まほやく | ナノ







▼フィガロ

「賢者様って処女?」

 この数十秒前に「好きだよ」「私も好きです」「俺の恋人になってくれる?」「もちろんです」のやり取り済み。関係性に承諾を得ている。
 それなのに。それだから。

「痛っ」

 彼女の平手で見ごとに頬を打たれ、フィガロの目の前に星が散る。

「っっ、すみません!」

 上擦った声で叫びながら、彼女はフィガロが顔を上げるのを待たず、部屋から飛び出して行った。

(……うわ。どうしよう)

 ひりひりと痛む頬を押さえながら、フィガロは項垂れる。
 どうしよう。本気で【どうしたらいいのかが】分からない。
 彼女を追いかけようと腰を上げてみるものの、追いついてどうしたらいいのだろうか。
 謝罪されてしまったが、それに対してこちらこそと謝るべきなのか。では何がこちらこそなのか。

(殴られたってことは、俺は何か致命的なことをやらかしていて……でもそれが一体何なのか、見当がつくような、つかないような……)

 現状を整理する。

 時間:夜。
 場所:フィガロの部屋。
 人:賢者とフィガロ。
 関係性:恋人になりたて。
 服装:二人ともパジャマ。
 部屋にあるもの:ベッド。

(あー……盛りがついた犬のようだとでも思われたかな……)

 だって人間ってすぐ死ぬだろ。賢者様だってそうだろ。
 生まれて番って産んで死ぬまであっという間じゃないか。紙芝居みたいな速度じゃないか。
 彼女本人に決して言えやしない独白と共に、フィガロの治療をする。
 赤く腫らしておいたままでは、彼女は気が咎めるだろうと思ったからだ。

(俺が先か、賢者様が先か、そういう話になるんだったら……)

 何がどう転ぶにしても、自分たちには時間がない。恋人になろうが夫婦になろうが、距離を縮めるための条件ばかりが多い。



▼フィガロ(とレノックス)

 翌日昼。中庭。人払いの結界を張って、羊を撫でながら。

「俺にデリカシーがなかったんだろうなあー……」
「でしょうね」

 レノックスからこんなに軽蔑した表情を向けられるのは初めてかもしれない。

「まず第三者である俺に、このような秘密を打ち明けてしまうこと自体がデリカシーに欠けているのでは?」
「いやうん、そう。分かる。賢者様は恥ずかしいことだって嫌がるだろう。それでも天秤にかけたんだ、俺は」
「天秤……」
「たとえ勝手に話すなと怒られても、仲直りする方法が知りたい。優しくて思いやりがあって女心が分かりそうで口が固い男。レノしかいなかった」

 素直に口にすると、レノックスは「意外ですね」と言わんばかりに目を見開いた。

「フィガロ先生は苦手でしょう、仲直り」
「ケンカをしない方が得意」
「肉体と同じで、絆というのは仲直りを繰り返すほど強く深くなっていくのだと聞いたことがあります。つまり今、フィガロ先生と賢者様はチャンスを迎えているということです」
「励ましてくれてるのは分かったよ、ありがとう。できれば、具体的な対策も講じてくれると助かる」
「すべて打ち明けることでは?」

 手持ち無沙汰で撫で回していたもこもこの羊を、やんわりと取り上げられた。

「どうしてそんなデリカシーのないことを言ってしまったのか、賢者様にお伝えすべきかと思います。言語化できないお心があるのであれば、その奥の底まで、めげずに全部」
「……一生かかりそうじゃない?」
「お付き合いくださるんじゃないですか、賢者様は。フィガロ先生にだったら」



▼賢者

 もやもやとした一日が終わり、自室の机に向かっていたころ。
 窓の外からこつこつとノック音がした。

「やあ」
「こ、こんばんは」

 箒にまたがったフィガロが手を降っている。
 いつもと変わらないにこやかな笑みに、内心びくびくしている自分が恥ずかしくなって、つい目を伏せてしまう。

「少し話さない?」
「そう、ですね。はい。どうぞ」
「ああ、でも折角だから」

 室内に招き入れようとしたけれど、箒に乗ったまま手を差し出された。同時にフィガロの魔法で、さっきまで着ていたパジャマが外出着に変わる。

「飛びながらでもいい?」

 我が身を包んでいるのは、分厚い上着と胸元まできっちりボタンが閉じたシャツ。
 頑丈な装備のようで安心したが、彼の手を取ったところでハッとする。どんなにかっちりちとした服装をしたとて、箒に乗るのでは否応無しに密着するのだ。

