まほやく | ナノ







▽お宅訪問

 金曜日の放課後。晶は手作りクッキーの入った紙袋を片手に、バスに揺られていた。
 普段は乗らないルートの循環バス。窓の外の景色が、徐々に見慣れないものへと変わっていく。

(……え、ここ?)

 オーエンに指定された高層マンションの前で、晶は思わず立ち尽くす。
 最上階を見上げようとして、首が痛くなる。真新しい建物に、高級車が吸い込まれていく立体駐車場。自動ドアをくぐると、革張りのカウチが並ぶエントランスが広がっていて、コンシェルジュが恭しく頭を下げてくる。

(えっと、インターフォンは押さずに……)

 オーエンに「着きました」とメッセージを贈ると、返事はなかったが既読マークが付いた。ほどなくして、制服姿のオーエンが姿を現す。

「学校はサボったのに、どうして制服姿なんですか?」
「行くつもりはあった」
「ええー……」

 ――クッキーを焼いたんですけど、オーエンって今日お休みですか?
 ――食べる。家に持ってきて。

 確かに日中やり取りをしたメッセージを思い出すと、あながち嘘でもないのかもしれない。それと同時に、晶は一抹の不安を抱く。

「もしかして体調が悪かったり?」
「別に」

 そっぽを向かれ、判断に困った。ただでさえ普段から青白い顔をしているオーエン。
 素直じゃない性格も相まって、ぱっと見の判断が難しい。

「無理しないでくださいね。それじゃあ私はここで……」
「は? 帰るつもり?」

 クッキーの紙袋を差し出したのに、オーエンは晶の手首を掴んだ。

「? え、だってクッキーを届けに」
「…………まあ、そうだけど」

 オーエンは短く考え込み、

「お茶淹れて」
「私が……?」
「おまえは病人にお茶を淹れさせるの?」
「あ、やっぱり具合が……だったらスポーツドリンクとか買ってきますよ」
「もういい、早く部屋に行くよ」

 噛み合わない押し問答に、オーエンが先に匙を投げた。ならばと晶も着いていく。
 手前にあるエレベーターを素通りし、オーエンは更に奥にあるエレベーターに乗り込んだ。こちらは高層階の住人専用らしく、オーエンがスマホをかざすと認証されて動いた。

「デリバリーの人はどうやって入るんですか?」
「業者用のエレベーターがある。各階停車だから時間がかかるって、階段すっ飛ばしてくるピザ屋とかいるけどね」
「プロ根性ですねえ……」

 オーエンの降り立ったフロアはとても静かだった。入居している世帯の問題なのか、生活感の薄い廊下を進み、表札のない玄関に立つ。

「ご家族はご在宅ですか?」
「いないよ。一人暮らしだから」

 オーエンはなんてことなく言ったけれど、晶は密かに面食らう。
 まだ高校生のオーエンが、こんな見るからに高級なマンションに一人暮らし。
 並々ならぬ事情があるのかもしれない、だが尋ねにくいし、あれこれ想像するのも不躾だと思う。

(……聞けるときに聞こ。知りたいけど、知らなくても仲良くはなれるよね)

 とは言え、驚きはする。ホテルのように整理整頓された室内。大きすぎる窓。広すぎる台所。
 オーエンは本当に、晶にお茶を淹れさせた。いつもティーバックをマグカップに突っ込んでお茶を淹れているため、ウェッジウッドの最高級ラインとトワイニングの紅茶缶を前に「適当にやって」と言われて慌てた。

(絶対オーエンが淹れた方が美味しいのに……)

 そう思うと、自分の手作りクッキーだって似たようなものだ。上手に焼けたものを持参したつもりだけど、あまりに見劣りがする。

「……っオーエン、そのクッキーやっぱり」
「なんで焼いたの?」
「へ……」

 晶が止めるより早く、オーエンは袋に手を突っ込んで、クッキーをぼりぼり咀嚼していた。

「おまえ、お菓子作りが趣味?」
「趣味というほどでも。たまに作ります」
「作ってどうするの?」
「自分で食べたり、家族に振る舞ったり……? あと友達に配ったりとか」
「これも?」
「味見はしましたよ」
「配った?」
「? いえ、今回はオーエンだけに」
「……ふーん」

 ぼりぼり。オーエンは何故かとても満足そうに、チョコチップのクッキーを口に運んでいる。
 それを見ていると、高級マンションだろうと高級紅茶だろうと関係なく、やっぱり作ってよかったのだと思える。

「今度はこの化け物型のやつ、大量に作って」
「猫型なのに……」

 チョコチップ、抹茶、オートミール、かぼちゃ。
 何種類かこしらえたけれど、オーエンはどれももりもり平らげるため、食いっぷりから味の好き嫌いを判別することはできなかった。

 晶は自分で淹れたお茶をちびちび啜りながら、大きな窓の外を見やる。
 電信柱よりも庭木よりも高く、そこには暮れゆく空しか広がっていない。
 地上の喧騒からも遠く、室内の空気清浄機の健気な駆動音や、食器のこすれる音くらいしか聞こえない。

「……よかったね」

 その静寂を、オーエンが破った。

「あれからもう、ハイジャックには遭ってないんだろ?」
「はい。オーエンは?」
「人生に何度も遭うものじゃないよ」
「そうですよね。……よかった、オーエンが無事で」

 心からの本音だった。七年ぶりに本人を前にして、未だ新鮮に口に出せる。

「よかったです。あれから探したんですよ。ハンカチの名前と、人質の男の子って情報があれば、すぐ会えると思ったのに」
「あの国は個人情報にうるさいからね。ただでさえテロ問題でピリピリしてる頃だったし、未成年の人質が多くて情報管制も敷かれていたし」
「……オーエンも、私を探しましたか?」
「別に。思い出していい気分になる出来事じゃないだろ」

 ――ほんと、馬鹿だよねおまえ。
 ――折角忘れたフリをしてやったのに。
 ――僕から離れるチャンスだったのに。

 再会したあの日、交差点でオーエンから言われたことを思い出す。
 決して良い思い出ではなかった。幸い後遺症には至らなかったけれど、身体にも心にも深い傷が残った。今でもたまに、あの日の恐怖を夢に見る。
 それでもそれを覆い隠すくらい、大切な思い出でもあったから。少なくとも、晶にとっては。

「忘れたかった、ですか?」

 オーエンがティーカップを持ち上げた。品の良い仕草で一口飲む。こくりと小さく喉が鳴って、音もなくカップがソーサーに戻される。

「そうだね」

 心臓をぎゅっと掴まれたように苦しくなった。オーエンは毅然としているけれど、幼少期に凄惨な目に遭わされたのに違いない。
 晶は自分の心ひとつで、彼をしつこく追いかけてしまった。思わず俯く。

「どうにかして忘れるつもりだよ。だからあの事件に関わったやつの名前なんて覚えてないし、そいつが猫なんか助けて車に轢かれそうになっても放っておくし、手作りのお菓子を献上させたり、家に招き入れたりは絶対にしないんだ」

 ハッとして、そろそろと視線を持ち上げる。オーエンと目が合った。美しい双眸が、すうっと細められる。

「おまえも同じだろ? 晶」





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