まほやく | ナノ








 朝だ。瞼を閉じたままでも、白んだ光や澄んだ空気が教えてくれる。

(確か昨夜は、ネロの部屋で……)

 借りたシャツ一枚しか着ていないけれど、布団にくるまっているおかげであまり寒くない。
 意識をはっきりさせようとしたところで、まどろみの片隅に、柔らかな旋律が漂っていることに気づいた。

(……ネロの声だ)

 鼻歌だ。掠れた声が、途切れ途切れに紡がれていく。言葉の形が曖昧に崩れていて、歌と呼吸のあわいを行ったり来たりしているような。

(なんか、懐かしい歌だな……)

 私はベッドに寝転がったまま。ネロは一足先に目を覚まし、キッチンに立っているらしい。鼻歌の背景で、しゅうしゅうとお湯が沸く音や、とんとんと何かを刻む音がしている。

(もっと聴きたいけど、でも)

 この歌は、ほんの些細なきっかけで止んでしまいそうな気がした。なるべく物音を立てないように耳を澄まさなくては――

「起きてるだろ」
「…………っ」
「わかりやす」

 火を止める音。包丁を置いて、手を軽くすすぐ音。エプロンを脱ぐ音。ぎし。ベッドに腰を下ろし、私を覗き込む音。

「……ぐー」
「っ、ははっ」

 顔が見たいな、と思った。下手くそな狸寝入りをしたことを後悔する。ネロは今、どんな顔で笑ってるんだろう。咄嗟に吹き出したときのネロの顔って、無防備で男の子っぽくて好きなのに。

「なあ、起きねーの?」

 ネロの手が伸びてきて、私の頬にかかった髪をかき分けた。僅かに触れた肌はひんやりとしていて気持ちが良い。もっと触ってほしいと思ったけれど、私は(一応)まだ眠っている(てい)。ねだることはできなかった。
 ネロの手からはいい匂いがした。甘酸っぱいハーブのような香り。先ほどまで刻んでいたものかもしれない。

「じゃー俺も二度寝するかなー」

 ぎしり。再びベッドが軋み、ネロがごそごそと室内履きを脱ぐ音がした。私は慌てて身じろいで、彼が寝そべりやすいようスペースを開けようとして、

「やっぱり起きてんじゃん」

 と、まんまと罠にかかってしまった。

「……意地悪ですね」
「ごめんって」

 ネロは寝間着姿のままだった。キッチンにこそ立っていたけれど、まだ本格的に起き出すつもりではなかったのかもしれない。

「何したら許してくれる?」

 ごそごそとベッドに入り込み、私の背に手を回して抱き寄せながら、ネロは小首を傾げる。こちらがまるで怒っていないことなど、織り込み済みの甘い瞳。

(……さっきの鼻歌を、また歌ってほしい)

 そう伝えたかったけれど、口を噤んだ。あの鼻歌は、ネロが無意識に口ずさんでいたような気がしたからだ。
 彼は照れ屋だから、指摘したらあのメロディをまるっとどこかにしまい込んでしまうかもしれない。それは惜しい。あの偶然めいたものが降り積もった、優しく美しい静謐に、また出会ってみたかった。

「……ふふ」
「ん? 何?」
「いえ、何でも。……手を触ってもいいですか?」
「手? いいよ」

 片手に頬を擦り寄せる。思った通り、ひんやりとした感触が心地よかった。

「朝食の支度ですか?」
「いや、お茶の支度。都合いいハーブがあったから刻んでた。そろそろあんたが起きる頃だと思って」
「ああ。だから素敵な香りが……」

 そのままネロの手に鼻先を押し付け、残り香を吸い込んだ。この無骨で節くれだった手のひらが、私のためだけに何かをこしらえてくれていたのだと思うと、愛しさで胸がいっぱいになる。だからつい、ちゅっと唇を寄せてしまった。
 びくり。ネロの肩が、小さく弾む。

「あのさー……」
「はい」
「……このハーブティーは、俺なりの贖罪と言いますか」
「贖罪?」
「なんて言うかな、労り? こう、酷使した体を癒やす系のハーブなんだよ……」

 ネロが言葉を濁し始めたところで、私もようやく意図に気づく。背中に回っていた大きな手が、そっと腰を撫でたから。

「……あはは」
「笑い事じゃねえんだって……昨夜も無茶させたのは分かってるし」
「全然容赦してくれなかったですもんね」
「うっ……それはもう、おっしゃる通りで……」

 くすくす笑いながら、ネロの胸元に顔を埋めた。昨晩の情事が思い起こされて、どうにも顔が火照ってしまうから隠したかったのだ。

「…………」
「…………」

 ネロの匂いがする。体温が感じ取れる。衣擦れが鳴り、密着した足がぐっと絡まった。

「……俺も触っていい?」

 降り注ぐ低い声に、じりじりとした熱が籠もっている。頷く代わりに、「カーテンを閉めてくれたら」と絞り出した。




 彼女が時折口ずさんでいるのは、故郷の歌なのだろうな、と思う。
 中庭で猫を撫でているとき。台所仕事を手伝ってくれているとき。大量の洗濯物を干しているとき。
 彼女は無意識のようで、メロディは途切れ途切れ。歌詞は耳にするたびに少しずつ順番が入れ替わっていることもある。
 この世界では聞いたことがない名詞のようなものが所々に埋め込まれた、あの歌。世界を越えてもなお、彼女の意識に深く根付いたあの歌に、気づけばいつも耳を澄ませていた。

「♪……♪……」

 こちとら姿さえいつも目で追っているのだから、声だって聞こえる。歌なら覚える。
 恐らく俺も彼女のように、無意識のうちに歌っていることがあるのだろう。
 そうしていつの日か、誰がどこで歌ったものなのかも忘れてしまうだろうか。
 彼女の片鱗が自分の血肉じみたものに変わることは、恐ろしいような尊いような、切なくて張り裂けてしまうような……現状、なんとも言い難い。


(……俺、いま歌ってたな)

 その晩はキッチンで夕食の支度をしながら、ふと気づくことがあった。
 記憶をなぞり改めて歌ってみると、歌詞もメロディも意外とあやふやにしか覚えていなかった。
 それでも旋律の欠片だけで、瞼の裏に鮮やかに浮かぶものがある。彼女は任務先に出かけている。そろそろ帰宅する時間のはずだ。

(早く帰って来ねえかな……)


第13回ワンドロライ用




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