まほやく | ナノ







 二十五時半。酔いは覚めたが、喉の奥にアルコールの余韻を感じている。

「おい」
「はい」
「靴くらい自分で脱げるよね?」
「脱げますとも。それはもう。華麗に脱いでご覧に入れましょう」
「誰が見るんだよ」

 オーエン以外に誰がいるんですか、と聞こうとして、辞めた。「お互い以外誰もいない」「今二人きりである」に類することを言おうものなら、いたたまれなくていっそ泣く。
 久しぶりの集まりで盛り上がってしまった。いつものように大したお酒は飲んでいないが、参加者の誰とも別れがたく、めいめいが帰路につくのを気持ちよく見送っていたところ、自分の終電がなくなってしまった。

 ――ではオーエン、ここで。

 手を振り立ち去ろうとすると、オーエンは端正な顔をおもいっきり歪めて見せた。

 ――歩いて帰るの?
 ――さすがに無理なので、ネットカフェのようなものを探します。
 ――『のようなもの』って何?
 ――なければファミレスとかカラオケとか……

 幸いにして、週末のターミナル駅前。なんとでもなりそうだった。
 オーエンが徒歩圏内に住んでいることは承知だったので、ここで別れようと思ったのだ。まさか自宅に招いてもらえるなんて思いもしない。だって相手はオーエンですよ。


 部屋は、びっくりするほど綺麗だった。
 日々の振る舞いや持ち物を見る限り、整理整頓は得意だと踏んではいたけれども。

「オーエン、本当にここに住んでるんですか? モデルルームのようじゃないですか……すごい、偉いですねえ……」

 素直に褒め称えると、オーエンはふふんと微笑む。気を良くしたのか、なんと温かなお茶まで淹れてくれた。

「美味しいです!」
「どうも」
「いつもこんな美味しいの飲んでるんですか?」
「いつもじゃないよ。客が来るときくらい」
「客……」

 客。少なくとも私の知る相手ではないのだろう。仲間内では、オーエンの部屋は誰ひとり足を踏み入れたことがないので有名だ。

「嘘だよ。客は招かない。自分の部屋に、他の人間を入れるのは嫌い」

 申し訳ない気持ちと、不思議な気持ちが混ざり合い、言葉を見失う。

「あはは、変な顔。気にする必要ないよ、お前は特別だから」
「特別。それは光栄です」
「人間だと思ってないから」
「えっ、じゃあ何だと思ってるんですか?」
「……喋るお菓子とか」
「ホラーじゃないですか。怖くて食べられませんよ」

 今夜のオーエンはちょっと変だ。自分からふざけたくせに、変に口ごもったりする。
 そうだ、ずっと変だった。駅でみんなを見送るときも、何故か最後まで付き添ってくれた。飲み会なんて、真っ先に姿を消すタイプなのに。





 二十六時。お互い目がとろんとして来たので、徹夜ではなくちゃんと眠ることにした。
 ここに来る途中のコンビニで買った、一泊用のスキンケアセットを開封する。

 ――このお泊りセットって、ふしだらな匂いがしますよね。
 ――……は?
 ――予定外の外泊用ってイメージが強くて。

 コンビニでそう笑いかけたときの、オーエンの顔は面白かった。酸っぱいものを食べて我慢したように、口元がぎゅっと縮まっていて。

「ふふふ」

 思い出し笑いをしながら、オーエンが貸してくれたタオルに顔を埋める。上品な洗剤の香りがする。
 リビングに戻ると、オーエンもジャケットを脱ぎ、ボタンを外してラフな部屋着になっていた。ソファにクッションや毛布を集めて、私用の寝床をこしらえてくれているらしい。

「ありがとうございます。お借りします」
「は? ここは僕が寝るんだけど」
「えっっっっっっっっっっっじゃあ私は床……!?」
「まだ酔ってる? ベッドで寝ろよ」
「えっっっっっっっっっ」
「お前僕をなんだと思ってるの。さすがに女が泊まりに来て、そのへんに転がすわけないでしょ」

 何それ。オーエンじゃないみたいだ。私の知っているオーエンは、女だろうが客人だろうが、用尺無く床で寝かす。自分はふかふかのベッドで、ふわふわの毛布にくるまって眠る。はずなのに。
 ……なんか、慣れてるな。他人を泊めないなんて、やっぱり嘘なんだ。客だって呼ぶ。お茶だって淹れる。本当に、私が知らない相手なだけなのだ。ちょっと苦しいかも。

「じゃあ寝室はそっちだから……大丈夫?」
「え……」

 立ち尽くす私を、オーエンが覗き込む。肩に手。指先が髪に触れていた。

「気分悪いんじゃないの」
「いえ……」
「弱いくせに飲むから」
「いえ、お酒はもう、全然」

 オーエンの手が、背中をゆっくりさすってくれる。労り。嘘みたいな仕草。

「……オーエン」
「なに」
「優しいですね……」
「僕はいつも優しいだろ」
「ええ
「相手を選んでるだけ」

 だからその、相手を選んでるということが、悲しいんじゃないか。

「オーエン。本当にもう、大丈夫です。ありがとう。遅くなっちゃいました、早く寝ましょう」
「……分かった」

 そのまま寝室まで連れて行ってくれて、小さな子どもでもあやすみたいに、ベッドに横たわらせてくれた。メインの電灯が消え、間接照明だけが淡く光っている。
 オーエンはベッドサイドに肘をつき、「子守唄うたってあげようか」などとのたまう。

「嬉しいですけど、オーエンが元気なときにしましょう。さすがに眠いですよね」

 欠伸。

「まあ、歌ってるうちに寝るかもね」
「それは困っちゃうなあ」
「そしたらベッド半分借りる」

 反応に困って固まっていたら、オーエンの方がなんだか困ったような顔をした。

「ねえ」
「はい」

 ベッドが微かに軋む。深夜二十六時半。この世が終わったみたいに、とてもとても静かだ。
 オーエンの声は、真夜中のそよ風みたいに微かだ。囁くよりもずっと、ずっと静か。

「今後終電逃したら、ネカフェなんか探さないで。ここ泊まりに来なよ」
「……いいんですか」
「いいよ。掃除しとく」
「いつも綺麗なんじゃないんですか?」
「はは。全部誰かさんのためだって言ったらどうする?」

 寝入りばたのはずが、ハッとさせられた。暗がりで目が合う。まどろみの向こうに、確かな熱を見た。

「目が覚めたら、ちゃんと話す。おやすみ」





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