まで遠巻きにひしめいていた魔法使いたちが、一斉にどよめく。

「くっ、口付け!?」「情熱的だね」「よかった。意外と簡単ですね」「で、でも賢者様は女の人ですよ……?」「別に唇にしなくてもいいんじゃねえか」「確かに唇同士という縛りはないようだが……」「おでことかほっぺなら平気なのに、唇には躊躇う理由って何?」

 どいつもこいつもやかましくてたまらなかったので、廊下ごと吹き飛ばしてやった。それでも室内に双子とファウスト、フィガロだけは残ってしまう。
 しんと静かになった部屋。耳を澄ませても、賢者様からは寝息も心音もほとんど聞こえてこない。

「あーあ。賢者様はじきに栄養も取れなくなって、緩やかに衰弱して死ぬだろうね。大いなる厄災にも対処できなくなって、この世界もおしまいだ」
「そうならんように!」
「『愛する者の口付け』を施すのじゃ!」

 双子の騒々しい合唱。フィガロが苦笑いを浮かべながら、ベッドサイドのスツールから身を乗り出した。

「公開キスなんて、賢者様は恥ずかしがっちゃいそうだけど……」

 ぎしりとベッドが軋むのを聞いて、ふいに頭が沸騰しそうなほど熱くなった。

「ちょっ、痛ぁっ! 何するんだよ!」
「おまえこそ」

 気づけば反射的に、フィガロを攻撃していた。寸でのところで避けられてしまったけど。

「体温を測ろうとしただけだよ!」
「へえ」
「……何、俺が賢者様の寝込みを襲うかもって?」
「殺す」
「なんで賢者様じゃなくてオーエンに殺されるんだよ」

 僕の攻撃のせいで壁際に追い詰められたくせに、フィガロはなぜか余裕ぶった表情を浮かべる。

「別に俺がキスしたっていいけどね。賢者様は俺たち全員を愛しているだろうから」
「はあ?」
「とは言え若い魔法使いたちには刺激が強いし、百戦錬磨のやり手陣じゃ挨拶じみてる。大人で誠実で、愛にふさわしい相手が担うべき役目だと思うけど」
「……おいファウスト。そうなの?」
「知らないよ……だが、まあ、……うん……」

 奥手な引きこもり魔法使いは、眉を寄せ首を捻り、滑稽なほどに唸ってから絞り出した。

「賢者も年頃の女性だ。相手次第では、目覚められた際に後悔するだろうな」
「じゃあ僕でいいだろ」

 気づけば食い気味に言い放っていた。  

「後悔すればいい。そしたらもう二度と、こんな馬鹿げた呪いに引っかかることもなくなるだろうしね」

 おい聞いているか。これは今も瞼を固く閉じて、返事ひとつしないおまえに言ってるんだよ賢者様。僕の目の届かないところで、迂闊に愚かな様を見せつけた罰だと思えよな。

「げ」
「あ、おいオーエン……!」
「しー!」
「いいとこじゃから!」

 横たわったままの彼女の顎をすくい、そのまま唇を重ねてやった。
 触れた唇はひんやり冷たいくせに柔らかくて、やはりまだ生きているのだと身にしみる。この胸を満たす温かいものの正体は分からない。こいつが目覚めたら確認すればいい。

「…………」

 唇を離す。名残惜しさと、一匙の恐怖。口付けてもなお、彼女が目を覚まさなかったら――

「…………おー、えん……」

 か細い声が耳朶を打つ。途切れ途切れの、みっともない呼び声。

「寝過ぎ」
「……すみません」

 ろくに状況を把握できていないくせに、何かを察して弱々しく笑う。情けないやつ。






「あ、ああ愛、愛する者の口付けですか……!?」

 その夜の食堂。賢者様が食後のお茶を飲みながら愕然としている。
 目覚めた直後は知らされていなかったが、回復を待って事のあらましが説明されたらしい。
 僕にそこまで世話を焼いてやる義理はないので、離れたテーブルからネロに作らせた大量のデザートを次々口に運んでいた。

「それはその……みなさんに大変なご迷惑をおかけしました…………」

 本日何度目なのか、テーブルにおでこを激突させんばかりの勢いで謝罪を繰り返す彼女を、おせっかい連中が慰めている。

「オーエン……本当に……」
「いいよ。さっき渡したリストのお菓子を全部買ってきてくれれば」

 この状況で絡まれたくなくて、彼女と目も合わせずに言う。こうやって突き放せば、少なくとも今ここでこれ以上深堀りするような女ではないから。
 他の連中は別だったけど。

「よかったねオーエンちゃん!」
「大好きな賢者ちゃんが帰ってきて!」

 背後からうざったく抱きついてくる双子を振り解き、視線はデザートに向けておく。

「僕を大好きなのは賢者様の方だろ」
「あ、あう……」

 顔を見なくても、真っ赤になった彼女がしどろもどろで慌てふためいているのは明らかだ。しばらくはこれを餌にからかって遊んでやるつもりで、

「ちょい、オーエンちゃん」
「勘違いしとらんかの?」

 振り払ったはずの双子が、今度はテーブル向かいからこちらを覗き込んでくる。心配と茶化しと、あれこれが入り混じった不快極まりない顔をして。

「『愛する者の口付け』じゃよ?」
「知ってるよ。それが何?」
「……呪われた者のことを、じゃよ?」
「…………は?」
「賢者ちゃんのことを愛する者が」
「賢者ちゃんにキスしたら、それで呪いが解けるのじゃ」

 スプーンを置く。まずはファウストを睨み視線を逸らされ、次にフィガロを睨めば肩をすくめられた。

「…………」

 状況を的確に把握していたやつは、魔法舎全体に何人いたのだろう。もっと早く分かっていれば、夕食前にそいつら全員の息の根を止めて回ったのに。

「…………おい」

 今さらもう遅い。どいつもこいつも仲良しこよしで勢ぞろいした食堂で、呪いの事実が詳らかにされてしまった。
 何よりこいつだ。真木晶。いたたまれずにティーカップを掲げているくせに、手がぶるぶる震えて紅茶が波打っている。

「……ずっと寝てればよかったのに」

 顔を真っ赤にして目尻に涙を浮かべ、彼女は消え入りそうな声で「オーエンが起こしたんじゃないですか」などと言いやがった。どうしてやろう。



第15回ワンライ・お題「寝顔」




×