「はい、こっち。もたれてもいいよ」

 しかも箒の上では、フィガロの前に座らされる。
 確かにこの方が話しやすいけれど、こんなのは背後から抱きしめられているようなものだ。パジャマ姿だろうがベッド上だろうが、どちらかの部屋で向き合って座っている方がまだマシだったかもしれない。

(って言ったら、私が変な下心を持っていると誤解されてしまうのでは……)

 昼間以上にもやもや悶々としているうちに、フィガロの箒が夜空を進んでいく。魔法者はすぐに見えなくなって、フクロウもコウモリもいなくなって、周囲には月と星と暗闇だけになった。

「…………」
「…………」
「賢者様」「フィガロ」

 同時に切り出した気まずさで、会話は一瞬だけ膠着状態になる。

「…………っ、昨夜はすみませんでした!」

 とにかくこれだけは伝えなくてはと、フィガロが次の言葉を口にする前に叫んだ。

「わ、びっくりした」
「すみません、頬、痛かったですよね」
「あ、いや全然平気だったよ」
「うそ……だってばちんってすごい音がして……」
「じゃあ賢者様の手の方が痛かったんじゃないかな」

 フィガロの手が自分の手に重なって、肩がびくりと震えてしまう。
 それでもその手を振り払えなかった。フィガロの方から放されることもなくて、ほっとした。

「ごめんね。嫌な思いさせて」
「それは私が……」
「いや、俺だよ。色々慌てた。きみに嫌われない方法が知りたくて」

 辺りはとても静かだった。フィガロの声だけが、月や星の光と同じように、彼女の上に降り注ぐ。

「折角結ばれたんだから、これからはきみが求めているものだけを与えたいと思ったんだ。包み隠すより直接聞いて、きみにもっとも負担をかけない方法が取りたくて」
「それで、あの質問になった、と」
「……うん」
「……フィガロ」

 身じろぎ振り向き、見上げる。フィガロは唇を引き結び、眉尻を下げて、なんとも情けなさそうな心細そうな表情でこちらを見下ろしている。

(頬、本当に何もなかったみたいだ)

 ダメージが無かったはずはない。きっとフィガロが自分で治療したのだろう。
 引っ叩いた彼女の手は一晩ずっとじんじんと熱を持ち、明け方に厨房で氷をもらって冷やしたほどだったのだし。

「賢者様……?」

 昨晩と同じ位置に、昨晩と同じ手のひらで触れて見た。
 ひんやりと冷たい皮膚。こちらの反応をひとつも見逃すまいとする彼の双眸は、どこか怯えたような光をはらんでいる。

(イタズラして叱られた子どもみたいかも……変なの。千年以上生きている男の人なのに)

 この男に気に入られたかった。
 処女と非処女、どちらであればより深く、彼の心を繋ぎ止めることができるのか分からなかった。昨晩は事実よりも咄嗟に、彼に気に入られる答えを探していた自分に気づいた。
 その浅ましさを見抜かれてしまいそうで動揺して、気づけばあんな酷いことをしてしまった。
 今だってそうだ、事実を捻じ曲げることができるならなんだってしてしまう気がする。

「フィガロ。ごめんなさい」
「だからね、賢者様。それは俺が」
「……その、困りますか?」
「え?」
「私がどちらだったら、不都合が、ありますか……?」

 質問しながらどうにも居心地が悪くなり、頬から手を放し目も伏せた。
 昨晩のフィガロのように直接的な表現を用いるのも気恥ずかしく、どうにも遠回しな物言いになってしまう。

 だが彼にはきちんと伝わったらしい。伝わってしまった。
 今度は晶が両頬を包み込まれ、上を向かされた。

「どっちでもいいよ」

 至近距離で覗き込んでくる彼の目に宿るものは、先ほどまでの怯えたそれとは大きく違っていて。

「賢者様ならなんでもいい」
「な、なんでも……」
「これまではなんでもいい。でもこれからはずっと、俺だけにちょうだい」

 息が止まるかと思った。切実な声と視線に射抜かれて、返事をしようにも声が出ない。
 それでもきっと、耳まで熱いこの皮膚の色が何よりの答えになってしまったのだと思う。
 前触れもなく重ねられた唇は、信じられないほど優しかった。





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