(猫が飼いたいな) 一週間に一度、オーエンの家に行く。郵便物を回収し、空気を入れ替え、掃除をして、鉢植えに水をやる。 都心のタワーマンションに、家主はなかなか帰宅しない。海外での仕事が多く、腰を落ち着ける見通しはないようだ。 広々とした家だが、元々物が少ない人なので、手入れはそう難しくない。プライベートスペースに他人を入れたがらないため、ハウスキーピングの業者はNG。私に白羽の矢が立つのは必然だった。 オーエンは語学力に長けていて、海外生活は水に合うらしい。 ただ手入れの都合上、多肉植物くらいしか置けないと嘆いていたことはあった。 ――私が毎日来て水やりしてもいいですよ。 ――……だったらおまえがここに住んだ方が早いだろ。 ――あはは、それはちょっとなぁー。 笑って濁したが、「それはちょっとな」に続くのは「嫌だな」だった。 恋人がいきいきと働いている姿は好きだ。 オーエンはあれで意外と筆忠実で、現地の写真をよく送ってくれるし、毎晩とは言わずともしょっちゅう通話もする。 他愛ないお喋りをだらだら続けてくれるし、去年の私の誕生日には、ブダペストに夜景を観に連れて行ってくれた。ドナウ川を暖色に染め上げるセーチェニー鎖橋は、この世のものとは思えないくらい綺麗だったし、オーエンのお気に入りのお店のドボシュトルタは、頬が落ちるほど美味しかった。 たまに日本に帰国すると、オーエンは滞在時間のほとんどを、私のために使ってくれる。(実は実家に、お付き合いしていますと挨拶に来たこともある。共通の知人は誰も信じない)。 私は私で、この土地に仕事があり、友人がいて家族がいて、それなりに充実した日々を送っている。 だがオーエンのいない部屋に、毎日帰るとなれば……それにはきっと、耐えられない。 一週間に一度、非日常的に立ち寄るからいいのだ。オーエンが好きそうなもので溢れた部屋の、残り香だけを吸い込む。それは「有る」を体験する行為だから。 (付き合い始めたときは、もうオーエンはこの生活だったから……同棲どころではなかったのは、ラッキーだったのかもしれないな) この内心を、オーエンに伝えたことはなかったし、伝える予定もなかった。重荷になるつもりはなかったし、共有すれば最後、二人の間に影が差す。せめて明るいところにいたい。暗がりは見ないフリをして。 ◯ 「猫を飼おうと思ってるんですよ」 『やめておいたら?』 このやり取りは、もう何度も繰り返している。 『実家でも飼ってるだろ』 「それはそれ、これはこれです。毎日会える子がいてもいいじゃないですか」 『おまえ、近所に猫だまりがあるし』 「それもそれ、これもこれです。野良には野良の良さ。家猫には家猫の良さ」 通話画面に写ったオーエンは、呆れた顔をしている。 その手にはぽってりとした瓶飲料が握られていて、私はラベルの文字を読むことができない。 「オーエンだって、こっちに帰ってきたら、触り放題の猫がいるんですよ。どうです?」 彼がどうやったって動物好きなのは既知の事実である。 それこそ今の生活で、猫を飼うなんてできないのは彼の方だ。 『僕は犬派だし』 「えー! 猫も好きでしょう!」 『犬を飼うのも反対だよ』 「えー!」 『お前、そっちにばっか構いっきりになるだろ』 「えー……? それは一体」 『前も言ったけど、来週帰るから』 強制的に話題が変わってしまう。が、今抵抗するのはよそうと切り替えた。 時差を考えれば、向こうは深夜だ。無理に時間を作ってくれていることは、よく分かっている。 「お休みも取ってあります。飛行機に乗り遅れないでくださいね」 『それはおまえだろ。一昨年こっちに来たとき、スリに航空券を奪われて』 「そ、その節は大変なご迷惑を……!」 貴重品を入れたバッグごとなくしてしまい、しかも声をかけてきた私服警察官というのがまた現地の悪者で、オーエンが駆けつけてくれなければ今頃エーゲ海に沈められていたかもしれなかった。 「空港に迎えに行きますね」 『よろしく』 「……オーエン」 『ん?』 「ちゃんと寝てくださいね。ごはんも食べて、シャワーだけじゃなくて湯船にも浸かって」 生まれつきだとかライティングのせいだと言われないように、「顔色が悪いですよ」とは言わなかった。 その意図をどう汲み取ったのか、オーエンは何も言わずに笑った。 ◯ 到着ロビーで、オーエンを探すのに苦労したことはない。