まほやく | ナノ







 昼休みの終わり。昇降口を通りかった晶は、一瞬だけ立ち止まって、校庭の方を見つめる。

(……オーエンは今日、来ないのかな)

 昼練でトラックを走る陸上部。木陰のベンチでお弁当を食べる女子生徒。炭酸飲料に駄菓子を入れて爆発させて、動画を撮っている男子グループ。
 昼下がりの白んだ日光を浴びながら、めいめいが思い思いに過ごしている。

 オーエンの姿はない。今日は朝から登校していなかった。
 午前中は調理実習、化学の実験、英語の小テストと、彼が面倒くさがる授業ばかりだったから、サボってしまうのは納得がいく。

(……マフィン。一個。持ち帰ればいいか)

 晶は静かに、手持ちのバッグからバナナマフィンを取り出した。
女子生徒は持ち帰り用と称し、みんな気合の入ったラッピングアイテムを持参していた。バレンタインもまだまだ遠いこの季節、手作りのお菓子を堂々と意中の相手にプレゼントする絶好のチャンスなのだ。
 晶はジップロックを持参していた。どんなに大きく焼いたマフィンでもしっかり収納できる。気密性もばっちり。鞄の中で潰れてしまっても、粉が零れたりしない。

(焼き菓子だし、明日なら問題ない気もするけど……手作りだしな。オーエンって手作りのお菓子もらうのかな?)

 晶だって、クラスの可愛い女の子たちが、オーエンに手渡す支度をしていたのを知っている。正直オーエンは面倒くさがりそうだけど、甘党でお菓子は大好きだから、そっちの欲望が勝つかもしれない。

(まあ登校していない時点で、どうしようもないよね)

 自作のバナナマフィンは、今晩のデザートにしよう。
 そう心に決めて、晶は教室に戻ろうとして、

「ちょっと焦げてない?」

 ジップロックを奪われた。

「……これは焦げてないですよ」
「これは、ね」

 焦げたやつは自分で食べたのだ。
 オーエンに残しておいたのは、一番綺麗なマフィンだった。
 それを掴んだオーエンは、今晶の背後で、何の断りもなくジップロックを開けている。
 甘く香ばしい匂いが、ふわりと微かに漂った。

「今ごろ登校してきたんですか?」
「寝坊した」

 どういうレベルの寝坊ですか。そう笑いながら、晶は内心落ち着かない。
 調理実習の余りもの。班のみんなと共同で焼いたお菓子。ただそれだけなのに、オーエンの白い指が掴み上げ、口に運ばれようとしていると思うとなんともいえない気持ちになる。

「……美味しいですか?」
「さあね」

 そうやってはぐらかした割に、オーエンは二口、三口でぱくぱくと食べ終えてしまった。

「次」
「え、もうないです」
「はあ? 一つしか焼かなかったの?」
「いえ、いくつも焼きましたけど……」

 そう答えた瞬間、オーエンは不機嫌そうに眉間を寄せた。

「他のはどうしたの? 誰にやったの」
「え……その場で自分で食べました」
「……ああ、そう」
「すみません。本当はもう一つ残しておくつもりだったんですけど……焼き立てがあまりに美味しそうで……」

 安堵、自覚、嫌悪。オーエンの表情が複雑に入れ替わり、程なくしてニヤリと笑う方向に着地した。

「だったらまた焼いて」
「次の調理実習はしばらく先ですよ。多分マフィンじゃないですし」
「おまえの家にオーブンくらいあるだろ。授業の復習をさせてやるって言ってるの」

 なかなかに横暴な論理だが、なんやかんやこのマフィンは合格点だったわけだ。手作りを食べてもらう許可を得たというのは、晶にとってもやぶさかではなかった。

「じゃあオーエンも一緒に焼きましょうか、調理実習サボったわけですし」
「……おまえの家で?」
「…………それも変ですかね?」

 口にしてから、「家に遊びに来て」と誘ったようなものだと気づく。下心があるように思われていたら嫌だなと、慌てて首を振った。

「大丈夫ですよ、私の部屋には通さないので!」
「……ふーん」
「本当! 本当に。マフィン作りならキッチンとリビングだけで済みますから!」
「はいはい」

 オーエンは返事が適当になって、空のジップロックを晶に押し付けて教室に向かって歩いていく。

(……リビングもちゃんと片付けよう)

 今日明日のことではないのは分かっているのに、思い描くと楽しくなってきた。
 晶は小走りで、オーエンの後を追いかける。






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