まほやく | ナノ







 男はオーエンと名乗った。どうせ偽名だろうと思ったが、イギリスの詩人やオーストラリアのサブマシンガンと同じその名前は、鋭く研いだ宝石のような彼には似つかわしいような気もした。

「いくら?」
「はい?」

 晶のベッドに横たわり、オーエンは脱ぎ捨てたジャケットの胸ポケットを漁る。

「治療費。口止め料と一括で払う」
「別にいらないですよ。告げ口してもどうにもならないし」
「警官に通報すれば、何かしらの懸賞金がかかっているかもしれないよ」
「それであなたが捕まったら、絶対に私が原因ってバレるでしょう。報復の方が恐ろしいですから」
「怪我人を暴漢扱いするんだ。酷いなぁ」

 オーエンはせせら笑いながら、財布をしまった。
 傷は深かったが幸い致命傷ではなく、ひとまずの治療は終了。それでも一般人なら一刻も早く病院に行くべきだろうけれど、裏社会の気配を漂わせている彼に、晶があれこれ言うのも無駄だろう。

「何か食べますか? 簡単なスープとかパンとかならありますけど」
「ケーキ」
「ありません」
「買ってきて。2ブロック先に、老婆がやってるパン屋があるだろう。僕の腹の傷みたいな色のケーキを焼いてるから」
「……ああ、確かに日曜日だけお菓子が出てますね。レッドベルベットケーキのことかな……」

 そんな義理もないのだが、乗りかかった船だとも思う。晶は「じゃあ行ってきますね」と立ち上がった。

「おまえは?」
「はい?」
「おまえも腹が減ってるんじゃないの」
「……そう言えば、そろそろ夕食時ですね」

 ぎくりと身がこわばったのを、晶は必死で隠した。

(実は、本当に……結構、お腹が減ってる)

 冷蔵庫の中に、今日買ってきたばかりの血が入っている。ここ数日は血を飲まずに暮らしていたから、そろそろ空腹に限界が来ていた。

(あ、そっか……なんか頭がくらくらすると思った……)

 かと言って、オーエンの目の前で血を飲むわけにもいかない。
 吸血鬼は人間社会の敵である。忌避される存在。今や都市伝説のような扱いだが、正体を暴かれ殺された同胞は数えきれないのだ。

「心配してくれてありがとうございます! でも私は大丈夫です! すぐにケーキを買ってきますから、ちょっと待」
「おまえ吸血鬼だろ」

 晶が努めて明るく振る舞ったのに、オーエンはバッサリと断ち切った。

「へ……」
「顔」
「……かお?」

 顔で分かるはずがない。なんの冗談ですか、オカルトが好きなんですか、そんな風に笑い飛ばそうと思ったのに。

「瞳孔を開かせて、頬を染めて、興奮した獣みたいな顔をしてる」
「な…………っ、え、あ」
「自覚なかった?」

 オーエンの腕が伸びてきて、晶の身体を引き寄せる。
 水面のような彼の瞳に写る自分の姿に、ひゅっと喉が鳴った。
 羞恥。動揺。耐えきれなくてすぐに目を伏せると、オーエンがくつくつと喉で笑う声が降ってくる。

「僕の手当てをしながら、いつ噛み付いてくるかと思ってたけど」

 恥ずかしい、恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。苦しい。みっともない。辛い。いたたまれない。
 自分が吸血鬼なのは仕方ない。もう仕方ないのだ、治るものではないし。
 人を傷つけず、最低限の血を買って、慎ましやかに生き延びるつもりだった。命をいただくってそういうことでしょう、ねえ。

(私、この人に、なんてことを……)

 怖かったかな。気持ち悪かったかな。いつから気づいていたんだろう。
 もしかして、吸血の下心で、家に連れてきたと思われているのかな。

「ご、ごめんなさい……」
「何が? ヨダレを垂らしそうな顔で、僕の傷口を触ってたこと?」
「あ、う……」
「あはは、良かったね。本当には垂れてなかった」

 くいっと顎をすくわれた。
 オーエンの冷たい手が、火照った肌を擦る。背筋がぞくぞく粟立って、晶は思わず生唾を飲んだ。

(どうしよう)

 どうしよう。垂涎ものであることに変わりはない。
 オーエンの美しい眼がすうっと細くなる。吟味するような挑発するような、世にも美しい動作。

「口の中も怪我してるんだよ」
「え…………」
「こっちはおまえが手当してくれないから、そのまま。切れちゃってて、血が出てる」

 薄く開き、もったいぶるように口内を見せつける。色素の薄い唇の奥に、艶めかしく舌が覗く。

(駄目だ、離れなきゃ)(本当に血が出てるのかな)(口の中の手当なんてできないよね)(でも血が出てるって)(どうしよう)(だめだ)

 また喉が鳴る。腹が心臓が息が、全部苦しい。
 浅ましい。欲望を押さえきれない。
 ひどい生き物だ。理性。お願いだから理性。オーエンをぐっと押しのけて、冷蔵庫から血を取り出して、家を出るまで力を貸してほしい。
 ケーキ屋に行く前に、栄養ドリンクでも飲むようにぱぱっと全部済ませて見せるから。

