死の湖からいくらも離れていない、小さな村の生まれだった。 湖上の島に近づいたことはない。件の『死者の国』を恐れたからではなく、私は子どものころから泳げなかったからだ。 人間の友人が「魔法使いにも出来ないことがあるのね」と目を丸くしていたが、そんなのは至極当然である。 無理なものは無理だ。溺れると魔法すらも使えなくなってしまうので、いつか私を恨む者が、私を湖の底に沈めるのだと恐れていた。 そんな私が足繁く湖に通うようになったのは、渡し守の少年と友人になったから。 少年の名前はミスラ。真東の朝焼けのような髪が、雪景色に鮮やか。 なんでも大魔女チレッタ様の弟子らしい。すごい。 幼いころから、渡し守をひとりでこなしているらしい。すごい。 しかも泳ぎが得意らしい。どんなに冷たい水の中へ、深く深く潜っていけるそうだ。すごいすごいすごすぎる! 「そうです。俺はすごいんですよ」 ミスラは得意げに笑って、水中に落としてしまった私の髪飾りを掲げた。 「だからまあ、もう泣かなくてもいいんじゃないですか」 髪飾りはびしょびしょ。ミスラが強く握っていたからぐしゃぐしゃ。決して離さないようにと、急いでくれた証拠。 ミスラも頭からつま先までびしょびしょ。凍える真っ白な世界で、寒々しいことこの上ない姿になって。 「あり、ありがと、ありがとぉ…っ」 亡くなった両親がくれた、大切な髪飾りだった。 両親はどちらも人間で、数十年前に亡くなっている。 決して忘れまいと誓っているのに、記憶は年々薄れてきて、二人の声も姿もだんだんおぼろげになっていく。 嬉しさと寂しさと、どうしようもない感情がないまぜになって、私はびいびい泣き続けた。 ミスラは面倒くさそうな顔をして(いつもそんな顔をしている気もするが)、それでも私を置き去りにはせず、だからと言って温かい場所に連れて行くわけでもなく、雪と骨の凍えた島でただただ私の手を握り続けた。 そうして数百年か、千年くらい。世界は緩急をつけながら変化していたが、私たちの関係に大きな変化はなく。 「ミスラ、ピクニックしよう」 鹿肉のサンドイッチを詰めたバスケット。ジャム入りの紅茶のポット。 魔法でほかほかの手土産を見て、ミスラは「いいですよ」と頷き、いつものように舟に乗せてくれる。 「あなた、まだ泳げないんですか」 「お恥ずかしい」 比較的暖かな日だった。シャーベット状になった湖面を、小舟ががりがり進んでいく。 ミスラは島に着くのを待ちもせず、私からバスケットをもぎ取って、サンドイッチにかぶりついている。相変わらず豪快なことだ。 「よく噛んで食べてよね」 「ほひほひ」 「飲み込んでから喋って。行儀が悪いと思う」 「ほうへふは?」 「だーかーらー」 「ぐむっ」 「……ほらね」 案の定、サンドイッチを喉につまらせている。紅茶のコップを差し出したら、ミスラはショットグラスのようにキュッと飲み干してしまった。 「あっ、バカ!」 「あっづ」 「熱いよって言ったじゃん!」 「言ってませんよ」 「……あれ?」 「言ってません」 「……ごめんごめん。大丈夫?」 「ん、ヒリヒリしますね」 ミスラが舌を差し出してくるが、ぱっと見ただけではよく分からない。吹雪いてきて視界も悪くなっていた。 「見せて」 身を乗り出し、ぐっと顔を近づける。ミスラの端正な顔が近づく。綺麗だなあと思う。 「うーん。赤くなってるかな? 痛みが続くようなら、うちに戻って軟膏を持」 言葉が途切れた。ミスラの紅茶味の口に飲み込まれてしまったのだ。 唇が重なる音が、やけに大げさに鼓膜を震わせた。 湖面。氷。吹雪。辺りには冬の音が溢れているのに、まるで紛れず際立っていた。 「……なんで、いま」 「したくなったんで」 「なんで」 「知りませんよ、そんなこと」 「なんで自分のことなのに知らないの」 ミスラはムッとして、私の腰を引き寄せた。バランスを崩す。慌てる間もなく、ミスラの胸に飛び込む羽目になる。 心臓の音がする。速いのか遅いのか分からない。 もしかして私の鼓動かもしれない。こっちは間違いなく速い。 「怖がりませんね」 「何が?」 「あなた湖を怖がってたでしょう。子どものころは岸ですら近づきもしなかったくせに」 「それはミスラがいるから平気になったよ」 私の髪には、今でも両親にもらった髪飾りが着いている。一度は湖底に沈みかけた宝物。びしょびしょのぐしゃぐしゃになって、一層大切になったもの。 「ミスラがいれば、最悪落ちても死なないかなって」 「俺があなたを助けると?」 「え、助けないの?」 「助けますけど」 「なんでここでムスッとするわけ?」 ミスラの胸に手をついて睨み上げると、何故か呆れた表情で見下された。 「俺が側にいて、落とすはずないでしょう」 「…………それはそう、だね?」 「理由は分かってますか?」 「ミスラは泳ぎが得意だから…」 「あなたバカなんですか?」 「いや的を外れた受け答えをしてる自覚はあるんだけど、何の話をしていたのか見失ってる」 噛み合わない会話の最中、ミスラは決して目を逸らさなかった。 つるりと澄んだ眼。この凍てついた湖の底は、ひょっとするとこんな色をしているのかもしれない。すると案外悪くないのだろうか。沈んでしまうというのも。 「――俺は、渡し守をしていると」 「うん」 「いつもいつも、湖畔に運ばれてくる死体が、あなたじゃなければいいと思ってました」 「……うん」 「何百年前だったか、あなたが仮死の魔法を覚えてすぐ、舟の側で死体ごっこをしたことがあったでしょう」 「あったね」 「吃驚して腹が立って、本当に殺してやろうかと思いましたよ」 「う、ごめん」 「あなたを死の国に運ぶなら、俺以外の男には任せたくないと思っていたし」 「……ああ、うん。私も運ばれるならミスラがいいな」 「はあ? だから死なせないって話をしたばかりなんですけど」 「ミスラが言ったんだよ! 今度は本当に言ったからね!」 噛みつくように文句を言ってやったら、私の方が噛みつかれた。唇。正しくは噛みつくようなキス。 「……あのさあ」 「次はいつ顔を見せるんだろうと、待ち構えるのは飽き飽きしました。どこにいようと、あなたを迎えに行く権利をください」 酷く似つかわしい、らしくないほど恭しい仕草で手を取られる。 サンドイッチのように、強引に奪っていっても良いだろうに。変なところで律儀な男だ。 「ミスラ」 「はい」 「千年前から大好きだよ」 「知ってますけど」 「ミスラは?」 「知ってますよね」 ×
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