オーエンに見つけてもらえずに困ったこともない。 「おかえりなさい!」 「ただいま」 何度繰り返しても、このやり取りのたびに泣きたくなってしまうのだけど、泣くと視界がぼけやて勿体ないので、必死に瞼を開き、オーエンをじーっと見つめる。 「何その変な顔」 「オーエンを焼き付けておこうと思って」 「……変なの」 レンタカーに荷物を積み込み、私は運転席に座り、カーナビを確認する。 オーエンのマンションの住所をセットして、 「どこか寄りたいところありますか?」 と、助手席のオーエンを見やった瞬間、後頭部を引き寄せられた。 「ん」 唇が重なる。しばらくそのまま。確かめるようなキスだと思った。 「ココアの味がする」 「……オーエンを待ってる間に飲みました」 「悪くない」 「って言うと思って」 オーエンはきょとんと目を丸くしたあと、不敵にニヤリとする。何ヶ月も離れ離れだったのだから、触れ合いたいのはお互い様なのだ。 ◯ 長時間フライトの後なのに、オーエンはまるで疲れた様子がなく、あちこち回って帰宅した。 私がお茶を淹れている間に、彼は素早く片付けを済ませてしまう。 海外慣れしているので、移動はいつだって身軽。持ち主は部屋と似ている。 「お土産。こっちとこっちは冷蔵庫」 「わざわざ真空パックを……!?」 「マルシェで買った」 「わああ、ありがとうございます!」 薔薇のコンフィチュール、スパイス入りの天然塩、高級バター、ジャンドゥーヤチョコレート、柔らかいバニラのゴーフル、紅茶、石鹸、コスメセット(絶対私の肌質に合っていてるやつ)、ハイブランドの腕時計、カードケース……!? 「こ、こんなに……?」 オーエンのスーツケースの中身は、ほとんどが私へのお土産だった。いつもたっぷり贈ってくれるけれど、それにしても多い。 当然嬉しいけれど、戸惑いを隠せない私の前で、オーエンは平然としている。 「これが最後だから」 「は……」 「土産物でおまえの気を引こうとするのも、これが最後」 淡々とした声が、どうしてか鋭く尖って、私の心に突き刺さる。 (……前触れって、あったっけ?) 強いて言うなら、この数年の生活そのものが前触れだっただろうか。 現状でできる最大値。それでも足りなかったのかもしれない。見ないフリをしていたけれど、結局私が足りないと思うなら、オーエンにだってきっと、足りなかった。 今、何をしよう。何をしたらいい? 抵抗、反抗、話し合い、折衷案。何をどうすべきか、今何を言うべきか分からない。 すべてが混乱を極めるが、涙だけは避けよう。 喉と拳にぐっと力を入れて、彼の方を見た。 「オ……」 「引き払うならこの家とおまえの家、どっちがいい?」 「……は?」 なぞなぞでも言われているのかと思って、いよいよ首をかしげそうになったとき、オーエンが何かを取り出した。 柔らかな光沢のある、曲線的な小箱。クラシックなネイビーブルー。 (あれ、これ何か……どこかで、観たことが……) 海外ドラマか映画か、そういうとてつもなくロマンチックなもので、いつだったか―― 「次の赴任先は、ようやく治安がまともなところだから」 小箱が両側に開く。 きらりと音がしそうなほど、まばゆく輝く宝飾の指輪が顔を出す。 「猫でも犬でも、飼うならあっちに行ってからにして」 「え、あ……」 「……仕事、は、悪いけど辞めてもらう」 悪いけどって、言った。今。オーエンが。 「ここ」 細く冷たい指先が、私の薬指を撫でる。左手。 「いい?」 二人で会うときは泣かない。泣いている時間が勿体ないから。暗いところは見ないフリして、明るいところにいよう。努めて。 だけど本当は、明暗全部一緒に飲み込みたかった。 疲れたときは疲れたって眠ってくれてもいいから、画面ごしの笑顔より、怒った顔を直接見たかった。 「わ、たし」 「うん」 「英会話、通ってます」 「うん、知ってる」 「フランス語も、ちょっと、ちょっとだけ、始めてるし」 「……へえ」 「スリにも、置き引きにも、偽警官にも、遭わないように、しますから」 「いいよ別に、そういうのは蹴散らしてあげる」 それならば無敵だ、怖いものなんて何もない。猫も飼う、犬も飼う。世界中どこにだって行く。 夢森ワンライ2・お題「猫」 ×
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