 空腹が悪い。なんてことだ。こんなことなら一日でも一時間でも早く、補給しておくべきだった。

「……放してください」
「おまえは悪くないよ」

 やけに優しい口調になって、オーエンが囁く。

「僕の血はちょっと特殊なんだ。黄金の血。人口の0.01%未満の幻の血液型。人間にとっても、おまえたち吸血鬼にとっても貴重な血。稀有なごちそう」

 晶も聞いたことがある。
 例えようのない極上の味。信じられない栄養価。売血屋の店主が、一度は取り扱ってみたいと冗談混じりに語っていた。

「だから、この血を吸いたくなるのは本能。抗えるものじゃないんだよ」
「わ、私、それでも生きてる人からは……っ」
「気にしなくていいんじゃない? 嫌がる僕を襲うわけじゃない。対価だと思えよ」

 オーエンの指先が、晶の唇をつつとなぞる。

「舌」
「ひっ」
「舌を出して」

 脳に電流でも流されたようだ。
 頭のてっぺんからつま先まで、じいんと痺れたような感覚に支配されてしまう。

「いい子」

 気づけばオーエンに言われるがまま、おずおずと舌先を伸ばしていた。

「ん、う……っ」

 唇が重なる。少年少女のファーストキスのような、触れるだけの時間は一秒もなく。

「ふ……っ、ん、ぅあ」

 晶の舌に、オーエンの舌が絡む。速やかに彼の口内に導かれた。
 鼓膜に届く淫靡な水音に、なけなしの理性が働こうとするけれど、

「んんっ」

 舌先で、そのぴりりとした刺激を感じ取った瞬間、何も考えられなくなった。

(おいしい)

 オーエンは本当に、口内を怪我していた。
 粘膜の柔らかい部分に傷があるのだろう。微かに血の味がする。

(どうしよう……おいしい……)

 舌先が傷口に触れると、オーエンがぴくりと体を揺らす。

(あ、痛いのかな)

 だが晶が身を引こうとすれば、オーエンの腕が腰と後頭部に回されて、かえって引き寄せられてしまう。

(……いいの?)

 晶がそうっと瞳を開くと、オーエンと目が合った。晶が自分をうかがうことが分かっていたのかもしれない。
 そうしてまた、オーエンの瞼が降りる。抱きしめるような腕はそのままに。

(いいんだ……不思議な人……)

 そうしてまた、彼の血の味に夢中になる。
 血液量はほんの僅かなはずなのに、その芳醇な味わいが刻みつけられる。これまで飲んだどんな血より美味しい。

(いいにおいがする)

 手当はした。包帯でぐるぐる巻きにした。
 今は消毒液や軟膏の匂いの方が強いはずなのに、それでもオーエンの血は香り立つ。

(だめだ、離れられない、どうしよう……おいしい、どうしよう……)

 頭がくらくらする。血が美味しい。酸素が足りない。体が熱い。

「ふぅ……っ、んんっ」

 オーエンはただ受け身で吸血させてくれるのではなかった。
 むしろ彼の方が、何かを貪るみたいに口付けを深くしてくる。
 後頭部を押さえる手は、晶の髪を梳いている。腰に回った方は、いつの間にかシャツの裾から服の中に入り込んでいた。

「ひゃ……っ」

 骨ばった冷たい手が、背中の皮膚に直接触れた。晶はハッとして唇を離す。

「え、な、何してるんですか……!?」
「言わなくちゃ分からないの?」
「わ、わ……きゃっ」

 体制が逆転した。オーエンは晶をベッドに組み敷いて、濡れた唇を舌先でぺろりと舐め取っている。

「もっと欲しいだろ、血」
「じゅ、十分です……! もう十分! ごちそうさまでした!」
「嘘つき」

 オーエンは目を眇めながら、自らのシャツのボタンを外す。ぷつ、ぷつと上から二つ。
 そうして生白い己の首筋を、晶に見せつけるように晒し出す。蛍光灯の下に、浮いた血管が青白く照らされている。

「だらしない、物欲しそうな顔のままだよ。むしろ酷くなってるかも」

 オーエンの言う通りだ。晶は己の乾きを自覚する。
 十分なんて嘘だ。黄金血は少量でも栄養価は桁違い。飢餓感はとっくに解決したはずなのに、この世にも美しい男の、艶めかしい首筋に噛みつきたくて仕方がない。

「ほら、言ってみて」
「あ、あ……」
「僕が欲しい?」

 身の内から湧き上がる、言いようのない衝動に、神経という神経のすべてが焼き切れそうだった。
 疼くのだ。そしてそれは、晶だけではなかった。

(……あたっ、てる)

 固定された太ももに、オーエンの硬直を感じる。自分を組み敷くその顔が、劣情で火照っているのも分かった。

「何、その目」
「だ、だって」
「吸血には催淫効果あるって知ってるだろ」

 知らなかった。だって今まで、人間からはろくに血を吸わずにいたのだ。本当に、こんなことは、一度も。
 愕然とし、言葉を失い、羞恥で小刻みに震える晶を見下ろして、オーエンの表情に恍惚が広がる。

「初めてなんだ? 吸血しながらするの」
「あ……」
「へえ。面白い」

 ベッドが軋む。衣擦れが響く。鼻先が触れそうなほどに近づいて、オーエンが笑う。

「なら絶対、優しくなんかしてやらない。僕以外なんかの血、二度と吸えなくなっちゃうかもね」
「や、待……っ」
「可哀想」

 どちらが捕食されているのか曖昧なまま、再び唇が重なった。







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